以太以外

蒼褪めた巨漢は笑う水澄んで 以太

芭蕉翁奥之細道行脚より三百年記念

浜松市中区菅原町はJR東海道本線高架北側に堀留ポッポ道という緑道がある。国鉄浜松工場の工場線跡地を整備した緑道で、ケ91タンク機関車が展示されているらしい。そこに「芭蕉翁奥之細道行脚より三百年記念」と題された脇起の歌仙碑が建つ。おくのほそ道の行脚は1689年から1691年なので平成一桁あたりに巻かれた歌仙だろう。

歌仙について

淡里・洞光・山外の三人による三十六句の歌仙形式で発句は〈秣負ふ人を枝折の夏野哉/翁〉、脇はたぶん〈時津風にて実る桜桃/淡里〉だろう。そして挙句は〈大凧小凧砂丘とよもす/執筆〉。くずし字と変体仮名が使われ知識がないと難読だが〈婚期過ぎると父母はやきもき/山外〉〈買い手と知らず馬が㒵出す/洞光〉など楽しい平句や〈バイブルを説き家路忘れし/淡里〉など現代的なテーマの句もある。

登場人物について

山外は浜松の佳月庵四世森月鼠の連衆だった神谷山外、洞光は「春惜むの巻」の独吟があり龍潭寺に〈朝々に金衣公子の節を見る/洞光〉や他に〈貝魚声あり月の舘山寺/洞光〉などの句碑がある白川洞光だろう。淡里は誰か分からなかった。

芭蕉翁奥之細道行脚より三百年記念句碑、堀留ぽっぽ道

茘枝

〈茘枝手に人造少女の目に原野/中嶋憲武〉(『祝日たちのために』港の人)の基底部は「人造少女の目に原野」。雑草の生えるまま生命の奔放たる原野を眺めるのは、人の手により計画的に作られた少女の眼球。その基底部への干渉部は「茘枝手に」、茘枝はここでは蔓茘枝こと苦瓜ではなくライチの実だろう。というのは苦瓜では色が緑色系に固定されて景がぼんやりするのに対し、ライチならばその実は少女の眼球を連想させかつ赤みがかった黒が景の焦点となり景全体をひきしめるからだ。茘枝はそれを持つ人造少女が抱く、生命の奔放への願望だ。

 

田島健一『ただならぬぽ』ふらんす堂

ガスコンロが点かず、リアタイヤが斜めな日、田島健一『ただならぬぽふらんす堂を読む。〈蛇衣を脱ぐ心臓は持ってゆく/田島健一〉脱がれる蛇衣のなかで何が行われているかを人は知らないがゆえに、「心臓を持ってゆく」は斬新さと適切さを備えている。〈帆のような素肌ラジオのように滝/田島健一〉帆とラジオで夏空へ景が広がる。そして滝風を浴びる素肌。〈郵便の白鳥を「は」の棚に仕舞う/田島健一〉「し」の棚ではないということ。〈家のところどころを直し潤目鰯/田島健一〉日曜大工のあとSh音が脳に残る。〈寒椿空気のおもてがわに咲く/田島健一〉空気のおもてがわとは裏拍に対する表拍のようなものか。〈芽吹く江ノ島天国のようなパーマ/田島健一〉橋を渡って行ける極楽浄土のような春先の江ノ島、そこにいたパンチパーマの男。〈菜の花はこのまま出来事になるよ/田島健一〉出来事は「ふと、起こった〈こと/事件〉」(三省堂国語辞典第七版)、「ふと」のさりげなさが菜の花っぽい。〈遠雷やぽっかり空いている南/田島健一〉北と南であきらかに雲の量と空の色が違う景の大きさ。動の北と静の南と。〈内側の見えぬ小学校に雪/田島健一〉外側だけは見えていて、内側は確かに存在するはず。その外側を覆うように降る雪、内側はますます遠くなる。内側は明治なのかもしれない。

