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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

白井健康『オワーズから始まった。』書肆侃侃房

白井健康『オワーズから始まった。』書肆侃侃房を読む。〈三百頭のけもののにおいが溶けだして雨は静かに南瓜を洗う/白井健康〉南瓜という存在のどぎつさが雨に洗われる、そのどぎつさのままに。〈自販機のボタンをみんな押してゆくどんな女も孕ませるよう/白井健康〉オートマチックな恋愛、すべてはボタンを押すように恋愛の掟に則り手当たり次第射精に至るだけだ。〈プテラノドンの影がゆっくり過ぎてゆくザザシティからプレスタワーへ/白井健康〉ザザシティは私の日常語だけれど、他市の人はこの固有名詞をどう捉えるのかを知りたく思う。ただの擬音となるかもしれない。〈蟷螂の交尾を指でつついてる海を飛べない少年である/白井健康〉交媾と繁殖への願いが「海を飛べない」という修辞の鮮やかさに秘められる。

砂山に月の卵をうずめては孵化するまでを春と呼びたい 白井健康

髙柳克弘『未踏』ふらんす堂

中央図書館の郷土資料室で髙柳克弘『未踏』ふらんす堂を読む。〈卒業は明日シャンプーを泡立たす/髙柳克弘〉卒業後の生き方はシャンプーをしているときの閉ざされた視界のように不明瞭、それこそ〈ことごとく未踏なりけり冬の星/髙柳克弘〉のような未知への期待感で胸がふくらむ。〈夜の新樹どの曲かけて待つべきや/髙柳克弘〉iPod登場以降の句、夜の新樹が待つ人の半袖とか夜風の流れとかを想像させる。そういえば渋谷ハチ公像は樹木に囲まれていた。〈一心に読みつぐ眉間夜の新樹/髙柳克弘〉も参考に。〈ストローの向き変はりたる春の風/髙柳克弘〉風表現のひとつとして。プラスチック時代のストローには何色か色があるはずで、それが春めく。〈星充ちて夜の絶頂きんぽうげ/髙柳克弘〉きんぽうげの使い途として正しい。〈何もみてをらぬ眼や手毬つく/髙柳克弘〉盲目ということではなく、現在を見ず、手毬の弾む未来を凝視している一瞬を捉えた。〈水族館かすかに霧のにほひせり/髙柳克弘〉霧はきっと海獣の臭いの喩として。〈さみだれや擬音ひしめくコミックス/髙柳克弘〉擬音は頭のなかで鳴るのであり、「さみだれ」と開いたのは実景というより頭のなかの五月雨、梅雨の煩わしいイメージを強調したのだろう。〈掌のうちをライタア照らす野分かな/髙柳克弘〉掌のうちの明るさと外の景の暗さの対比がシュルレアリスム絵画めく。

桐の花ねむれば届く高さとも 髙柳克弘

犀ヶ崖の句碑

浜松市布橋の犀ヶ崖古戦場跡には、天明俳壇の雄・大島蓼太の句碑〈岩角に兜くだけて椿かな/蓼太〉が立つ。首をまるごと落とすように花ごとポトリと落とす椿の赤が、山武士たちの鮮血を連想させる生々しい幻想の句だ。夕暮れの犀ヶ崖に鎌鼬が出るという伝説とともに想像力をかきたてる。『俳人大島蓼太と飯島』飯島町郷土研究会によればこの句碑は、昭和十一年に「雪門系の俳人野沢十寸穂(ますほ)の筆で、久野仙雨らが発起人となり建立」されたという。雪門とは大島蓼太の師・服部嵐雪の流れを汲む一派のこと。

大島蓼太の句碑、岩角に兜くだけて椿かな

 

