- 分謗論
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諸侯の支配域の一角には、まぎれもなく他の諸侯の村が存在しているのである。(平㔟隆郎『よみがえる文字と呪術の帝国』中公新書)
- 春秋戦国時代の小国滅亡や都市住民の移動により、分断された血縁的絆。そのような「新しい動き」の上にできた漢帝国の王国や侯国。
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こうした新しい動きを基底で支えていたのが鉄器の普及であった。鉄器が作業を著しく省力化し、人の社会にも大きな影響を与えたのである。(平㔟隆郎『よみがえる文字と呪術の帝国』中公新書)
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私の検討によって明らかになったところでは、ということになるが、踰年称元法は前三三八年に斉で始まった。以後、新しく王を名のった者たちが相次いでこの称元法を採用するにいたる。秦もそのひとつであり、始皇帝の統一は、一部に残されていた立年称元法を完全に葬り去った。(平㔟隆郎『よみがえる文字と呪術の帝国』中公新書)
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覇王とは、ある意味で「怒濤」のようなものだ。動けば勢いは強いが、退けば跡形もない。(安能務『春秋戦国志(上)』講談社文庫)
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ちなみにこの気死という概念は中国以外にはない。(安能務『春秋戦国志(上)』講談社文庫)
- 晋武公の翼宗家皆殺しと晋恵公の公子皆殺しは晋公族の数を激減させその力を弱め、諸卿を公族として遇せざるをえなくなる。
- →晋の六卿(狐氏・先氏・郤氏・胥氏・欒氏、范氏・中行氏・智氏・韓氏・趙氏・魏氏→范氏・智氏・中行氏・趙氏・魏氏・韓氏)→三晋の独立(趙・魏・韓)
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宮城谷 王侯が位についたときの数え方が漢代と春秋時代とは違うということに気がついたのは、ある意味でいうとコロンブスの卵ですよ(平㔟隆郎✕宮城谷昌光「春秋戦国について」『縦横無尽の人間力』中央公論新社)
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平㔟 踰年称元法は、下剋上で台頭してきた斉の田氏や魏、韓、趙といった君主が、自分たちこそが正統な王であるとアピールするための称元法として全面に押し出してきたものですので、その方式を採用したものだけが使えた称元法でした。(平㔟隆郎✕宮城谷昌光「春秋戦国について」『縦横無尽の人間力』中央公論新社)
- 木星紀年法、星紀・玄枵・娵訾・降婁・大梁・実沈・鶉首・鶉火・鶉尾・寿星・大火・析木
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宮城谷 戦国時代に、「戦国七雄」といって、七つ大きい国がありましたが、基本的には、各国が別々の暦を持っていたと発想した方がいいんですよね。(平㔟隆郎✕宮城谷昌光「春秋戦国について」『縦横無尽の人間力』中央公論新社)
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平㔟 やはり子之が文公だという線が出てきたんです。(平㔟隆郎✕宮城谷昌光「春秋戦国について」『縦横無尽の人間力』中央公論新社)
- ↑蘇秦が会った文公は、燕王噲の祖父の文公ではなく、燕王噲が禅譲した子之か。
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宮城谷 私は専門家じゃありませんが、韓、魏のどちらかであろうというのは、直観としてわかるんです。『春秋左氏伝』の内容を見ればわかりますよ。/ つまり、重耳が出た晋の国の記述が詳しいんです。(平㔟隆郎✕宮城谷昌光「春秋戦国について」『縦横無尽の人間力』中央公論新社)
- ↑すごい。でも韓は晋公室の分家だけれど魏は周武王の弟である畢公高の末裔だからその直観なら韓一択となるのでは?
- 《左傳.僖公二十四年》:「秦伯送衛於晉三千人,實紀綱之僕。」紀綱の僕は「夫人の使用人」か?
- 彌栄、氣、そしじ
- 鈴木康友元浜松市長が静岡県知事となったら鈴木県知事とは呼ばれず康友知事、ヤストモ知事などと呼ばれるだろう。
- 静岡県西部の民で鈴木さんを「鈴木さん」と姓で呼ぶ人はいない。