着ぶくれて遊具にひっかかっている 田島健

塩野谷仁『夢祝』邑書林

西部清掃工場を見学した日、塩野谷仁『夢祝邑書林を読む。〈噴水のむこうの夜を疑わず/塩野谷仁〉噴水のこちらの夜と噴水を通して向こう側にある夜とが異なるかもしれない、なんて思わせる夜の噴水の魔力。疑わずとは疑念ありということ。〈短夜のはるかなものに土不踏/塩野谷仁〉「はるかなもの」と大きく出て土踏まずと矮小に、夏の夜ならどこへでも足で歩いて行けそうな気になる。〈鳴けぬ虫きつといる筈虫しぐれ/塩野谷仁〉きっと自分もかつては「鳴けぬ」側だったのだろう〈啞蟬をいくつ囲んで蟬しぐれ/塩野谷仁〉も似た視点。〈ポケットに黒豹のいる二月かな/塩野谷仁〉二月の夜、忍びよるような静けさ。〈やわらかく剃刀つかう花の闇/塩野谷仁〉光に満ちた冷たさが花の闇と剃毛の肌に残る。〈青梅に触れれば遠き日の火傷/塩野谷仁〉疼くような青梅の瑞々しさは火傷の痕にも似て。

分別のなき日なり蝶真白なり 塩野谷仁
浜松市西部清掃工場

俳句の基底部と干渉部

〈山里は万歳遅し梅の花芭蕉〉について、

俳句の興味の中心を占めるのは、強力な文体特徴で読み手を引きつけながら、それだけでは全体の意義への方向づけをもたない(あるいはその手がかりがあいまいな)「ひとへ」の部分、行きっぱなしの語句である。これを「基底部」と呼ぼう。一方、さきの句の「梅の花」のように、その基底部に働きかけて、ともどもに一句の意義を方向づけ、示唆する部分を、「干渉部」と呼ぶことにしよう。(略)黒はどこまでも黒い、黒よりも黒いという「誇張法」hyperboleと、それから、黒白という両極端を持ち出して、黒は白い、実は白なのだという「矛盾法」oxymoronとである。(略)俳句は基底部内の誇張(重複)と矛盾(対立)によって文体的興味をそそり(矛盾を本質とする)、干渉部との重複や対立によって一句の意義を方向づける(重複を本質とする)という基本構造をもっていることがわかる。(川本皓嗣『日本詩歌の伝統』岩波書店

俳句を基底部と干渉部から成り、修辞法には矛盾と誇張の二種あるという説。川本は特に基底部を重要視する。

基底部に表現面の矛盾を含まないものは、そもそもはじめから句の体をなさないのであって、少なくとも芭蕉以後に関するかぎり、いわゆる「俳諧根本」としての滑稽あるいは「俳意」は、まさにそうした基底部の文体上の意外性を指すものと考えられる。(川本皓嗣『日本詩歌の伝統』岩波書店

ただし〈行く春を近江の人と惜しみける/芭蕉〉のように句全体が基底部で「近江」が干渉部の役割を果たす句もあるという。中島斌雄の「屈折」や「曲輪を飛びだす」などが「基底部の文体上の意外性」や斬新さにあてはまるだろう。そして基底部と干渉部のつなぎ目は切れとは限らない。

 

 

藤永貴之『椎拾ふ』ふらんす堂

第3回浜松私の詩コンクール浜松市長賞をいただけるとハガキで知らされた日、藤永貴之『椎拾ふふらんす堂を読む。〈一滴を余すことなく瀧凍てにけり/藤永貴之〉この全と一の対比へのこだわりは〈瀧水の全部が粒に見ゆるとき/藤永貴之〉はもちろん〈若布刈舟一つ遅れて加はりぬ/藤永貴之〉にも見える。〈閉園の楽とぎれ噴水とぎれ/藤永貴之〉同時にとぎれたのではなく次々に、賑やかさと勢いと、それらの消滅と。〈穴惑流れに落ちて流れけり/藤永貴之〉惑っているからコントのように流れけり。〈黴の宿釘一本の帽子掛/藤永貴之〉宿としては意外性に満ちており、黴の宿ならもしかしたらありそうかなと思える程よい感じの、武骨な釘一本。〈流星やボンネットまだあたゝかく/藤永貴之〉流星の余韻とボンネットにある何かの余熱との共鳴。〈冬雲のとぎれめのなくひろごれる/藤永貴之〉「とぎれめのなく」に呼吸できないほどの厚ぼったさと織物めく繊細さが同時に共存する。〈三日月の何照らすなく落ちかゝる/藤永貴之〉「何照らすなく」はいちいち心に留めないということ。こだわりなく落ちる。〈蟷螂の創ひとつ無く死んでをり/藤永貴之〉中七と下五はよく考えれば矛盾しないけれど、創ひとつで死ぬこともあるのだから一読ではふと違和感が芽生えるかもしれない。