横にして見るや浜名の横霞 大島蓼太

澤田和弥『革命前夜』邑書林

浜松市内にはじめて新型コロナウイルス感染者が出た日、澤田和弥『革命前夜』邑書林を読む。〈鳥雲に盤整然とチェスの駒/澤田和弥〉黒白の無機質さと鳥雲の灰色と。盤の直線が交わる消失点へ鳥は引く。〈空缶に空きたる分の春愁/澤田和弥〉春愁は残量ではない、「空きたる分」という捉え方が面白い。〈恋人の臍縦長に花の雨/澤田和弥〉縦長の臍は美人を連想させる、花の雨のような華やかな湿り気。〈とびおりてしまひたき夜のソーダ水/澤田和弥〉ソーダ水の瓶に夜景が透ける、そんな透明な存在としての自己がある、まだある、発泡しながら。〈かの胸は簡単服に収まらず/澤田和弥〉そんな胸に、子安北交差点で出合った。〈夜の秋古きノートに五賢帝/澤田和弥〉高校時代のノートか、古代ローマの都市へ思いを馳せる晩夏、ポール・デルヴォーの絵画のような。〈秋水や遠州弁母語とする/澤田和弥〉「立て板に水」など言葉は水に喩えられる。ふいに口をついて出た「だもんで」「〜だに」への懐かしさに心が澄みきるような思い。〈深秋や本に二つにバーコード/澤田和弥〉熱意とともに生まれた言葉たちが商業に組み込まれていくことの二つのバーコードという寂しさ。〈手袋に手の入りしまま落ちてゐる/澤田和弥〉斬り落とされたか、単に手のかたちに膨らんでいるだけか。〈乳房の豊かすぎたる雪女/澤田和弥〉温度のなさそうな雪女に繁殖力が備わる不思議さ。

男娼の錆びたる毛抜き修司の忌 澤田和弥


澤田和弥サイン本

左手親指のささくれ

カップヌードルで暖を取る左手親指のささくれから吹いてくる乾いた風/生田亜々子(『アルテリ』五号)

豊田西之島のパン屋one too many morningsで読んだ『アルテリ』五号、短歌連作「なだれるように」より。「カップヌードル」や「ささくれ」で生活の様子は類推できる。壊れそうな生活、カップヌードルのお湯から手へ伝わる温度で親指へ血が巡る。拍動のたび記憶が甦るように、ささくれから乾いた冬の風が吹く。破調は心の動揺である。

enterを二回押したら真っ青で圧倒的にひとりの夜更け 生田亜々子


天然酵母パン one too many morning

『寺山修司俳句全集』あんず堂

合同句集『麦の響』が届いた日、『寺山修司俳句全集』を読む。〈十五歳抱かれて花粉吹き散らす/寺山修司〉花粉は花の性器である雄蕊で作られる。十五歳は花束を渡され、かき抱かれた弾みでその花束が花粉を吹き散らす。しかし省略が、あたかも十五歳そのものが花の性器であるように読ませる。〈父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し/寺山修司〉仏教における犀の角がちかいのかもしれない。犀の角のように知の国へ独り歩む父への追慕なのかもしれない。〈土曜日の王國われを刺す蜂いて/寺山修司〉王国とは閉ざされた埋没の世界である。土曜日から連想されるのは土に根差した埋没である。しかしその埋没を破るのが蜂の針で。〈電球に蛾を閉じこめし五月かな/寺山修司〉電球は青年の意識が埋没していく場所、五月の明るさに反比例するように。〈かくれんぼ三つかぞえて冬となる/寺山修司〉子供たちが三つまで数えそれから声のなくなる、誰もいない枯山の景が一瞬にして癌前に広がる。〈冬浪がつくりし岩の貌を踏む/寺山修司〉当然ながらこの貌は自己の険しい貌でもある。〈もしジャズが止めば凩ばかりの夜/寺山修司〉ジャズ停止後をかくれんぼの静寂と同じとするならジャズとかくれんぼの三つは類似した音楽ということになる、〈もし汽車が来ねば夏山ばかりの駅/寺山修司〉とともに。〈霧ふかし深夜のラジオ壁を洩る/寺山修司〉霧の浸透とラジオ音の浸透、世界への遠さとか。〈枯野へ向く塀に求人ビラはらる/寺山修司〉枯野という無人地帯へ向けて刷られた求人ビラという面白さ。〈春の暁紙屑に風ひそむかな/寺山修司〉いまにも飛び出しそうな紙屑の春めく皺とカサカサと鳴る音。

ふらんすの海の詩集へ咳こぼす 寺山修司

坂なす

ポストまで村が坂なす天の川/広田丘映(福島万沙塔『建築歳時記』学芸出版社

ポストは郵便差出箱であり、この坂は上り坂だ。村という言葉には面積的な広がりがあり、ポストまで坂がひとつあるなら他に何本もある。「村が坂なす」はポストめがけ村が隆起しているようでもある。もちろん夜なので星空は見えるけれどポストは見えない。概念的なポストと言える。丘の上にあるポストは郵便網を通して他の町へ繋がっている。そんなポストに潜在する可能性はまさに天の川。

