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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

「嬰」『澁谷道俳句集成』沖積舎

軸の文音句会で〈湯切りする窓をぬぐえば柳かな/以太〉と〈道の尽きるときの音は竹の秋/以太〉が編集部のふたりの特選を、〈そらいろの帽子目深に糸柳/以太〉が同人会長選をいただいた日、「嬰」部分を読む。〈ヒヤシンス鏡の向うでも匂う/澁谷道〉虚像でも匂うということは色や姿の匂いということ、反転した魂のようなものだ。〈ピアノを売れという麦風のリズム/澁谷道〉自然の音に還れというメッセージか、〈こがらしをピアノ売りたる部屋にきく/澁谷道〉も。〈狂人の諸手に銀河溢れたり/澁谷道〉景が巨きい、狂人が浮かべる恍惚の笑みは神に近い、〈長病みの掌に紫陽花の藍剰る/澁谷道〉とともに。〈冬虹の片脚が踏む孤児の家/澁谷道〉墨一色の木版画で描かれるような景、彩色は不要。〈枯野往診星等率き連れ魔女めきて/澁谷道〉往診から帰るところではなく行くところとする。そうでなければ「魔女めきて」とはならない。〈くちづけ乾く螺旋階段底から暮れ/澁谷道〉建築として面白い。暮れも螺旋状に遺伝子配列めいてのぼる口づけ。〈海に向く傷跡多し城柱/澁谷道〉「傷跡多し」が情感深い。海からは誰が城へ来襲したのだろう、歴史の積層が傷跡となる。〈台風通過密室に汗噴くチーズ/澁谷道〉台風という異常なまでの温度差が生んだ気象状況と密室(たぶん冷蔵庫)で温度変化により水分を出すチーズとの対比。科学かもしれないけれど、非懐紙連句の感性が上七と残りの十二音のあいだに響く。

手術始まる死を朝虹に懸け忘れ 澁谷道

手向くるやむしりたがりし赤い花

見田宗介の『社会学入門岩波書店小林一茶の句として〈手向くるやむしりたがりし赤い花〉が紹介されている。この句は、顕在態と潜在態を説明する題材として、柳田国男の『明治大正史 世相篇』から見田が引用した。確かに『明治大正史 世相篇』の第一章「眼に映ずる世相」の四「朝顔の豫言」に

俳諧寺一茶の有名な發句に「手向くるやむしりたがりし赤い花」といふのがある

とある。

無季句である。もちろん一茶は無季句もつくっているからそれだけでは不思議ではない。しかし一茶の俳句データベースにこの句はない。不思議である。

岩波文庫の『一茶俳句集』には、手向くるやの句はなく、「さと女卅五日墓」の詞書で〈秋風やむしりたがりし赤い花〉が載っている。手向くるやの句はこの句が変わったかたちだろう。脚注によれば文政版一茶発句集は中七が「むしり残りの」だったそうだ。「むしり残りの」では柳田の解釈「可愛い小兒でさへも佛になる迄は此赤い花を取つて與へられなかつたのである」はあてはまらない。さと女がむしり残した赤い花を墓に手向けると解釈できるからだ。

〈手向くるやむしりたがりし赤い花〉は柳田の記憶違いか、当時一茶の間違った句が流布していたか、だろう。よく調べない孫引きはよくないという一例である。

 

「夜の客人」『田中裕明全句集』ふらんす堂

保育園からの強気の登園自粛要請に驚く日、「夜の客人」部分を読む。〈家々の切れてつづけり浮寝鳥/田中裕明〉街のデフォルメされた景色と距離を違えたところにいる浮寝鳥について。〈一身に心がひとつ烏瓜/田中裕明〉心は烏瓜の明るさにも似て脈うつ。〈役者老いて役似合ひけり菫草/田中裕明〉菫草と可憐におさめたので老役者による童女の演技も締まる。〈秋風や老いし馬の目人を見ず/田中裕明〉老いの白濁によりなかば盲い、なかば澄んだ目は来世まで見透すだろう。〈さびしいぞ八十八夜の踏切は/田中裕明〉春でもなく夏でもないような、あらゆるものの境を渡る踏切か。〈空へゆく階段のなし稲の花/田中裕明〉稲田の広さが空へゆく階段なんてものを想わせたのだろう。「なし」はあらまほしだ。悲しい希望のありか。〈髪濡れて廊下をあるく良夜かな/田中裕明〉月光で艷やかに濡れる髪。〈龍あるく青水無月の原濡れて/田中裕明〉「龍あるく」は句柄の大きさと自由と。〈東京は墓多き町武具飾る/田中裕明〉死と成長の喜びがすぐ隣り合わせにあらざるをえない大都会ということ。

