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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

虚の自由

唐木順三は『無用者の系譜』筑摩叢書において西山宗因の虚について書く。

卽ち實の世界の常ならぬむなしさを身にしみて體驗したのである。(略)過去の重臣の位置に對比した現在の浪人のわび姿が、やがて、實に對する虛、和歌に對する寓言、連歌に對する狂言、卽ち實世間を茶化する俳諧滑稽の談林世界をよび起すことになるのである。無用坊の世界、無樂の樂、ひざをくづした世界である。(略)宗因が浪人を選びとつたのは尤もなことといはねばならない。卽ち現世の秩序からはみでた虛の世界、夢幻の世界において始めて戲言、狂句の自由をえたのである。「無用坊」となることによつて始めて詩人となりうるといふ條件がそこにあつた。

社会が大きく変化するときは虚の世界が繁るときだ。

日下野由季『馥郁』ふらんす堂

新型コロナウィルスのパンデミック、そのただなかで日下野由季『馥郁』ふらんす堂を読む。〈金木犀己が香りの中に散る/日下野由季〉高貴さのゆえに己が香り以外は寄せつけず。〈花野ゆく会ひたき人のあるごとく/日下野由季〉その歩調が、歩幅が人に逢いたがっている。〈あをぞらに噴水の芯残りたる/日下野由季〉水は消えても芯は空に残る、記憶の残像として。〈一音をもて地にひらく落椿/日下野由季〉落下を「一音」と描写した鮮やかさ。〈鳥雲に入る灯台に窓一つ/日下野由季〉窓がひとつしかない灯台の内側の暗さ、それこそ鳥雲の寂しさ。〈句座果てて一人ひとりひとりに夏の月/日下野由季〉月は人が見る面ごとに月であり月面なのだろう。〈初明り差す胸深きところまで/日下野由季〉心の深奥まで初明りが照らすのは心がまっさらな元旦だから。

 

しやぼん玉こはれて草のうすみどり 日下野由季

大森静佳『カミーユ』書肆侃侃房

入力物を落失した日、大森静佳『カミーユ』書肆侃侃房を読む。〈顔の奥になにかが灯っているひとだ風に破れた駅舎のような/大森静佳〉駅舎の奥に最終列車の灯が点るように、どこかへ危ういところへ連れていってくれそうな人の顔として。〈春のプールの寡黙な水に支えられ母の背泳ぎどこまでもゆく/大森静佳〉「寡黙な水に支えられ」、プールの水すべてが黙ったまま一人の老いた女の体を、さざなみのように支える景、静かな喜びが伝わる。〈ひとことでわたしを斬り捨てたるひとの指の肉づき見てしまいたり/大森静佳〉「指の肉づき」は欲や傲慢さの受肉のようなものだ。〈風を押して風は吹き来る牛たちのどの顔も暗き舌をしまえり/大森静佳〉「風を押して」に畜獣のような風の存在感がある。〈冷蔵庫のひかりの洞に手をいれて秋というなにも壊れない日々/大森静佳〉洞にうろとルビ、冷蔵庫は壊れない日々を維持する器、その光は秋の日のように橙色に覗きこむ顔を照らす。〈空の港、と呼ばれるものが地上にはあって菜の花あふれやまざる/大森静佳〉荒廃した世界の姿として、滅びた国の廃れた空港に蔓延る菜の花の黄色かもしれない。

ずっと味方でいてよ菜の花咲くなかを味方は愛の言葉ではない 大森静佳

野口あや子『眠れる海』書肆侃侃房

右袖がひどく濡れた日、野口あや子『眠れる海』書肆侃侃房を読む。〈凍えつつ踏まれたる鉄片ありてそういうもののなかにきみ住む/野口あや子〉凍え、踏まれても弱音ひとつ吐かないきみの生き様を歌う。〈うけいれるがわの性器に朝焼けが刺さってなにが痛みだろうか/野口あや子〉「うけいれるがわ」「性器に朝焼けが刺さって」の比喩が強い。「なにが痛みだろうか」はなにも痛くはないのだという叫びとして。〈眠るあなたを眠らぬ私がみていたり 糊を薄めたように匂って/野口あや子〉匂いというのは空気感でもある。薄糊のように粘りつくような寝室の空気を描く。〈名を呼べば睫毛の先より身をひねり光沢を刷くごとくほほえむ/野口あや子〉「睫毛の先より身をひねり」は、あたかも睫毛まで筋肉が通うかのごとく動く。〈てのひらに硬貨とピアスにぎりしめ階下に買いに行く冷えた水/野口あや子〉「ピアス」の意外性が、たぶん夜道の自動販売機の照明に光る。