中澤系『uta0001.txt』双風舎

ふと〈結語への遠き道行き風船はいままだビルのなかばのあたり/中澤系〉が目に入り、高層ビルの中にある空洞を上がっていく黄色い風船を思う、そしてふたたび中澤系を読まなければならないと思った。〈駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに/中澤系〉人に会って感謝したとき、または人に怒ったときにその人そのものではなく、その人の背後にあるシステムに対してその感情を当てるよう私たちは訓練されている。〈じゃあぼくの手の中にあるこの意味ときみの意味とを比べてみよう/中澤系〉同じ文でも人により意味は違うように解釈されるのだから、ひとまず手の中にある意味を比べて確認することからはじめよう。〈罪ならば 九段下より市ヶ谷へしずしずゆるき坂を上れり/中澤系〉そのゆるき坂には靖國神社があり、日本史の功罪について考えさせる。「しずしず」はすでに人生という刑に服さんとしている。〈未決囚ひとりひなかの快速にいてビールなど呷っていたは/中澤系〉未決囮の社会的宙ぶらりんと駅から駅への浮いた旅とはよく似ていて、さらにビールがよく似合う。〈生活を構築せよとある朝の冷たい水に顔を浸して/中澤系〉生活は余りに遠くなってしまった。生活は崩れゆくものであり、構築しようとする先からこぼれてしまう。いくら冷水で顔を洗ったとしても。〈ひょっとして世界はすでに閉ざされたあとかと思うほどの曇天/中澤系〉閉ざされているのではなく閉ざされ、もう終わったあとの世界で、ぼくらは、探しにいく。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系

放送大学「文学批評への招待」第9章精神分析批評(2)

学習課題2 ギリシア悲劇ソフォクレスの『オイディプス王』を読み、この悲劇が現代人にも感動を与えるとすれば、どこにその理由があるかを考えてみよう。

現代人はもはや近親相姦の禁忌や父殺しくらいでは心を動かされない。『オイディプス王』はエディプス・コンプレックスの解釈では不十分な作品となった。しかし強大な運命に打ちひしがれた人が、その生の一瞬に示した自由意志の輝きには現代人も感動しうる。
スフィンクスの謎解き英雄であるテーバイ王オイディプスは飢饉に苦しむテーバイを救うため、神託に従い前王ライオス殺しの犯人を「全力を尽くして」捜査・前王の仇である犯人を追放すると言う。「さもなくば破滅だ」と誓う。しかし盲目の預言者テイレシアスに「おまえが犯人自身だ」と言われてしまう。また王妃イオカステから前王ライオスが殺された現場の位置を聞かされ、さらに目撃者の話を聞き、前王ライオス殺しの犯人が自分であることを悟る。それでもデルポイの神託「母親と交わって、人が目をそむけるような子らを生み、実の父親を殺すだろう」については、オイディプスの父王であるポリュボスの死の報せを受け、その神託は成就しなかったとオイディプスはひとまず安堵する。しかしすぐに使者からポリュボスはオイディプスの父親ではないと知らされ、様相は逆転する。さらに前王ライオスに仕えていた羊飼の証言と踝の古傷という秘密の暴露によりオイディプスデルポイの神託が成就したことを認知する。前王ライオスを殺したばかりかその前王ライオスが自分自身の父親であり神託の通りに父殺しを犯し、王妃イオカステは自分自身の母親でありその母と交わったとオイディプスは否応なしに知る。神託や踝の古傷という形で匠みに張られた伏線が時間をおいて回収されていく。その度にオイディプスの感情はジェットコースターのように乱高下する。登場時はスフィンクスの謎解き英雄だったオイディプスは両眼を潰した悲運の人へ身をやつし退場する。
抗いきれない運命に翻弄される事態は現代でも起こりうる。多くは運命を呪うだけだ。しかし悲運の人オイディプスは自ら両眼を潰し自らを追放した。なぜなら自らを罰することだけが運命へ抗うために示せる唯一の自由意志だからだ(オイディプス「ありとあらゆる苦しみを私に与えたのはアポロンだ。だが、目を潰したのは、ほかならぬ私自身」(河合祥一郎オイディプス王光文社古典新訳文庫)。スフィンクスの謎解きではないけれど四本足のときは羊飼に救われるだけだった彼はそれからずっと自分の二本足で歩き続けてきた。終幕近くにクレオンは言う「すべて思いどおりにはならぬ。すべてを意のままにできるオイディプスは、もはやいないのだ」と。しかし悲運を呪うだけではなく再び自分の両脚で歩みだしたオイディプスの強さに、現代人は感動するだろう。