伊都國の夜の暗さや牡蠣啜る 藤永貴之

中嶋憲武『祝日たちのために』港の人

狭義の単調減少ならば単射なので逆関数が存在する日、中嶋憲武『祝日たちのために』港の人を読む。〈いなびかり群馬練馬をすみれいろ/中嶋憲武〉M音の暴力が脳裏に稲光のように菫色の傷として残る。〈品川の底冷粗品知る暮らし/中嶋憲武〉サ行に擦れゆく都会暮らし。〈ぽーつとしてとほい菜の花傘より雫/中嶋憲武〉「ぽーつ」の擬態語は傘を持つ人そのものであり、その人のつぶやきのように傘から垂れる雫であり、田園風景の片隅にある菜の花の曖昧さ。〈辛い教訓虹に書かれるべき言葉/中嶋憲武〉教訓と言葉は対義語のようで、スペクトラム、半ば融合している。〈傘ひらく音して古き蜥蜴あり/中嶋憲武〉傘ひらく音は雨の予感であり、一方的に降る雨をはねのけ、遡る時間の端緒でもある。〈空風のからりと影の生えてくる/中嶋憲武〉空風に揺れる木や剥がれる板の影が増える。それは生の裏側で繰り広げられる世界の伸展である。

サンドウィッチの匂ひのなかの蜃気楼 中嶋憲武

中村安伸『虎の夜食』邑書林

この以太以外を開設して二年経つ日、中村安伸『虎の夜食邑書林を読む。〈百色の絵具を混ぜて春の泥/中村安伸〉春の泥はこれから咲くだろう、芽吹くだろう様々な色をすでに百色含んでいる濁色。〈自転車の籠の中なる雪だるま/中村安伸〉「なる」、この勢いは、自転車の前籠に雪だるまだろう。〈星を踏む所作くりかへす立稽古/中村安伸〉禹歩。〈地球儀を地球でつくる花水木/中村安伸〉地球儀を地球でつくるというボルヘス的な地図作製の営為のほか、水と木とが五行説の二つであるゆえに花が第六となりそうな。花曜日ができるだろう。〈心臓を抜いてギターのできあがり/中村安伸〉ギターの原型には心臓があり血が通っていたというなら、弾かれるギターとは抜け殻か。〈レコードの上の軍艦夏来る/中村安伸〉黒々と鉄の軋む音。〈燃えるピアノの上に無疵の胡桃かな/中村安伸〉ピアノは燃えつつ鳴っている。その上に置かれた胡桃のように無疵でありたい、いや無疵であると信じたい。〈印度からお茶が来そうな梅雨晴間/中村安伸〉大航海時代のからりとした空。

いろいろなをんなのからだ遠花火 中村安伸

鴇田智哉『凧と円柱』ふらんす堂

新型コロナウィルス感染症が流行しているため翌日の名古屋出張が中止になったと知らされた日、鴇田智哉『凧と円柱ふらんす堂を読む。〈あぢさゐへ通じる鼻のやうな道/鴇田智哉〉鼻毛の濡れる鼻腔のように、雨上がりで湿った道だろう。〈咳をするたびに金具のひかる家/鴇田智哉〉家のなかの化学反応と咳との因果関係を想起させる。〈まなうらが赤くて鳥の巣の見ゆる/鴇田智哉〉まなうらが赤いのは目を瞑っているから。なのに「見ゆる」のは連続するまばたきであり、それは親鳥のはばたき、でもある。〈蜜蜂のちかくで椅子が壊れだす/鴇田智哉〉蜂の翅音には破滅の予兆音が潜む。〈複写機のまばゆさ魚は氷にのぼり/鴇田智哉〉氷も日に光り、のぼった魚を複写するだろう。〈顔のあるところを秋の蚊に喰はる/鴇田智哉〉顔を喰はるとしなかったのは自分からは顔を見られないから。たぶん顔だろう、そんな感覚のあるところを蚊に喰われた。〈配管の寒さがビルをはしりけり/鴇田智哉〉配管の配とは何を配っているのかは知らないけれど、寒さを管が通ってビル中へくまなく通う。