さみだれのあつまつてゐる湖心かな 田中裕明

「先生からの手紙」『田中裕明全句集』ふらんす堂

浜松市立図書館はすでに全館休館となった。多くの飲食店が浜松市からの休業要請を受け五月六日まで営業を自粛する四月二十五日、「先生からの手紙」部分を読む。〈掛稲や音楽会の重き幕/田中裕明〉緞帳の重さにも似た掛稲の豊かさ、芸術の秋でもある。〈暗幕の向うあかるし鳥の恋/田中裕明〉とともに明暗の対照がある。〈海山の神々老いぬ蒲の絮/田中裕明〉蒲の絮の色が老神、川沿いで海神と山神とが出会う、〈神々の老いて雪しろ流れけり/田中裕明〉もまた水際。〈みづうみをこえて雨くる春田打/田中裕明〉浜名湖を西に控える浜松駅南の田園地帯なんかがその景だけれど遠江じゃなくて近江の琵琶湖かな。「みづうみをこえて」が景の広さを伝える。〈をさなくて昼寝の國の人となる/田中裕明〉体力のない乳幼児は一日二回は昼寝する、それは別の国の人となったかのような眠りっぷり。〈初しぐれ京の町屋に学者ゐて/田中裕明〉数学者だろう。初時雨は素数か。〈遺句集といふうすきもの菌山/田中裕明〉菌山は故人へのやさしさ。〈俳諧に大作のなし懐爐燃ゆ/田中裕明〉懐炉のいつまでも続くかのような生暖かさは俳諧の楽しみに似て。〈夜学子のまたふにやふにやと送り仮名/田中裕明〉漢字をくっきり濃く書いたからこそ対照的にふにゃふにゃになる送り仮名。〈蟻地獄赤子に智慧の生れけり/田中裕明〉人の智慧の有り様は漏斗状にすべりおちる。〈白靴の結び目なんとなく大き/田中裕明〉新しい靴紐の結び目はまだ大きい。白の映える大きさ。〈姉の音妹の音夜は長し/田中裕明〉姉妹の住む夏の家という色彩がある。〈角砂糖ゆっくり溶ける芝火かな/田中裕明〉雪解への連想を含んだ角砂糖の融解と芝の燃焼するおだやかさ。〈蓼の花玩具はすぐに暗くなる/田中裕明〉玩具であそんでいると時間がたつのが早く感じられ、すぐにあたりが暗くなるということか。いや、蓼の花のうちにある暗さと玩具の自然な色の暗さとの相関か。

鱚食うて黒きネクタイしめなほす 田中裕明

当間青『サーフィン共和国』松琴俳句会

風の強い日、当間青『サーフィン共和国』松琴俳句会を読む。〈カセットの音揺らし来るサマー・ギャル/当間青〉カセットはラジカセか。ギャルも二十世紀の香りがする、きっと肌は日焼けしており汗粒が浮かぶだろう。〈コインロッカーに教科書隠し秋の蜂/当間青〉放課後に街へくりだす。夏の頃よりすこし大人になって。〈掌の中で鳴らす錠剤梅の花/当間青〉白い錠剤と梅の花の小ささとの対比、命を掌中にしたかのように鳴らす。〈天井で転ぶ風船四月尽/当間青〉どこにも行けない風船として。〈点滴の少女の拳半夏生/当間青〉汗につめたく濡れた拳を柔らかくつつんであげたくて。〈冬茜海の両端結ばるる/当間青〉冬夕焼けの鮮烈さに海の変容が見えるかのようだ。

晩夏急海はサーフィン共和国 当間青


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安里琉太『式日』左右社

落花生を食べた日、安里琉太『式日』左右社を読む。〈ひとり寝てしばらく海のきりぎりす/安里琉太〉佇まい俳句とも言うべきか。実景としてありうるだけに「きりぎりす」の動詞化をほのめかされたような気にもなる。〈葛咲くや淋しきものに馬の脚/安里琉太〉葛は国栖であり、吉野や信濃など山の力を感じる。馬の脚が淋しいとは胴より上と比較して、であるしマルクス主義批評としての下部構造をも連想させる。単に中山競馬場の景かもしれないけれど。〈もの掛くる釘あまたあり薬喰/安里琉太〉狩猟人の整頓された清澄さ。〈風鈴やたくさんの手と喉仏/安里琉太〉風鈴市の景でもひとつの風鈴にまつわるたくさんの人の残像でも構わない、汗に濡れた喉仏が目立つ季節だ。その残像は〈並べたる瓶に南風の鳴り通し/安里琉太〉と同じで背景は霞んでいる。〈遅れくることの涼しく指栞/安里琉太〉一切の読書関係の語をいれずに「指栞」としたのが読み手を信頼していて、佳い。待ち人のやや気取った心境が鮮やかに縁取られる。〈郵政や鳩あをあをとして冬は/安里琉太〉郵政は結束のことだろう。冬はひとつの繁忙期として鳩は太る。〈避暑の宿耳かき売つてゐたりけり/安里琉太〉昭和からの宿なら竹製の耳かきで、触ればひんやりとするはず。〈竹筒やぽろぽろ出づる春の蟻/安里琉太〉未熟な、意識としては透明に近い春の蟻が竹筒から飯粒のように落ちて出るのは楽天家の景に他ならない。

