以太以外

蒼褪めた巨漢は笑う水澄んで 以太

梅雨明け微分方程式

『円錐』第八十六号が届く。第四回円錐新鋭作品賞受賞者最新作を読む。「天国があると思って話していた」より〈なつのまち鏡のなかになつのまち/来栖啓斗〉上五が漢字で下五が仮名に開いてなんて無様ではなく、両五とも仮名、素晴らしい。「みんな」より〈東京タワーみたいなタワー明易し/千野千佳〉黝さのなかに模造品じみた都市景観が見える。あとは〈友達の少なき人と肉桂水/佐藤日田路〉〈トラベルの語源拷問草いきれ/植田井草〉〈自らに吐く暴言や髪洗ふ/西川火尖〉〈ひらめきの形をしたる氷みづ/沙山〉〈夏安居めきてSECOMのきいた部屋/高村七子〉〈黒板に嫁にいけよと書きて夏/砂山恵子〉〈新しいシャンプーきしみ指に夏/牧野冴〉など。

檜葉記(二)

現代俳句協会青年部による「翌檜篇」(20)『現代俳句』令和二年八月号を読む。「でも」から〈機影また雲間に消ゆる夏野かな/内野義悠〉「機影また」から夏野を覆う空の高さと大きさとを想像させる。その空や雲を含めて巨大な「夏野」であるかのような連体形。「夏と雲」から〈人間が猿の時から夏の雲/西澤日出樹〉猿人やそれ以前から変わらないだろう夏雲と今も変わりつつある人間との対比、悠久への憧れ。「雲を跳ぶ」より〈人間に翼なくとも夏の空/石原百合子〉人間に翼があれば夏の空を飛べるかもしれないという夢想を見せながら現実的な「翼なくとも」で引き戻す表現が、夏の空への感情をゆさぶる。そして〈八月のもはや何にもなれぬ雲/石原百合子〉「もはや何にもなれぬ」は普通は人にかかる、でも雲にかかることで人の天上的ありかたとしての死をも思わせる。

うらがわの雲を知らない夏休 以太

千種創一『千夜曳獏』青磁社

また景色を見たくて『千夜曳獏』を読む。〈でもそれが始まりだった。檸檬水、コップは水の鱗をまとい/千種創一〉「水の鱗」は想像への衣として。〈あらすじに全てが書いてあるような雨の林を小走りでゆく/千種創一〉一が千であり千が一となるような、連続としての雨の林を思う、その果てしない寂しさも、思う。〈外は嵐。水族館のくらがりにあなたは雨垂れみたいに喋る/千種創一〉嵐、雨の水族館という無人島みたいな場所で、喋り続ける。〈夏の夜の底だね、ここは、鉄柵を指でしゃららと鳴らしつつゆく/千種創一〉夏の夜の、名前のない場所の淡い記憶として。〈そんなつもりじゃないんだろうな牛乳のパックに描かれた空に触って/千種創一〉ファミリーマートで売られている牛乳パックの青空とかを思う。間違って貼られた画像のような。〈夕暮れのような暗さのアパートの、あなたは脱衣所を褒める/千種創一〉不動産短歌、昭和を愛する人のための脱衣所が穿たれている。たぶん陶器のタイルとか貼られている。〈冬至より夏至は慈しみが深い スプーンにスプーンを重ねて蔵う/千種創一〉「スプーンにスプーンを重ねて」の丁寧さは〈曖昧のなかにひそんだ愛が好き 箸で海苔から海苔をめくった/千種創一〉にも現れている。〈充足を愛してはだめ したあとで床に濡れている花の髪留め/千種創一〉「充足」も何かの性器のように濡れている。〈飲みさしのシードル二本 悪魔だって悪魔に会えると嬉しいんだよ/千種創一〉死神は林檎が好きだというけれど。〈暗くして冷やせば部屋は真夏からとても遠くに来ちゃった、僕ら/千種創一〉夜のよく冷房の効いた部屋は宇宙船のように飛行してゆく。〈もう会えないという事実がこうこうとネオンのように光る木屋町/千種創一〉京都の別れの灯りは高瀬川の水面に映る。〈感情があなたへ流れていくときの中洲に鷺は立ち尽くすのみ/千種創一〉津波のような激しさに立ち尽くすのみの、僕の分身としての鷺。〈筆を折った人たちだけでベランダの季節外れの花火がしたい/千種創一〉磨き尽くし、そして出し尽くし、ついには枯れ尽くした人たちの「季節外れの」酔狂として花火、そこはギラギラしたものがなくて黄昏ていて良いのだろう。擱筆家たちの楽園のような、老人ホームのような。〈汐風から塩を取り出すようにしてあなたは語る遊郭のこと/千種創一〉その遊郭資料はほとんど残っていない、赤線時代は砂のように吹き消された。断片をつなぎ合わせるように遊郭史を語る。それとも多くの男女がつかんだという階段の手すりについてはおおっぴらには話しにくくて。〈八日目の創造をしよう。水底に散らばる活字を拾い集めて/千種創一〉の景も〈飲み干せばペットボトルは透きとおる塔として秋、窓際に立つ/千種創一〉の景もキラキラと輝いている。