二階からあふれてゐたる石鹸玉 鴇田智哉

放送大学「文学批評への招待」第4章学習課題4

学習課題4 ベンヤミンバフチン、アウエルバッハ、バルト、三島由紀夫のいずれかの小説論を読んで、われわれが小説を読むうえで参考になる点を考えてみよう。

作者を殺せば小説の楽園へ至る。そこは小説の父たる作者が支配する意味の家父長制を破壊したあとに現れる、意味のつきせぬ泉を湛える無法地帯の楽園だ。

ロラン・バルトが「作者の死」を書いたあとでも作者はまだ死んでいない。作者の意図を探ろうとし、作者の言葉に憤慨し、作者にそう考えるよう命じられたのかのように考える人は絶えないからだ。確かに数人の読者は誕生しただろう。しかし読者になれない人たちはまだ地球上に蔓延り、とあるエクリチュールを「ヘイトだ」と究極的意味を与え、ほかのエクリチュールを「差別的で偏見を与える」と意味を固定している。例をあげると日本では「ちびくろさんぼ」や「無人警察」などのタイトルをもつエクリチュールで作者の延命が図られた。21世紀になってもエクリチュールに神学的な意味を出現させ憤慨し、そして作者の断罪を望みかつ作者を神として生き長らえさせようとする言説に、TwitterなどSNS上で出合う。実はみんな憤慨と断罪が好きなだけではなく、それ以上に作者と家父長制が大好きなのだ。

偽善的にも読者の権利の擁護者を自称するヒューマニズムの名において、新しいエクリチュールを断罪しようとすることは、ばかげているのだ。(ロラン・バルト著、花輪光訳「作者の死」『物語の構造分析』みすず書房

では、ばかげたことを止め作者を確実に殺すにはどうすべきか? どんなエクリチュールが出されても、誰も悲しまず、誰も憤慨せず、誰も出版停止を訴えない世界、誰もがそのエクリチュールを読解するのではなく解きほぐし、その解釈によって提出された意味に生じる原因と責任を作者に押しつけるのではなく読者の側へと引き寄せられる世界を実現させたのなら作者を殺せる、作者に死を与えられる。

みんなが大好きな作者の葬式を済ませることで、はじめて読者は誕生し、エクリチュールの豊穣を楽しむことができる。その世界は「理性、知識、法」を拒否した、新しいエデンの園である。

胸中山水

〈ラムネ瓶太し九州の崖赤し/西東三鬼〉について中島斌雄は以下のように書いている。

第一句では、眼前のラムネ瓶、赤い崖が、作者により思うままに拡大されている。私の脳裡には、大きな九州地図が浮かぶ。その真ん中に一大ラムネ瓶が武骨な重さで突立ち、これを囲んで全九州の崖という崖が赤肌をそばだたせている。「九州の崖」にも、黒いの、白いの、さまざまあろう。それを赤い色一途に塗り換えたのは、作者の詩人としてのデフォルメ作業である。それこそ「九州」そのものの表現である。(略)以上、あるがままの山水を、作者がわが「胸中山水」と化することで、自然の生命以上の文学的生命を賦与した事例というべきだろう。自然の命はうつろいやすいもの、文学的生命は永遠たるべきである。(『現代俳句の創造』毎日新聞社