竹秋の貝が泳いで洗ひ桶 安里琉太

杉田桂『摩天楼』梅里書房

全国的に緊急事態宣言な春、杉田桂『摩天楼』梅里書房を読む。〈水中花腐蝕がすすむ摩天楼/杉田桂〉水中花も摩天楼も垂直の詩である。〈六月の空は腐りて鳥こぼす/杉田桂〉空と鳥の因果が梅雨により変じた。〈向日葵を凶器にしたる少女かな/杉田桂〉鈍器ではなく、すでに向日葵で人を傷つけたのだ、少女は。〈櫨紅葉はや鰓呼吸をしていたり/杉田桂〉海嘯のような紅葉の鮮やかさに肺呼吸では息苦しさを感じるという詩情は〈紅葉谷石が呼吸をはじめたり/杉田桂〉からも分かる。ちなみにハゼもハヤも魚の名。〈鉄壁をなすかげろうの切口よ/杉田桂〉かげろうは陽炎か蜉蝣か。いずれにせよ、気体の切口も細きものの切口も鉄壁とまで言い切られると愉快だ。〈さるすべり嘘の歯車噛み合いて/杉田桂〉すべらずに噛み合うのは嘘の歯ではなく嘘の歯車と。百日紅の色が真っ赤な嘘に見えてくる。

無神論者口を濡らして柿を食う 杉田桂

『中拓夫句集』ふらんす堂

社会的距離を保ちながら人間ドックを受診した日、『中拓夫句集』ふらんす堂を読む。〈耳かすみをり流域は林檎園/中拓夫〉「流域は林檎園」というザックリとした景の描き方が俳句ならでは、〈赤とんぼ山の斜面の明るき墓地/中拓夫〉もザックリ。〈霧の駅冷凍の魚引きずられ/中拓夫〉駅で冷凍の魚が引きずられている景は実景であっても心象風景であっても訴求力のある景だ。文明のまぎれものとして魚体。〈塩鮭の尾が砂に立つ松林/中拓夫〉や〈漁船出す道あり海水浴の中/中拓夫〉とともに鑑賞したい。〈薄氷の田面や喉をざらざら剃る/中拓夫〉表面や表皮への際どい想像力。〈田を植ゑぬ宵の三日月を神として/中拓夫〉荒っぽいというか措辞が大胆。〈洗ひ飯蜂の機嫌を悪くせり/中拓夫〉洗ひ飯の感覚が蜂の機嫌を悪くしたときの危険の感覚と合う。〈鳴らずなり麦笛の管甘きかな/中拓夫〉甘い理由を植物学ではなく思い出として語る。〈雲雀野や捨て自転車の輪が回る/中拓夫〉「輪が回る」とは捨てられることで自転車の新しい人生がはじまるかのよう。

枇杷青しひとときかつと机照る 中拓夫

放送大学「文学批評への招待」第11章フェミニズム批評(1)

学習課題1 ケイト・ミレット『性の政治学』を図書館などで借りて、著者が男性作家の性差別主義的な描写をどのように批判しているか、確認しよう。

「性の政治の諸例」としてケイト・ミレットはまずヘンリー・ミラー『セクサス』の叙述文を引用し、それに含まれる性差別的主義的な描写を「その場面全体はまるで一連の戦略のようであり」とする。そして、一文ごと一語ごとにその策略を暴く。「恥毛(マフ)」の隠語としての意味やアイダについての「動物じみた自己抑制のなさ」の描写と対照的なヴァルの「落ち着きぶり」やすみやかに変わる体位などを分析して『サクセス』という作品に「男性優位の主張」を見出す。さらに、それらをケイト・ミレット自身の用語である「性の政治」を用いて「交接(コイタス)という根元的レベルにおける性の政治の一例である」と断定し、批判する。あたかもヘンリー・ミラーが、父権制イデオロギーに則り、男による女への支配を確固たるものにするような教育的意図を文学的動機として執筆しているかのように思わせる。もしヘンリー・ミラーの執筆活動が父権制イデオロギーを推進するための、その通り、性の政治でありイデオロギーのための戦闘なのだとしたら、ケイト・ミレットのフェミニズム批評という文学批評の手法もまた性の政治であり、革命であり、そして終わることのない性間戦争となる。