馬場めぐみ「たわむれ」『文藝誌オートカクテル』白昼社

浜松市の夜の街から三十人の感染者が出た日、『文藝誌オートカクテル2020』収録の連作「たわむれ」を読む。与えられた生とは理不尽の別の名なのかを考えながら。〈ひとの頬ほどに眩しく明日には腐っていたかもしれない桃だ/馬場めぐみ〉「明日には腐っていたかもしれない」に意表をつかれる、つまり、もう食べたのだろう。〈ここにしかわたしはいない2days公演はない、照明は消える/馬場めぐみ〉一度きりの人生とは少し安っぽい劇団公演のようだ。

 

一万回を超える練習もし眠ることが死の予行演習ならば 馬場めぐみ

松村由利子『耳ふたひら』書肆侃侃房

もし世が世なら東京オリンピックの開会式がある日、『耳ふたひら』を読む。〈都市の力見せつけているキオスクの朝刊各紙の厚き林立/松村由利子〉田舎のコンビニには都市の駅のキオスクほど朝刊を揃えていない、キオスクの朝刊は都市の兵站力を見せつけている。〈種を持たぬ果実の甘さ思わせるやさしい人の淡きかなしみ/松村由利子〉一代限りのやさしさ、なのかもしれない。〈至福とは夏の終わりの午後に読む『ドリトル先生航海記』かな/松村由利子〉航海記の遥かさと広がりは夏の読書に合う。〈濡れた手でさわらないでね明け方の心は染みになりやすいから/松村由利子〉明け方の心は枯れており水分を含みやすい。

池田澄子『此処』朔出版

毎朝毎夕兜虫の雄か雌かと鉢合わせる日々に池田澄子『此処』を読む。〈花冷えのこころが体を嫌がるの/池田澄子〉では気温の低下による鬱気な心を主体とさせ、〈花ふぶき体がこころを捨てたがる/池田澄子〉では風が体を主体とさせる。〈満潮の河の厚みと百千鳥/池田澄子〉「満潮の河の厚み」が生き物めく、その懐に百千鳥はひそむし、囀はその厚みに含まれる。〈蓬莱やプラスチックは腐らない/池田澄子〉正月の蓬莱飾りもプラスチック製に。もし海に流れたらどうなるのか。〈窓越しの木々に風立つ水饅頭/池田澄子〉窓や風の透け感と水饅頭の透け感の共鳴だろう。〈藤重く垂れて心の端に触れる/池田澄子〉心の端はどこまでか、毛先か頬か。〈羽蟻の夜そう読めば遺書ともとれる/池田澄子〉解釈の違いですね。〈老いし竹の倒れ凭れも竹の春/池田澄子〉「倒れ凭れ」が枯木も山のにぎわいっぽくて楽しそう、竹の春だし。秋でも字面が「竹の春」だから楽しくていい。〈散る木の葉この世に入ってくるように/池田澄子〉コノのリフレイン、木の葉はあの世に生えていた。〈食卓はなんでも置けて去年今年/池田澄子〉なんでも置けてなかなか下ろせない。そのまま年を越す。〈花ふぶき地に着かぬよう着かぬよう/池田澄子〉いずれは着くまでの時間を拡張している。〈どしゃ降りの夜や金魚が藻に凭れ/池田澄子〉どしゃ降りで疲れているのは人だが、人の疲労感が金魚に投影されている。