デフォルメされた胸中山水は永遠、そう理解したとき、九州ではないけれど瀬戸内海に浮かぶ豊島は家浦地区に建つ横尾忠則の庭を思い出す。その庭は日本式の庭園なのに岩は原色のような赤く塗られ、池底は同じく原色のような青や黄に塗り分けられている。西東三鬼の句に異常な縮尺を持ち出した中島斌雄と不気味なほど色彩を強調した横尾忠則、両者とも実際の景をそのまま写生するのではなく、胸中にどのように写ったのかという心象写生を加え作品としている。

実際の景はいつか崩れ朽ちる。しかし文学や美術の形で表現された景はどのような形であれ、後世に残る。人間の胸中に心というものが存在する限り。

「白體」『柿本多映俳句集成』深夜叢書社

静岡県ふじのくに芸術祭2019の詩部門で拙作「あすめざめるきみへ」が入選したので東静岡のグランシップへ県民文芸と賞状を取りに行った春雨の日、『柿本多映俳句集成』の「白體」部分を読む。〈海市より戻る途中の舟に遭ふ/柿本多映〉何が海市帰りの証となったのか、気になる、フジツボかな。〈いきいきと映つてしまふ雪女/柿本多映〉映ることすら不覚なのに「いきいきと」した雪女のポーズ、嗚呼、春になってしまいたい。〈月の僧マンホールの蓋開いてゐる/柿本多映〉円形の連想はあるが、月の僧が地下道をぬけマンホールから出てきたような感じ。〈君子蘭路地が途方に暮れてゐる/柿本多映〉「路」地が「途」方に暮れるという面白さ。〈衰への力鮮し山桜/柿本多映〉鮮しはあたらし、衰と鮮が一瞬のように咲き散る山桜で出合う。力だから桜ではなく山桜でなければならない。〈掌のうれしき窪み螢狩/柿本多映〉合わせられた掌の窪みに螢火がある。〈草いきれ烈し向か合ふ坂ふたつ/柿本多映〉住宅街のなかの擂鉢地形、坂が向き合っている様が陽光のなかに見える。湿気がこもるから草いきれも「烈し」い。地形俳句の秀句。〈凍蝶に渉りそびれし川のあり/柿本多映〉蝶の古名はかはひらこ、なのに川を渡り損ねて季節はめぐり凍蝶になってしまった。

肉食の午後や祭器のくもりをる 柿本多映

 

 

 

 

放送大学「文学批評への招待」第3章学習課題3

学習課題3 日本語の俳句、短歌、近現代詩を一つ選び、自分の得意な言語に翻訳し、翻訳のプロセスにおいて何が起こっているか記述しなさい。

俳句〈わが夏帽どこまで転べども故郷/寺山修司〉をスペイン語に訳す。

mi sombrero de verano

rueda para siempre

no puede salir de mi tierra natal

「わが夏帽/永遠に転がる/わが故郷を抜け出せない」と三行詩へ訳した。

日本語では「わが夏帽」と「転べ」の主述関係は曖昧で、「わが夏帽(が)どこまで転べども」とも「わが夏帽/(Xが)どこまで転べども」とも解釈できる。しかしスペイン語では主述関係が固定されてしまう。三行詩に分かつことで主述関係を曖昧にしようと企図した。

「どこまで〜ども」の翻訳が難しい。「わが故郷の果てへ転がる」と訳すると日本語にはある故郷から抜け出せない感が出ない。「永遠にわが故郷を転がり続ける」でもないのは、そんな延々と続く動きの描写は俳句に必要ではないからだ。俳句は一瞬の景を切り取るとき最も効果を発する。また「わが夏帽がわが故郷を出られない」の否定辞だけでは何の景も描写できていない。ゆえに訳は二番目と三番目を組み合わせた。それでも日本語の「どこまでも〜ども」の悲壮感が消えてしまい、「故郷」の故郷から抜け出せない感や故郷を肯定的に捉えていない感じが消えてしまった。

