学習課題4 ベンヤミン、バフチン、アウエルバッハ、バルト、三島由紀夫のいずれかの小説論を読んで、われわれが小説を読むうえで参考になる点を考えてみよう。
作者を殺せば小説の楽園へ至る。そこは小説の父たる作者が支配する意味の家父長制を破壊したあとに現れる、意味のつきせぬ泉を湛える無法地帯の楽園だ。
ロラン・バルトが「作者の死」を書いたあとでも作者はまだ死んでいない。作者の意図を探ろうとし、作者の言葉に憤慨し、作者にそう考えるよう命じられたのかのように考える人は絶えないからだ。確かに数人の読者は誕生しただろう。しかし読者になれない人たちはまだ地球上に蔓延り、とあるエクリチュールを「ヘイトだ」と究極的意味を与え、ほかのエクリチュールを「差別的で偏見を与える」と意味を固定している。例をあげると日本では「ちびくろさんぼ」や「無人警察」などのタイトルをもつエクリチュールで作者の延命が図られた。21世紀になってもエクリチュールに神学的な意味を出現させ憤慨し、そして作者の断罪を望みかつ作者を神として生き長らえさせようとする言説に、TwitterなどSNS上で出合う。実はみんな憤慨と断罪が好きなだけではなく、それ以上に作者と家父長制が大好きなのだ。
偽善的にも読者の権利の擁護者を自称するヒューマニズムの名において、新しいエクリチュールを断罪しようとすることは、ばかげているのだ。(ロラン・バルト著、花輪光訳「作者の死」『物語の構造分析』みすず書房)
では、ばかげたことを止め作者を確実に殺すにはどうすべきか? どんなエクリチュールが出されても、誰も悲しまず、誰も憤慨せず、誰も出版停止を訴えない世界、誰もがそのエクリチュールを読解するのではなく解きほぐし、その解釈によって提出された意味に生じる原因と責任を作者に押しつけるのではなく読者の側へと引き寄せられる世界を実現させたのなら作者を殺せる、作者に死を与えられる。
みんなが大好きな作者の、その葬式を済ませることで、はじめて読者は誕生し、エクリチュールの豊穣を楽しむことができる。その世界は「理性、知識、法」を拒否した、新しいエデンの園である。