石段に水溜りあり山法師 池田澄子

北大路翼『見えない傷』春陽堂書店

湯豆腐とヨーグルト、遺句集として読む。〈一月の茶碗の中の山河かな/北大路翼〉一月の茶碗の中には一月の川や一月の谷が収められている。趣味人の模型のような造形、さまざまな角度から見る。〈湯煙は常に流れて寒桜/北大路翼〉冬風の吹く温泉街のさりげない人情を寒桜として描く。〈春の風邪底の見えないヨーグルト/北大路翼〉いつ治るのか分からない、底知れぬ風邪だろう。ヨーグルトを噛めなくて息苦しいのかも。〈苦瓜の表面にまだ時差がある/北大路翼〉表面はまだ異国情緒でゴツゴツしている。〈冷房が言ふこと聞かぬラブホテル/北大路翼〉思い通りにならないのは冷房も恋愛も同じ。〈撮られゐることを知りつつ髪洗ふ/北大路翼〉それがリベンジポルノになるかもしれなくても。〈終電を逃したやうな梨の皮/北大路翼〉化粧が剥がれてしまって。〈替玉が数秒で来る獺祭忌/北大路翼〉大食漢の正岡子規に現代風味を加える。〈手袋にやさしい闇が五つある/北大路翼〉ほとんどの人が知っているのに意識していない、手袋の深奥にあるやさしさ。〈入り口が東西にある梅の庭/北大路翼〉ディオニュソス軸。〈花冷えの麻雀牌の彫り深し/北大路翼〉花冷えに牌の感触の冷たさ、彫りの深さに花の哀れさがある。〈汗を拭く竜王戦の顔をして/北大路翼〉棋界一の大金がかかったような汗だ。〈枇杷の花水道代が払へない/北大路翼〉枇杷の花は汚らしいし貧乏くさい。土手に枇杷の木があり、その川に面したボロアパートとか。〈ふらここで性交したくなる陽気/北大路翼〉ふらここの振動を活用してもいいし、此処でもいい。〈消費税10パーセント川床料理/北大路翼〉川床はお持ち帰りにならず、軽減税率の対象にならないという視点。〈神様をブルーシートで包む冬/北大路翼〉聖と俗のドキッとさせるような邂逅。〈終電の次の電車は雪の中/北大路翼〉虚のたのしさ。

資本とは心の病気あかとんぼ 北大路翼

「凍港」『山口誓子句集』角川書店

続く梅雨に「凍港」部分を読む。〈鏡中に西日射し入る夕立あと/山口誓子〉西日と鏡に照り返された西日とで二倍明るさを強調された夕立あと。〈鱚釣りや靑垣なせる陸の山/山口誓子〉陸くが、鱚釣りなのに周囲を取り巻く山々へ着目させる景作り。〈競漕の空しき艇庫汐さしぬ/山口誓子〉「空しき」は言い過ぎだが、競技そのものではなくその準備場所への眼差しは意外で好ましい。〈大學の空の碧きに凧ひとつ/山口誓子〉企図の大きさと希望、とは言い過ぎか。カラリとした句だ。〈扇風器大き翼をやすめたり/山口誓子〉は競漕句と同じく中心から視線を逸した。今度は場所の辺境ではなく時間の辺境である。〈捕鯨船嗄れたる汽笛をならしけり/山口誓子〉汽笛ふえ、捕鯨史の長さ深さを感じさせる「嗄れたる」。〈海は春入渠の船のうすき煙/山口誓子〉霞がかっているために煙はうすく見えるという春の港、「うすき煙」としたことで入渠のゆっくりさが強調される。薄さや淡さは遅さ。なぜか、なんとなく。〈月食の夜を氷上に遊びけり/山口誓子〉月蝕のために怪しげな雰囲気を醸すようになったスケート遊び。