語学力の問題もあるけれど、これ以上説明する文を加えてスペイン語訳すると俳句ではなく詩となってしまう。

「花石」『柿本多映俳句集成』深夜叢書社

点温膏派だった私がロイヒつぼ膏を買ってきたら貼温膏派の妻もロイヒつぼ膏を買ってきた日、「花石」部分を読む。〈朴の花指のうごくはおそろしき/柿本多映〉朴の花の性器感と指の動きの奇異な対比、繁殖力がありそうな「おそろしき」〈なまかはきならむ夜明の白百合は/柿本多映〉夜は濡れ、朝に乾く白百合として。〈足音を足音が消す枯木山/柿本多映〉足音が互いに消し合うとは足音しか音のない枯木山。〈コスモスの丘を捲れば薄烟/柿本多映〉コスモスの丘が皮としてその中身は薄烟という虚ろという奇想。〈天の川壜吹けば壜鳴りこもる/柿本多映〉音の「鳴りこもる」様が霧状の天の川に似て。〈夏至今日の皿の窪みの生卵/柿本多映〉皿の窪みに広がる黄身と白身と皿の外縁は中世の天体図めいて。

月光を曳く寒鯉の力かな 柿本多映

放送大学「文学批評への招待」第3章学習課題2

 学習課題2 萩原朔太郎詩篇を一つ選び、それが「詩」として成立している根拠を示しながら、1000字程度で丁寧に分析しなさい。

萩原朔太郎の「殺人事件」を読む。探偵と探偵のこひびとであり殺された女と曲者の三人の登場人物が出てくる推理小説とも読めるかもしれない。しかしこれは詩だ。なぜならことばをめぐる不確定な感覚を起こさせる意図があり、日本の伝統的な詩形を意識したことばの配置があるからだ。

まず「殺人事件」の舞台や小道具は奇妙だ。探偵は「玻璃の衣装」すなわち硝子でできたこの世ならざる衣装を着ている。殺人現場の床は晶玉であり、その床をながれる血は「まつさを」、血が真っ青とは人間離れしている。殺人現場を出て十字巷路には「秋のふんすゐ」が据えられている。歩道は大理石で敷き詰められている。それら舞台や小道具は現実のものではないだろう。夢の世界や詩のことばだけで形造られた世界と言われたのなら了解できる類のものだ。この不思議な世界で起こる出来事も奇妙だ。ぴすとるは二度鳴った。しかし殺された女の傷は「ゆびとゆびのあひだ」のどうやら一箇所のようだ。しかも、ぴすとるの弾が指と指の間のような箇所を撃ち抜けるとは考えられない。それにしてもどうして血はまつさをなのか。女の屍体の上で女の最期の嗚咽であるかのようにきりぎりすが鳴いているというも奇妙であり異常な事態だ。最後に探偵はなぜこひびとの窓からしのびこんだのだろう。なぜ探偵はうれひを感じているだけで曲者をすべつてゆくに任せるのだろう。探偵の動きは探偵という枠から外れている。これらの奇妙なことばと出来事はことばをめぐる不確定な感覚を読み手に起こさせる。読み手の意識を現実のどこかで起きた殺人事件ではなく、夢のなかの殺人事件などといった空想へ飛ばす力を持っている。

次に、この詩は三つ場面で構成されている。ぴすとるの鳴る場面、探偵と屍体ときりぎりすの場面、そして街の十字巷路での探偵と曲者の場面である。それら三つの場面は繋がっているようでそれぞれ独立している。これら三つの場面は発生順に並べられているというよりまったく別の時系列で起こった場面のようだ。もしかしたら循環して発生するのかもしれない。そんな、関連性が低いようだけれどどこか繋がりのありそうな三つの場面を並べるのは俳諧連歌あるいは連句の付けを意識している。さらに、つめたいきりぎりすが屍体のうへで鳴いているという唐突さは俳句的な二物衝撃の付けを連想できる。そもそも「秋のふんすゐ」という措辞が噴水を夏の季語とする歳時記の前提に立っている。「殺人事件」の作詩の根底には俳句の土壌がある。きりぎりすの有名な句に〈あなむざんや甲の下のきりぎりす/松尾芭蕉〉がある。甲の下のきりぎりすはつまり屍の上であり、かなしい女の屍体のうへで泣くきりぎりすと同じ位置にある。「あなむざんや」が萩原朔太郎の「殺人事件」でも響いている。しかし平家物語への回顧ではなく、現代的な感覚での悲しみへ、響く。

殺人事件

     萩原朔太郎

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。