以太以外

蒼褪めた巨漢は笑う水澄んで 以太

放送大学「文学批評への招待」第7章ナラトロジー(2)

学習課題3 「私たち」を語り手の人称として実験的に用いた小説に、村上春樹の『アフターダーク』(講談社文庫、2006)がある。この語り手の「私たち」がどのような効果を与えているか(あるいは、与えていないか)を検討してみよう。

「私たち」について、『アフターダーク』本文中に「私たちはひとつの視点となって彼女の姿を見ている。(略)視点は宙に浮かんだカメラとなって、部屋の中を自在に移動することができる」とある。また「私たちは目に見えない無名の侵入者である」「観察はするが、介入はしない」とも書かれている。一人称の「私たち」は内的焦点化を担い、全知全能の神の視点を自分が実際に体験しているような感覚になる。そして読者である私の知らない都市の出来事なのに、私の知っている都市の見慣れた部屋やデニーズやすからいーくで起こった出来事のように思えて、私の身体がその場(たとえば浅井エリの部屋)にいるような感覚になる。それは観客に役者が話しかけるような観客一体型の演劇を観ている感覚に近い。焦点化ゼロで描写されるよりもその体験の感覚ははるかに強いだろう。あまりに強いので、私が知り得ない瞬間のテレビや鏡で今この瞬間も不思議な現象が起こっているかもしれないと恐怖させるほどだ。しかし上記のように、これは「カメラアイ」です、とタネ明かしをされるとなんだか実験に無理矢理参加させられているように思えて興醒めする。そこは仄めかすだけの方が良かった。

アルファヴィルの防犯カメラ解析のシーンがあることから「私たち」はインターネットのユーザー、現在で言えばyoutubeの視聴者やtwitterのフォロワーなどを予想して設定しているのかもしれない。観たがり知りたがる欲望そのままに動き、実際に観て知ることはできるけれどそこで起こっていることには介入できない人たちを。浅井エリの部屋のテレビに映る男がビッグブラザーを模しているのだとしたら「私たち」はリトルピープルだ。「私たち」の複数性には彼らリトルピープルの強迫的な、遍在する気持ち悪さを伝える効果もある。コンビニの棚に白川が置いた携帯電話は言う、

「逃げ切れない。どこまで逃げてもね、わたしたちはあんたをつかまえる」