「幻燈」『林田紀音夫全句集』富士見書房

筑後川が氾濫した日、「幻燈」部分を読む。〈少女が黒いオルガンであった日の声を探す/林田紀音夫〉女の子は黒いオルガンとともに歌っていた時代を振り返っている。その声の思い出とともに、思い出のありかを探している。〈体温を風にさらわれ親身な河口/林田紀音夫〉身体から風が体温をさらうのは陸地という河から海へ水が流失するのと似ている。〈雨が傷めた少年の肩突込む夕刊/林田紀音夫〉雨に濡れ肩を冷やしながら新聞配達をする少年を見ている。ボクサーになるのかもしれない。〈いつか星ぞら屈葬の他は許されず/林田紀音夫〉二点だけ「いつか星ぞら」は五十億年後であり、「ぞら」と開いたのは「そ」の字の屈葬性のため。〈濡れて消える煙草証言の後に似て/林田紀音夫〉証言とは煙草の煙のようなあやふやさを帯びたものだろう。〈旋盤に油余つて祭来る/林田紀音夫〉鉄工場と祭は切り離せない。〈生きものの地上の夜を悲しむ灯/林田紀音夫〉ふと、夜の帰り道につぶやきたくなる句だ。〈他人の眼鏡に銀いろの河ジャズ途切れ/林田紀音夫〉「銀いろの河」も「ジャズ途切れ」も唐突ではあるけれどいずれも夜空と黒人のサングラスなどを思わせる。〈ピアノは音のくらがり髪に星を沈め/林田紀音夫〉ピアノの音はどこか物悲しい。〈雨の飛行音そのあとに母胎の眠り/林田紀音夫〉現代人なら飛行機の客室内が母胎と似ていることは知っている。遠さと近すぎる遠さと。〈窓にびつしり青ぞら算盤の指走り/林田紀音夫〉事務系会社員の昼というべき、びっしりは社会の圧だ。〈歩きはじめてこがらしの声聞く幼児/林田紀音夫〉這い這いの泥濘から立ち上がり、押し寄せる孤独。〈日時計に荒寥と血の匂い絡む/林田紀音夫〉日時計に死の匂いがするのは生が死への道に過ぎないからか。〈底のウイスキー鳥類は黒くはばたき/林田紀音夫〉揮発性の鳥類として。〈死者もまじえて雨傘の溢れる都市/林田紀音夫〉死者の民主主義を、雨傘という濡れた器具で表現した。〈鬼の棲む三日月を見せ肩ぐるま/林田紀音夫〉三日月の尖りは鬼の角だよ、などと教える。〈つながれている山羊ながく毀れた空/林田紀音夫〉山羊の隠者めく顔は価値観の損壊を思わせる。

馘首の前の青空がある拭かれた窓 林田紀音夫

『明石海人歌集』岩波文庫

かりん糖を貰った日、『明石海人歌集』を読む。〈とりとめて書き遺すこともなかりけむ手帖にうすき鉛筆のあと/明石海人〉は〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ/林田紀音夫〉と並べられる。「うすき鉛筆」は世への未練か。〈大楓子油注射のときを近づきて口覆の上に黒む瞳なりし/明石海人〉口覆はマスク、看護婦の思い出、救いのような残像のようなものか。〈ソクラテスは毒をあふぎぬよき人の果は昔もかくしありけり/明石海人〉ソクラテスが「よき人」であったかどうかは判断する人に因るし、それはよき人より服毒死への憧憬だ。〈うすら日の坂の上にて見送れば靴の白きが遠ざかりゆく/明石海人〉靴の白さが光として、残像としていつまでも残る。〈まじまじとこの眼に吾子を見たりけり薬に眠る朝のひととき/明石海人〉いつ見えなくなるともわからない一瞬一瞬を、見る。〈切割くや気管に肺に吹入りて大気の冷えは香料のごとし/明石海人〉「香料のごとし」という感覚の生々しさ。〈蒼空の澄みきはまれる昼日なか光れ光れと玻璃戸をみがく/明石海人〉祈りのように磨く。〈蟬の声のまつただなかを目醒むれば壁も畳もなまなまと赤し/明石海人〉目覚めると夕陽の赤に囲まれる、この赤は〈手にのこるけだものの香のけうとさは真紅にかはる海を想へり/明石海人〉にも。〈傷つける指をまもりてねむる夜を遥かなる湖に魚群死にゆく/明石海人〉指の傷のため犠牲になる魚群のような、ひとつの不安を守るために死んでいく世界のような。〈そんなことちつともないと言ふ貌に半透明な心臓がのぞく/明石海人〉半透明な心臓は模型か、見え透いた心なのか。〈空はもうかすんでゐるのにこの朝の海へ落ちこむ沢山な蝶/明石海人〉「もう〜のに」はもうその必要がないのに。