永島靖子『紅塵抄』牧羊社

永島靖子『紅塵抄』牧羊社を読む。〈をみならに畳冷たし利休の忌/永島靖子〉フェミニズム批評としてはいろいろあるだろうけれど、千利休の美への追求と美を追求される生き物としての女という対照がある。〈若鮎の波打つさまに焼かれたる/永島靖子〉生命力の動きそのままに焼け死ぬ。〈血の音をつつめるごとき白地かな/永島靖子〉包んでもなお聴こえる血の音の激しさということ。〈夕鵙やしばらく樹下に旅鞄/永島靖子〉鵙の早贄から旅人の運命や如何と思わせる。〈わが触れて鶏頭の色変りけり/永島靖子〉実際に変わったのはわが心でありその変わった心を通して色が変わったように見える。〈歳晩の灯や崖下の楽器店/永島靖子〉歳晩、町の暗さが崖面で際立つ、そのなかを小さな灯、そして楽器店のわずかな灯。〈蕗原や黒瞳大きな女学生/永島靖子〉蕗原は信濃国の蕗原荘を思わせる。〈揚羽より速し吉野の女学生/藤田湘子〉の吉野の女学生に並び、山国に生きる杣人の生命力を感じさせる。〈絨毯の紺青深き無月かな/永島靖子〉色の深さは絨毯の毛の深さを連想させる。音も消え、月も消える。〈他国動乱金魚の鰭の襞の数/永島靖子〉動乱について、というより俳句の景を視るスケールについての詩だ。〈革の鞭土に置かるる良夜かな/永島靖子〉「革の鞭」には気高さがあり、月を見上げる人の顎の尖りを際立たせる。〈ふらんすの鳥類図鑑良夜なり/永島靖子〉とはすこし人が違う。〈あたたかし湯呑一個と巴里地図/永島靖子〉は〈洋梨とタイプライター日が昇る/髙柳克弘〉のような藤田湘子の二物衝撃だろう。

雲行きしのみ青蔦の女学院 永島靖子

感覚の不一致

各都府県に緊急事態宣言が発令されているなか、『田中裕明全句集』ふらんす堂の「櫻花譚」部分を読む。〈宿出でててもとさびしき春日傘/田中裕明〉春日傘があるはずなのに「てもとさびしき」はその人が春日傘を差しているのではなく連れが差しているから。「てもと」が情感めく。〈峰雲や櫻のはだのつめたきに/田中裕明〉一季節前の花盛りを峰雲から連想せざるをえない。櫻の木肌に置いた手の感触に湧き上がる思いは夏空へのぼる。〈京へつくまでに暮れけりあやめぐさ/田中裕明〉現代でもいい、初夏に内陸のやや繁華な地方都市へ辿りついたときの感覚が甦る。それは飯田へ辿りついたときの寂しさとも前橋へ辿りついたときの寂しさとも少し違う寂しさのはず。事象の感覚と必ずしも一致しない感覚をもつ季語を斡旋する。そのとき生じる感覚のズレが飽きのこない俳味となる。〈落鮎はむらさきの木のなかをゆく/田中裕明〉木の繊維を泳ぐのではない、樹間をゆく。「むらさきの」とは記憶の美化された色だろう。〈額の花つれきし人は音もなし/田中裕明〉「つれきし人」は額の花のように瀟洒で繊細な色遣いの人、「音もなし」は額の花そのものではないけれど、ありようは確かに「額の花」感覚の円周に接するあたりにある。〈小さくて全き六腑水温む/田中裕明〉幼児の臓器について、だろう。なぜあの小さいなかにすべてが詰められたのか。幼児の臓器がもつ滑らかさの感覚と「水温む」のあいだにある感覚のズレが楽しい。