自らの呪いを自らに受け、自らその身を追放する

穂村弘『水中翼船炎上中』講談社

中郷温水池公園へ赴いた日、穂村弘水中翼船炎上中講談社を読む。〈なんとなく次が最後の一枚のティッシュが箱の口から出てる/穂村弘〉この予感はよく当たる。そして最後の一枚をつまんでほじくり出す。〈口内炎大きくなって増えている繰り返すこれは訓練ではない/穂村弘〉新型コロナ・ウィルスも、繰り返すこれは訓練ではない。〈電車のなかでセックスをせよ戦争へゆくのはきっと君たちだから/穂村弘〉言われるがままおとなしくしていちゃダメだ、殖やせ。〈先生がいずみいずみになっちゃってなんだかわからない新学期/穂村弘〉いずみ先生が泉さんと結婚した。〈クリスマスの炬燵あかくておかあさんのちいさなちいさなちいさな鼾/穂村弘〉クリスマスどうのこうのよりお母さんの鼾がある方が日本の幸せである。〈金色の水泳帽がこの水のどこかにあると指さした夏/穂村弘〉さぁ金色の水泳帽を見つける夏の冒険のはじまりだ。〈ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下/穂村弘〉「半」は生命の神秘。〈僕たちのドレッシングは決まってた窓の向こうに夏の陸橋/穂村弘〉その陸橋を渡ればきっと違うドレッシングに出会える、かもしれない。〈手書きにて貼り出されたる宇宙船乗務員性交予定表/穂村弘〉宇宙船が飛ぶ時代、おそらく星間移民船であっても掲示板に手書き文字という意外さ。〈蜂蜜の壜を抱えてうっとりと母はテレビをみつめていた。/穂村弘〉思わず観入ってしまって、その壜のとろめきは母のときめきのようで。〈うすくうすく波のびてくるこの場所が海の端っこってことでいいですか/穂村弘〉もしかしたらうすく波ののびてくるこの場所が海の中心かもしれないけれど、端っこである方がおさまりがいいので。

何もせず過ぎてしまったいちにちのおわりににぎっている膝の皿 穂村弘

放送大学「文学批評への招待」第8章精神分析批評(1)

学習課題2 ギンズブルグの論文「徴候」(『神話・寓意・徴候』第5章)を読み、推論的パラダイムの系譜について学んだ上で、それを、どうすればテクストの読解に生かすことができるかを考えよう。

推論的範例(パラダイム)は狩人の世界に起源を持つという。十九世紀後半、レルモリエフことモレッリは絵画の鑑定について「個性的な努力の最も弱い部分に個性が見出される」とした。モレッリの評論を読んだフロイトは「不必要なものや副次的な与件が真実を示す」と考えた。コナン・ドイルもモレッリの評論を参考にシャーロック・ホームズが活躍する探偵小説を執筆した。モレッリにフロイトコナン・ドイル、彼ら三人とも医学を学んでいた。医学には症候学という、古代ギリシアヒッポクラテス派により確立された方法論がある。十九世紀後半にこの症候学を基盤とする推論的パラダイムが現れた。この推論的パラダイムをテクストの読解に生かすためには三つの方法が考えられる。

文字数の分析

まずは文字数の分析である。これは文や文章の文字数を比較したり名詞・形容詞・助詞・助動詞などの頻度を算出したりする分析だ。この分析ではテクストが書かれた時期や意味を重視する度合いを計測でき、テクストの性質を推し量れる。たとえば前半と後半で文字数あたりの特定の助詞が使われる頻度が変化したのならば前半と後半とで書かれた時期に隔たりのあるテクストかもしれない。時期の隔たりについては次の単語の分析と合わせても考えられる。