地図のある小説/鈴木ちはね

梅雨、流れ着くように届いた『bouquet, 2020』稀風社が郵便受箱に立っていた日、連作「地図のある小説」を読む。〈地図のある小説の良さ この世界も地図のある小説であればいい/鈴木ちはね〉地図のある小説というとファンタジー小説がぱっと思いつく。いまだらだらと三度目を読んでいる佐藤大輔皇国の守護者』も地図がある、ほとんど地図は見ていないけど。オズの魔法使いにも指輪物語にもゲド戦記にも地図があった。そういえば十二国記も。ファンタジー小説は読み手や作者からすると「思いのまま」のように思えるのだろうけれど作中主体からすると理不尽なことが多いものだ(と断定する私はどこの世界の住人だろう)。ただファンタジー地図を眺める分には楽しそうに思えるだろうし、その感覚は旅行計画時を地図帳を見るのと似た感覚のはずで、だから「地図のある小説の良さ」とは小説の内容の良さというより、小説に地図があること、それから読み手が自由に冒険を想像できることの良さなのだろう。この世界が「地図のある小説であればいい」というのも読み手の解釈が巨大な思想体系によってひとつに固定されることなく、自由に解釈できる世界であればいいという願いなのかもしれない。〈ビルの窓も開けばいいのに開かなくて敗戦国に雨が降っている/鈴木ちはね〉、これについては乾遥香が「わたしのための鈴木ちはね入門」で引用していた歌〈日本がまた戦争をやるとして勝つイメージが湧かない 大変だ/鈴木ちはね〉「感情のために」をなんとなく置いておく。ビルのはめ殺し窓は制空権を奪われ都市に空襲されるようになってしまった敗戦国における窓の目張りを連想させる。しかしはめ殺し窓によりビルのなかの人は一滴も雨に濡れていない。「開けばいいのに開かなくて」でもその窓によって実は敗戦国の人も何らかの害から守られているのかもしれない、たとえば戦争とか、それとも恋愛とか。

『宮柊二歌集』岩波文庫

牛乳を飲んだ日、『宮柊二歌集』を読む。〈かうかうと仕事場は灯の明くして夜深き街を旋風過ぎたり/宮柊二〉夜業のいつ果てるともない不安、心の荒涼。〈ちりぢりに空の高処をひかりつつ小鳥わたれり山は寒しも/宮柊二〉失意の地を睥睨するかのような小さき空飛ぶ生命たちへの羨望だろう。〈道の辺に片寄せ敷かれし貝殻をこの夜踏み帰るあやしきまで酔ひて/宮柊二〉貝殻の割れる乾いた音が酔いのあやしさを際立たせる。〈日蔭より日の照る方に群鶏の数多き脚歩みてゆくも/宮柊二〉数多き鳥脚の奇怪さ。〈つき放たれし貨車が夕光に走りつつ寂しきまでにとどまらずけり/宮柊二〉引力を失い、つきはなされた心よ。〈軍衣袴も銃も剣も差上げて暁渉る河の名を知らず/宮柊二〉ただ義務として機械のように渡る。〈ある夜半に目覚めつつをり畳敷きしこの部屋は山西の黍畑にあらず/宮柊二〉山西はさんしい、戦場がいつまでも脳裏を離れない。〈孤して椅子に倚るとき厨べに妻がいく度も燐寸擦る音/宮柊二〉無気力と隣り合わせの生活と。〈おとろへしかまきり一つ朝光の軌条のうへを越えんとしをり/宮柊二〉朝光はあさかげ、越えられたかどうかより、越えんとすることの方が大事なのだ。〈/宮柊二〉〈七夕の星を映すと水張りしたらひ一つを草むらの中/宮柊二〉星を映しかつ夜闇のなかに張られた盥の水という潤い。〈夜の汽車無くなりてよりレール更ふる作業の重き音のきこゆる/宮柊二〉夜間作業への、工夫への同情心がある。〈仰向きに芝生に臥せば青空のおくかも知れぬ青さわれを惹く/宮柊二〉青空の奥にある青色を見たかもしれないという淡い希望の尊さがある。〈休日の百貨店の側つやつやと油ひきたるごとき鋪道ぞ/宮柊二〉側はわき、なんてことない、寧ろつまらない景色も言葉の置き方ひとつで歌いあげる情景となる。「油ひきたるごとき」の鋭さ。〈硝子戸に額押しあてて心遣る深きこの闇東京が持つ/宮柊二〉「東京が持つ」という把握への感嘆、硝子戸にべったりと額の脂がこびりつくだろう。すっかり疲労した夜に。〈元日のしづけき時刻百舌群るる欅冬木に日のあたりゐつ/宮柊二〉元日の清澄と百舌鳥の血腥い音との対比がある。〈寂しかる空間や貨車と貨車つなぐ鋼の黒き連結器見え/宮柊二〉寂しいとされる空間に屈曲な黒鉄が見える、頼もしさ、いや恐怖か。