歯朶を刈ることに星ぼしめぐるやう 田中裕明

景のつくり方

山羊を見た日、『田中裕明全句集』ふらんす堂の「花間一壺」部分を読む。〈天道蟲宵の電車の明るくて/田中裕明〉宵という暗のなかに車窓の明のある「宵の電車」、それに赤地という明のなかに黒点の暗のある「天道蟲」の比較。もしかしたら害虫の天道蟲かもしれないけれど一句に二つの対照が並べられている。〈濁り鮒人に逢はねば帰られず/田中裕明〉「濁り鮒」は負の感情や義務感を表すために直感で付けられた季語だろう。実景としてあるわけではないけれど、心象には濁り鮒が確かに泳いでいる。そういう景の拵え方がひとつの魅力となっている。〈かもめ飛び春服ひくく吊られける/田中裕明〉景のつくりかたとして「ひくく」は安直である。しかし夏のような大空ではなく手近な範囲の春としてかもめを低く飛ばすため、春服はひくく吊るされた。〈ほとほとの卯の花腐し海の寺/田中裕明〉木製のものにものの当たる音「ほとほと」が良い。「卯の花腐し」という季語の斡旋が海にほど近い寺の潮風にすぐ朽ちる柱などを思わせる。たとえば、漁民の寺かもしれない。〈落鮎や浴衣の端の黄を好み/田中裕明〉落鮎といえば錆色だけれど、鮎なので黄色が目に残るということか。「浴衣の端の黄」とは消えゆく名残りの表現だろう。〈貝寄風のむらさきいろに装釘し/田中裕明〉「むらさき」は高貴な色、大阪あたりの人が春との訪れとともに密かに数冊の自費出版詩集を紫の上質な紙の装幀で編んだら、ひとつの音楽のようではないか。

行春のはばたきふかき空にあり 田中裕明

浜松文芸館の合作俳句

放送大学の学生証をとりに早馬町のクリエート浜松へ寄る。一階に浜松文芸館の合作俳句企画の設備として赤いガシャポン機が置いてある。

浜松文芸館の合作俳句

ガシャポン機を回すとカプセルが出てきて開くと上五の季語「鶯や」と書いてある。AEDの下にある用紙にその上五を書き写す。上五はカプセルに入れてガシャポン機に戻す。次に上五とつながりのない中七を用紙の隣に書く。上五と中七を書いた用紙を持って五階へ上がる。浜松文芸館のよこ、エレベーター前に別の赤いガシャポン機が置いてある。

合作俳句ガチャポン機

空のカプセルに用紙を入れてガシャポン機に入れる。しかしあいにく他のカプセルがない、なので合作俳句を完成させられない。さっき自分が入れたカプセルを出すのも虚しいし、そこまで景品が欲しいわけではない。自分、おとななので。私はもういちど一階に下がり同じことを繰り返す。次の季語は「シクラメン」だった。五階へ上がりふたたび一階に下がる。次の季語は「蛤や」だった。くりかえし五階へ上がる。三個のカプセルが五階のガシャポン機に溜まった。満足し、私は立ち去る。

合作俳句

不在の存在

『田中裕明全句集』ふらんす堂の「山信」部分を読む。〈今年竹指につめたし雲流る/田中裕明〉あきらかに景に人物がいるはずなのに表情やその体臭を感じさせない。今年竹に触れる指を中心にしているのだが、レンズは雲が動いている空へ焦点を合わせている。〈口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし/田中裕明〉もまた口笛が確かに聴こえるのに映るのは人ではなく池の蝌蚪たちだけだ。〈水澄むや梯子の影が草の中/田中裕明〉も梯子を立てかけた人はどこかにいるはずなのに映らない。影だけが草の中にあるのかもしれない。〈ラグビーの選手あつまる桜の木/田中裕明〉に至っては桜の木が映るまで引いたためにラグビー選手らは背景となった。そこに存在しないけれど、不在を強調された人物は、読み手のなかにどうしても存在してしまう。

濯ぎものたまりて山に毛蟲満つ 田中裕明

日野百草『無中心』第三書館

異動初日、日野百草『無中心』第三書館を読む。〈それぞれに頂上があり山笑ふ/日野百草〉それぞれ勝手に悦に入りそれぞれ勝手に笑う。〈酒ばかり買ひに行かされこどもの日/日野百草〉ありえそうな主客転倒が愉快、こどもの日の宴なのに遣いに出されるし、お菓子は買えない。〈原爆がふたつも落ちてさくらんぼ/日野百草〉ふたつは並ぶのではなく列ねるとでも言うのか。〈樺太の南半分残る蝉/日野百草〉一九四五年八月の南樺太という在り方について考えさせる。〈武器もなく立たされてゐる案山子かな/日野百草〉立たせているのは国家であり、人間の集団だ。〈生粋の無産階級おでん食ふ/日野百草〉「生粋の」と「無産階級」の組み合わせがすでに面白い。〈軍艦の肉づき寂し冬の波/日野百草〉「軍艦の肉づき」というエグみが効いた。

夏休み楽屋で宿題する子役 日野百草