うけとりし扇の骨の二、三本ひらきてとじてここはゆうやみ 野口あや子

九堂夜想『アラベスク』六花書林

数がなかなか合わなかった日、九堂夜想アラベスク六花書林を読む。〈湖の死や未明を耳の咲くことの/九堂夜想〉湖は「うみ」とルビ、耳は夥しく咲く、湖の欠如を埋めようとするように。当然、音への希求はある。〈くちなしの破瓜にむらがる枝神ら/九堂夜想末社の位階低き枝神らは、梔子の安っぽく強いにおいに簡単に引き寄せられてしまうという戯画。〈野火はるか雲を敲けば蛇落ちて/九堂夜想〉雲から空からボトボト蛇が落ちてくる景が愉快、野火が遠くに見えるのもよい。〈月のみち喪のみな針をふところに/九堂夜想〉針が喪のしるしとなり月への支線を旅するのだ。

きむらけんじ『圧倒的自由律 地平線まで三日半』象の森書房

きむらけんじ『圧倒的自由律 地平線まで三日半』象の森書房を読む。〈兄の古着で兄より育って家を出た/きむらけんじ〉「兄より育って」がおもしろい。〈黙って漁師継いで耳にピアス/きむらけんじ〉漁師町の元不良少年。〈その先で捨てるチラシを黙って貰う/きむらけんじ〉予め定められた未来を敢えてなぞる。〈夏の子の画用紙に水平線一本/きむらけんじ〉描きかけの一瞬をとらえる。しかし既に完成画でもある。〈前科はあるが噴水で待ちあわす/きむらけんじ〉「前科はあるが」はここで言わなくてもいい、でも言っておきたかった。〈返事はしたが声を出し忘れた/きむらけんじ〉ボディランゲージで返事。〈目覚まし二つかけて眠られぬ/きむらけんじ〉目覚ましの度が過ぎて常に目を覚ます。〈年の瀬に穴があるので穴をのぞく/きむらけんじ〉穴からは新年が顔をのぞかせるかもしれない。

顔見知りの高橋君は野良犬をしている きむらけんじ

天道なお『NR』書肆侃侃房

ららぽーと磐田で靴を買った日、天道なおNR』書肆侃侃房を読む。〈砂粒は遠くとおくへ運ばれて生まれた街を忘れてしまう/天道なお〉砂粒のように生まれ、砂粒のように旅をして、そして摩耗するように死ぬの。〈バスタブに白き石鹸滑り落ち深まる夜の遺骨であるよ/天道なお〉湯に落ちてやわらかくなる石鹸、屈折する光、手に届かないほどに遠い夜の遺骨として揺らめく。〈白シャツの衿尖らせて帰宅せり真水に浸しただ眠るべし/天道なお〉「衿尖らせて」そのためにゆえ疲れてしまった一日だった。〈ぬばたまのクレームコールいっさいの光およばぬ沼の底より/天道なお〉暗き消費者たちから明るい会社員への電話、その名はクレームコール。〈陽炎の彼方に見えし夏帽子どの子がわれの子になるのだろう/天道なお〉「どの子がわれの子になるのだろう」は陽炎を通して見えた未来、時空を超えた希望である。〈本のない図書館がよい幾つもの夢にやぶれた僕ら逢うなら/天道なお〉空いた書棚をふきぬける風が頬に心地よい。〈コットンのねむりの中でおさなごがやさしく握る虹の先っぽ/天道なお〉虹の先っぽを握るほどの小ささ、虹の儚さと指の未完成さとの共鳴がある。

 

無用者の始祖

唐木順三は『無用者の系譜』筑摩叢書を在原業平から書き始める。業平の祖父平城上皇薬子の変により落飾し、伯父の高岳親王廃太子させられた。皇孫でありながら業平は京の貴族社会において不遇であった。

業平の場合、わぶの根柢には、自分を無用者として自覺したといふことがあつた。つまりは憂き世をわびたのである。世間における無用者であることを選びとつたのである。その無用者によつてひらかれた觀念の世界、つまりは憂き世から離れることによつてひらかれた世界を歌にした。「名にし負はば」の歌はそれを具體的に示してゐる。