おとうさまと書き添へて肖像画貼られあり何といふ吾が鼻のひらたさ 宮柊二

与謝野晶子『みだれ髪』新潮文庫

枇杷が発芽していたのを知った日、『みだれ髪』を読む。〈その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな/与謝野晶子〉いまの二十歳は子どもだけれど明治期の二十歳は年増である。その子は令和期では二十代なかばから三十歳までの感覚だろうか、それでも若く、少し世も知っている。ゆえに驕りは美しい。〈清水へ祗園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき/与謝野晶子〉京都観光の高揚感とは何だろう。いまの新宿歌舞伎町でそんな高揚感を感じられるのだろうか。〈ゆあみして泉を出でしやははだにふるるはつらき人の世のきぬ/与謝野晶子〉心の稚さを肌の稚さへ喩える。〈こころみにわかき唇ふれて見れば冷かなるよしら蓮の露/与謝野晶子〉エロスを秘める唇肉の冷感で終わらせず蓮の露という景へ飛ばす。露、それは涙のようで。〈牛の子を木かげに立たせ絵にうつす君がゆかたに柿の花ちる/与謝野晶子〉牧歌的な、とは安易か。白が目に残る。〈手をひたし水は昔にかはらずとさけぶ子の恋われあやぶみぬ/与謝野晶子〉いつまでも変わらない恋なんてありませんよと諭すように。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 与謝野晶子

『若山牧水歌集』岩波文庫

「死か芸術か」以降の部分をざっと読む。〈浪、浪、浪、沖に居る浪、岸の浪、やよ待てわれも山降りて行かむ/若山牧水〉山道をおりて開けた場所に出て、どうっと海が広がったのだろう。「、」は寄せて返す浪の間だ。〈なにゆゑに旅に出づるや、なにゆゑに旅に出づるや何故に旅に/若山牧水〉は〈ぼくたちはこわれてしまったぼく たちはこわれてしまったぼくたちはこわ/中澤系〉の原形とも言うべき。〈われを恨み罵りしはてに噤みたる母のくちもとにひとつの歯もなき/若山牧水〉罵られても平静か視線を保つのは家族相手ゆえに。〈朱欒の実、もろ手にあまる朱欒の実、いだきてぞ入る暗き書斎に/若山牧水〉灯りのような果実としてのザボン。〈日本語のまづしさか、わがこころの貧しさか海は痩せて青くひかれり/若山牧水〉言語能力が世界の姿を変える。〈すたすたと大股にゆき大またにかへり来にけり用ある如く/若山牧水〉「用ある如く」の諧謔。〈夕かけて風吹きいでぬ食卓の玻璃の冷酒の上のダーリア/若山牧水〉滅びゆく寂しさの味がしみわたる。〈わびしさや玉蜀黍畑の朝霧に立ちつくし居れば吾子呼ぶ声す/若山牧水〉望郷のような幻聴。〈古汽車の中のストーヴ赤赤と燃え立つなべに大吹雪する/若山牧水〉「燃え立つ」がストーヴなのか鍋なのか判然としなくいけれど、昔の旅の風情だ。〈麦ばたの垂り穂のうへにかげ見えて電車過ぎゆく池袋村/若山牧水〉「池袋の女」伝奇を下敷きにしていそう、谷間としての昔の池袋村を。

檜葉記(一)

伊那から帰った日、現代俳句協会青年部による「翌檜篇」(19)『現代俳句』令和二年七月号を読む。「目印」より〈厚あげの断面ほどの冬銀河/珠凪夕波〉厚あげという厨のなかの卑近と銀河という宇宙規模の広大さを並べたところに興が起こる。厚あげの白さが、鍋の温かさや雪の白さをも連想させる。「木箸」より〈人といて喉のトマトの青臭さ/三嶋渉〉トマト=赤という定式を崩して、なおかつ表現は喉を過ぎる言葉の「青臭さ」まで及んでいる。青春になり損ねて崩れるトマトよ。「白玉抄」より〈蜜豆や話途端に切り替はる/中西亮太〉蜜豆や白玉は〈蜜豆をたべるでもなくよく話す/高浜虚子〉を始め対面の景がよく添えられる。吟行句ならその確率は跳ね上がる。蜜豆は甘さより赤豌豆と求肥と寒天の歯ざわりの違いが際立つ食べ物であり、「話途端に切り替はる」は対面の楽しさという蜜豆の古い本質を捨てず、食感という蜜豆の新しい本質を切り拓いている。