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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

俳句と川柳の違い

江戸川柳は「ひとごと」、俳句は「私たち」。つまり、川柳って「あいつらは」なんです。何故ならば、江戸川柳の根本というのは江戸にやってきた田舎者を馬鹿にするものだから。(略)「情緒」から出発して「知」に行く。「知」とは滑稽。「情」に流されると上手く行けば短歌になる。俳句は、情に流されまいとして「知」に走って「情」に戻って俳句になる。行きっぱなしだと川柳。(「秋尾敏主宰講評」『軸』第五十四巻第三号通巻第六三九号)

俳句と川柳の違いを論じるときによく引用されるのが〈だいこ引きだいこで道を教えけり/小林一茶〉と古川柳の〈ひん抜いただいこで道を教えられ〉である。一茶句の主語は「だいこ引」(あいつら)であり古川柳の主語は受身だから「(私たち)」となる。主語だけで見ると秋尾敏の説明は逆のようだ。

しかし実際は逆ではない。古川柳は蔑みを読み取れる。なぜなら「教えられ」のあとを省略して読みの焦点をことばの後方へ置いているからだ。その後方にあるのは大根で道を教えられ、憮然とした「私」の顔の滑稽さだろう。顔の表情には価値判断があり、その価値判断はきっと大根引の「ひん抜いた」調の横着さへの蔑みである。まさに「あいつらは」であるし、省略を使い余白の読みを促す手法は「知」に走っている。一方で一茶句は「けり」と言い切って価値判断を保留し、「知」へ走らず「情」へ戻っている。そして読みを「私」の価値判断の保留について共感させる方へ促して、句の中心を「私たち」へ引き戻している。主語や季語や切れ字など形として何が書かれているかではなく、読みを「あいつらは」それとも「私たち」、「価値判断」それとも「価値判断の保留」のどちらへ促す言葉遣いかで俳句と川柳は区分される。