伊勢物語に書かれた「身をえうなき者に思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき國求めにとて行きけり」のあづま下りは「デカダンの徒」である業平にとって京に変わる「新しい天地」を求める旅だった。

自分を無用者として自覺することによつて、現實世界はひとつの變貌(トランスフィグレイション)をきたし、舊來の面目をあらためたのである。觀念世界の誕生といつたのはこの意味である。

この觀念世界の誕生が「もののあはれ」や「みやび」へ繋がる。源氏物語の須磨も業平の東下りなくしては書かれなかった。

この無用者の精神こそが西行ら中世の風狂や「西國行脚の無用坊、無用の用あり」の宗因を経て現代の俳人とりわけ自由律俳人の精神へ繋がると私は信じている。

名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありや無しやと 在原業平

中筋祖啓『経験と未来』

第二十七回西東三鬼賞は前回に引き続き佳作〈かたつむりは裏日本で即位する/以太〉ちなみに前回の佳作は〈ニンゲンの子を添えて売る蛍売/以太〉な日、中筋祖啓『経験と未来』を読む。〈私の自信は無くしたのではない 私の自信は消えたんだ!/中筋祖啓〉痕跡さえも消えて。〈本当に静かな男になりました/中筋祖啓〉これが静かな男の手のひらです。〈ものすさまじき、ただの人/中筋祖啓〉最強の普通人として。〈会う度に記憶喪失になっている/中筋祖啓〉だから楽しい。〈眼球の裏っ側から微笑んだ/中筋祖啓〉微笑みの筋肉のはじまりとして。〈坂道が大地で肺を叩いてくる/中筋祖啓〉息切れ。〈青空に全く力が入らない/中筋祖啓〉だから(力が)ぬけるような青空と呼ぶ。〈一番近いデパートの名を呼ぶ小学生/中筋祖啓〉そこのデパートがその小学生の楽園だった。〈茶の中の蛍光灯がペットです/中筋祖啓〉へ? 〈待ってましたと言わんばかりの白い雲/中筋祖啓〉何も言わずに雲は浮いている。ただ嬉しかっただけで。

傘を置いて雲が白い 中筋祖啓

第三回浜松私の詩コンクール入賞作品を読む

浜松市桂冠詩人になりそこねた。第3回浜松「私の詩」コンクール一般の部において「私はパンではありません」という詩で浜松市長賞をいただいた。しかし新型コロナウィルス感染症防疫のため3月15日の表彰式は中止になった。前日の14日には詩部門で浜松市民文芸賞の表彰を受けるはずだったのに、これも中止になった。残念なので浜松私の詩コンクールの他の入賞作品をいくつか読む。浜松市遠州地域に詩の文化が根づき繁るように。

小学生の部

浜松市長賞の岡田桜知「池」、擬人法を小学四年生にして駆使している。「風が木をゆらしている ぼくに みなもをつけて」の描写が秀逸。浜松市教育委員長賞の矢野舞希「星」は「この時間がほしいと願いながらも/星も時間も分からないように/ひっそりと進む」の明喩がなかなか読ませる。

中高生の部

浜松市長賞は外山里菜「柳川」、福岡県の「水の都」だろうか。川下りの風景から声を媒介に一挙に宇宙まで世界を広げる。言葉にひねりはないけれどまっすぐな言葉で自然と命と向き合っている。浜松市教育長賞は鈴木里子「あなた」、誰か身近な人との死別だろう。「もう」「何度も」「最後まで」「そして」「やっと」など頭韻を踏むことで悲痛なまでの思いを段階的に膨らませている。中日新聞賞は奥暖葉「変態」、「どうにか持ち上げて/向かう先は風呂場で」を軸として「て」の脚韻が最後まで断定しきれない気持ちをよく表現している。遠州灘賞の山本彩心「舞台」、「私達はこのきんちょうを/成長していくのだ」で舞台なら照明を集めるだろう。詩季賞の影田れい「あり」は最終行の意外さで心に残る。

一般の部

浜松市長賞は私の「私はパンではありません」なので割愛。浜松市教育長賞は袴田ひかり「午前0時」、「ガス灯」や「封蝋」といった言葉がひとつの世界を創っている。「退屈を持て余しているのなら いいでしょう/煩わしいくらいが/ちょうどいい」なんかポップソングみたいなソーダ水。静岡県詩人会会長賞の熊谷文昭「戯画!受験生」は「NGOとNPOは相似でも合同でもない」を愛唱したい。詩季賞の村口宣史「鬼門」は「おまえの内側にある外因」とかカッコいい。