単語の分析

次に使用された単語の分析である。例えば類似した意味を持つ単語や漢字のうちどれが使われているか(知恵か智慧か、座禅か坐禅か、イスラームイスラムか、蝉か蟬か、花か桜か、人工言語か国際補助語か)でテクストのバックグラウンドとなる知識体系を把握し、テクストの志向を掴むことができる。たとえば「イスラム」という単語が使われたテクストはそれほどイスラームアラビア語に詳しくない人の手によるテクストと判断でき、「エスペラント語」という単語が使われたテクストはエスペランティスト以外の手によるテクストの可能性がある。

不在の分析

最後は文脈上必ず言及されるはずなのに言及されなかった単語についての分析である。名数「三」が出され三のうち二は触れて残りの一つに全く触れなかったとしたら、作者にはそれを黙殺する何らかの理由があると解釈できる。とある株式会社に三つの地方支社があり社長文書が二つの支社の来期計画に触れて残りの一支社についてはその名すら上げなかったのならば、その支社には何か問題があり来期には廃止されるとその社長文書は予告していると解釈できる。

三つの方法を挙げたけれど還元主義的批評の傾向が強い。しかしテクスト解釈のために必要な情報を得られるだろう。テクストは「2001年宇宙の旅」の宇宙船のように宇宙に浮かんでいるわけではないのだから。ただ、いずれもテクストの内容で正当付ける必要がある。推論的パラダイムは強者が弱者を管理するためにも使えるし、弱者が強者へ抗するためにも使える。テクストを出し続ける者がいる限り有効な方法論だ。

異動の夢

異動になり、作業室の隅っこにある区分棚の前に立つ。四列くらいしかない区にすでに2パスが満載に差されている。輪ゴムでくくり、鞄に詰めてカブで出かける。途中、河岸段丘の上にある住宅街の児童公園にカブを停めた同僚が丘下の住宅街まで歩いて下りて配達している。カブは田園地帯に出る。輪ゴムでくくった束を鞄から取り出し一番上の宛先を見ると「新光市」と書いてある。知らない自治体でどこか分からない。宛名はなんとか易占堂とある。前夜に読んだギンズブルグの易占的範例か。易占堂をグーグルマップで調べると浜松市の駅南にある。すべて持ち戻り、先輩に訊く。新光市は浜松市のまちなかにある高層ビル群の一区画らしい。

