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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

無用者の始祖

唐木順三は『無用者の系譜』筑摩叢書を在原業平から書き始める。業平の祖父平城上皇薬子の変により落飾し、伯父の高岳親王廃太子させられた。皇孫でありながら業平は京の貴族社会において不遇であった。

業平の場合、わぶの根柢には、自分を無用者として自覺したといふことがあつた。つまりは憂き世をわびたのである。世間における無用者であることを選びとつたのである。その無用者によつてひらかれた觀念の世界、つまりは憂き世から離れることによつてひらかれた世界を歌にした。「名にし負はば」の歌はそれを具體的に示してゐる。

伊勢物語に書かれた「身をえうなき者に思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき國求めにとて行きけり」のあづま下りは「デカダンの徒」である業平にとって京に変わる「新しい天地」を求める旅だった。

自分を無用者として自覺することによつて、現實世界はひとつの變貌(トランスフィグレイション)をきたし、舊來の面目をあらためたのである。觀念世界の誕生といつたのはこの意味である。

この觀念世界の誕生が「もののあはれ」や「みやび」へ繋がる。源氏物語の須磨も業平の東下りなくしては書かれなかった。

この無用者の精神こそが西行ら中世の風狂や「西國行脚の無用坊、無用の用あり」の宗因を経て現代の俳人とりわけ自由律俳人の精神へ繋がると私は信じている。

名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありや無しやと 在原業平