 

第三回尾崎放哉賞受賞作品を読む

第三回尾崎放哉賞入賞作品が発表になった。〈胸の穴を翅のない蝶がとおりぬけた/以太〉は入賞した。受賞作品のうち気がかりな句について読む。〈ネギ切る音がまっすぐな雨になる/井上知子〉「ネギ切る」で区切って読むか「ネギ切る音が」まで続けるか。前者ならば音はネギを切る音だけでなくてもよく、「ネギ切る」という行為の儀式めいた様があらゆる音をまっすぐな雨にさせる不思議な世界を創り出す。「雨になる」の五音で厨の小さな景から急速に大きな空の景へ広がるのは技術だ。〈古写真の中に整っている家族/黒瀬文子〉フルシャシン、「整っている」の言葉から破綻した家族の姿が浮き上がる。大賞も春陽堂賞も地下水脈に「X+八五」が見え、総拍数も十七と十九で十七音に近く、五七五定型を意識しているのだろうか。〈母も知らない母の骨を拾う/十月十日〉七六三、H音の頭韻が遺骨の虚ろな感じを演出している。自分の骨のすべてを知ることなく人は死ぬのだという事実に打ちのめされる。〈春風強く吹く私は優しくない/野田麻由可〉九十で切れる。風ではなく春風にしたのは定型から離脱するためであり「私は優しくない」との違和感を出すため。〈あいつの通夜から帰った傘の雨切る/本山麓草〉台詞めく十二音に七音を添える。ただ添えただけかのような乾いた感じがカッコいい。永訣への意思。〈物語ひとつ終らせてお茶にする/丹村敦子〉物語は桃太郎みたいな昔話だろうか。「物語ひとつ終わらせて」の神話的壮大さと「お茶にする」の落差が愉快だ。もしかしたら物語を途切らせると殺されてしまうシェヘラザードなので次の物語をはじめるために喉を湿らせているのかもしれない。〈ひとひらちらす手話の生きろ/岩渕幸弘〉七三三、手話に命令形があるのかは知らない。けれど手話の「生きろ」を花弁を散らすように手向けるなんて、照れる。三三と短く言い切った鮮やかさ。〈麦わら帽で隠せる涙だった/藤井雪兎〉涙を隠したい相手はもしかしたら背が高いのかもしれない。麦わら帽という小道具で相手との関係のようなものを巧みに表現している。〈砂時計の中蜥蜴の鱗が落ちる/熊谷京香〉砂時計と蜥蜴の組み合わせに千一夜物語めく美意識を感じる。ただ同じ作者の〈おばあちゃんの笑い皺は迷路/熊谷京香〉の方がおばあちゃんの顔の目鼻口のあったあたりを暗く溶かして迷路に描き変えてしまうシュルレアリズム絵画のような怪しさを感じる。笑い声だけが笑っている。〈机の上で知らないくじらが死んでいるような世界/堀和希〉机上にまず収まりきらないくじらを死なせて机上に収まらせたのだからその世界からは鏡が喪われているはずだ。七<八<十一という単調増加が不安を掻き立てる。〈クレヨンで描き潰したあの日の夕日/島本琉風〉「クレヨン」が「あの日」への遠さを、「描き潰した」が何かに夢中になれた日々であったことを伝える。アノヒノユウヒ、ヒ音に悲しいほどの懐古がある。

村上鞆彦『遅日の岸』ふらんす堂

新型コロナウィルスのおかげでマスクやトイレットペーパーが売り切れ文化イベントが自粛ムードで一斉休校なのに、それでも仕事はある月曜日、村上鞆彦『遅日の岸』ふらんす堂を読む。〈噴水の力を解く高さかな/村上鞆彦〉噴水を「解く」と言う楽しさ。重力とかそういう話は要らない。〈枯蓮の上に星座の組まれけり/村上鞆彦〉死にゆく枯蓮と生きているように燃える星のつらなりという対比。「上に」は地球上とはるか何万光年もの先の宇宙を表現しているけれど、あたかも二つが近くにあるように読める。〈花の上に押し寄せてゐる夜空かな/村上鞆彦〉夜桜となる前の一刻、海嘯のように夜空が暖色に押し寄せる。〈街空の鷗を春のはじめとす/村上鞆彦〉何気ない街の何気ない空の何気ない鷗を春のはじめ、なんて呼んでみて。〈鯉病めり雪はひたすら水に消え/村上鞆彦〉水に消える雪はとりかえしのつかない時間の譬喩として。〈真清水にたくさんの手の記憶あり/村上鞆彦〉縄文の世から多くの人々に愛飲されている真清水。〈日盛りのぴしと地を打つ鳥の糞/村上鞆彦〉眩いほどの夏の地へ「ぴし」と音が響くのが生命って感じだね。〈木枯しや石屋の墓石みな無銘/村上鞆彦〉これからの死者のための無銘。〈弓入れて袋の長し花の昼/村上鞆彦〉袋はもとより長かったのではなく弓を入れたことで長くなったのだ。部活帰りの生徒のいるのどかさ。〈蟬鳴いて少年にありあまる午後/村上鞆彦〉「ありあまる」のA音が夏の緩み。