亀鳴くや亡命政府への葉書 以太

小野茂樹「羊雲離散」『現代短歌全集第十五巻』筑摩書房

紙を数十枚もらった日、『現代短歌全集』の小野茂樹「羊雲離散」部分を読む。〈秋の夜の風ともなひてのぼりゆく公会堂の高ききざはし/小野茂樹〉夜に公会堂の階をのぼる。K音を連ねる高揚感がある。高さへの憧憬あるいは畏怖は〈失ひしものかたちなく風の中の操車場塔つぶさに高し/小野茂樹〉〈いちはやく断層に街の灯はともり高き灯に夜の風当たりゐむ/小野茂樹〉などにも読める。〈蔽はれしピアノのかたち運ばれてゆけり銀杏のみどり擦りつつ/小野茂樹〉ピアノではなくあくまでも見えるのは「ピアノのかたち」。擦れ銀杏の葉が緑の音階に沿って鳴る楽しさ。〈更けてなほ町はにぎはふ貨物駅の塀にて成りし夜店の片壁/小野茂樹〉川崎あたりの工場地区の猥雑な飲み屋を思わせる。〈坂に沿ふ空溝に水くだりゆく堰かれしもののいきほひ新し/小野茂樹〉人間の息づかいをたしかに聴く景の描写、押さえつけられた者の怒りがほとばしる。似たような景に〈地に低く雨の音満ちきみを追ふべく幅のある道に惑ひき/小野茂樹〉があり、これは破調が急に幅の開けた道への惑いを表現している。〈はしけにて向かへば陸はひしひしと迫りぬ人なき露地もつぶさに/小野茂樹〉上陸前の街がしだいに詳細に見えてくる、解像度の上がっていく感じが「人なき」で鮮やかに視覚化される。〈手袋をはめつつ出でて擦るごとく歩道に伸ぶる夕光を踏む/小野茂樹〉魔術師めいて夕方の街をゆく。〈送り来しこの路次のはて灯を入れし公衆浴場うちら濡れつつ/小野茂樹〉銭湯の「濡れつつ」は送り来し人のエロティックな記憶とともに垣間見る。〈床高し電車の過ぐる踏切にわれら断たれてゐたり急きつつ/小野茂樹〉電車の「床高し」は隔てる境界の高さであろう。〈囲はれし園もたがはず冬なりきしきりに波紋の浮かぶ池あり/小野茂樹〉「囲はれし」は追い詰められた人生の意なのだが、そこにもなお活きようとする意思が池の波紋としてある。〈石段に土流れたる痕ありてもろく水浸きし街いま乾く/小野茂樹〉闘争のあと傷痕としての泥がこびりつくままの街だ。〈人のぬくみのみ確かなる夜にして海へ出でゆくはしけ舟見ゆ/小野茂樹〉艀舟は人のぬくみを外れる勇気として海へ出る。〈みづからのため甲ひたる詰襟の黒き咽喉にて歌へば声あり/小野茂樹〉学生は合唱する、それは誰のための歌なのだろう。〈あやまたず岐路多き日を歩み来て湯のなつかしき重みに沈めり/小野茂樹〉なんとか辿りついた一日の終わりに訪れる休息の湯は羊水にも似て、重く身体にまとわりつく。〈非力のとき誠実といふこと卑し月を過ぎゆく羊歯状の雲/小野茂樹〉月を掠める羊歯状の雲が、運命というものの儚さを現している。〈脈博のごときわれらの時をきざむ時計は腕に小さく冷えたり/小野茂樹〉刻むのは「われらの時」だからこそ小さく冷える。それは現実の時間より少し遅れている。〈一枚の葉のみ樹冠に昏れ残るまぼろしの木はねむるとき見ゆ/小野茂樹〉夕闇に見た一枚の葉の寂寥は〈ひたすらに日はわたりゆく夏柑の一つを残す木立の上を/小野茂樹〉の夏柑と似ている。〈ことごとくわが生きざまを許さぬとこゑあり扇風機の風旋り来ぬ/小野茂樹〉夏の脳裏に甦る言葉が寄せては帰す扇風機のように何度も響くのだ。忘れさせてくれない。〈まなざしのひとつわが身を過ぐるとき電車は内部灯りつつゆく/小野茂樹〉踏切、轟音をたてて過ぎゆく夜の電車の明るさは心の衝撃音のようでもある。〈あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ/小野茂樹〉類型の夏とかけがえのない夏、その間を行きつ帰るのが青春であろう。

感動を暗算し終えて風が吹くぼくを出てきみにきみを出てぼくに 小野茂

虚の自由

唐木順三は『無用者の系譜』筑摩叢書において西山宗因の虚について書く。

卽ち實の世界の常ならぬむなしさを身にしみて體驗したのである。(略)過去の重臣の位置に對比した現在の浪人のわび姿が、やがて、實に對する虛、和歌に對する寓言、連歌に對する狂言、卽ち實世間を茶化する俳諧滑稽の談林世界をよび起すことになるのである。無用坊の世界、無樂の樂、ひざをくづした世界である。(略)宗因が浪人を選びとつたのは尤もなことといはねばならない。卽ち現世の秩序からはみでた虛の世界、夢幻の世界において始めて戲言、狂句の自由をえたのである。「無用坊」となることによつて始めて詩人となりうるといふ條件がそこにあつた。

社会が大きく変化するときは虚の世界が繁るときだ。

日下野由季『馥郁』ふらんす堂

新型コロナウィルスのパンデミック、そのただなかで日下野由季『馥郁』ふらんす堂を読む。〈金木犀己が香りの中に散る/日下野由季〉高貴さのゆえに己が香り以外は寄せつけず。〈花野ゆく会ひたき人のあるごとく/日下野由季〉その歩調が、歩幅が人に逢いたがっている。〈あをぞらに噴水の芯残りたる/日下野由季〉水は消えても芯は空に残る、記憶の残像として。〈一音をもて地にひらく落椿/日下野由季〉落下を「一音」と描写した鮮やかさ。〈鳥雲に入る灯台に窓一つ/日下野由季〉窓がひとつしかない灯台の内側の暗さ、それこそ鳥雲の寂しさ。〈句座果てて一人ひとりひとりに夏の月/日下野由季〉月は人が見る面ごとに月であり月面なのだろう。〈初明り差す胸深きところまで/日下野由季〉心の深奥まで初明りが照らすのは心がまっさらな元旦だから。

 

しやぼん玉こはれて草のうすみどり 日下野由季