さへづりやみな素足なる仏たち 村上鞆彦

小津夜景『フラワーズ・カンフー』ふらんす堂

ガスコンロがひとつ息絶えチェーンが硬く張りすぎた日、小津夜景『フラワーズ・カンフーふらんす堂を読む。〈スプーンの硬さ泉にかほがあり/小津夜景〉のかほは飯島晴子の顔だろう、〈泉の底に一本の匙夏了る/飯島晴子〉。〈てのひらを太鼓にかざす鳥の恋/小津夜景〉手のひらへ伝わる太鼓の振動のような鳥の恋、その震え。まさに音に触る。〈そらりすの光をまげてこすもすは/小津夜景〉惑星ソラリス。〈空耳のやまざる白き昼なればガアゼをかざし空を吸ひとる/小津夜景〉小、しか合っていないけれど小林大吾の歌詞「薬指だけに処方箋がいる」のような白々しく空耳、〈空耳とはぐれて茶葉を煮てをりぬ/小津夜景〉。〈とびらからくちびるまでの朧かな/小津夜景〉とびらが身体の一部のようでくちびるはビルのよう。

晩春のままに誤配のままに鳥 小津夜景

茘枝

〈茘枝手に人造少女の目に原野/中嶋憲武〉(『祝日たちのために』港の人)の基底部は「人造少女の目に原野」。雑草の生えるまま生命の奔放たる原野を眺めるのは、人の手により計画的に作られた少女の眼球。その基底部への干渉部は「茘枝手に」、茘枝はここでは蔓茘枝こと苦瓜ではなくライチの実だろう。というのは苦瓜では色が緑色系に固定されて景がぼんやりするのに対し、ライチならばその実は少女の眼球を連想させかつ赤みがかった黒が景の焦点となり景全体をひきしめるからだ。茘枝はそれを持つ人造少女が抱く、生命の奔放への願望だ。

 

田島健一『ただならぬぽ』ふらんす堂

ガスコンロが点かずリアタイヤが斜めな日、田島健一『ただならぬぽふらんす堂を読む。〈蛇衣を脱ぐ心臓は持ってゆく/田島健一〉脱がれる蛇衣のなかで何が行われているかを人は知らないがゆえに、「心臓を持ってゆく」は斬新さと適切さを備えている。〈帆のような素肌ラジオのように滝/田島健一〉帆とラジオで夏空へ景が広がる。そして滝風を浴びる素肌。〈郵便の白鳥を「は」の棚に仕舞う/田島健一〉「し」の棚ではないということ。〈家のところどころを直し潤目鰯/田島健一〉日曜大工のあとSh音が脳に残る。〈寒椿空気のおもてがわに咲く/田島健一〉空気のおもてがわとは裏拍に対する表拍のようなものか。〈芽吹く江ノ島天国のようなパーマ/田島健一〉橋を渡って行ける極楽浄土のような春先の江ノ島、そこにいたパンチパーマの男。〈菜の花はこのまま出来事になるよ/田島健一〉出来事は「ふと、起こった〈こと/事件〉」(三省堂国語辞典第七版)、「ふと」のさりげなさが菜の花っぽい。〈遠雷やぽっかり空いている南/田島健一〉北と南であきらかに雲の量と空の色が違う景の大きさ。動の北と静の南と。〈内側の見えぬ小学校に雪/田島健一〉外側だけは見えていて、内側は確かに存在するはず。その外側を覆うように降る雪、内側はますます遠くなる。内側は明治なのかもしれない。

着ぶくれて遊具にひっかかっている 田島健