- 町丁目ごとに色分けをする(防災リテラシー研究所)
- 志都呂の歴史
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浜松市の「志都呂」は,浜名湖付近の丘陵の先端部に位置する。これは,「シト(舌状丘陵)オロ(その処)」で,後に転化し,「シトロ」になったのではないかと推測している。また,「下流」も同様に転化しもので,「志都呂」と同義ではないかと指摘している。(菊地達夫「九州地方におけるアイヌ語系地名の残存の可能性」)
- ↑指摘は清水清次郎
- 志都呂のあたりを佐鳴湖から流れる湖辺洲川、その両脇の湖辺沼(こべぬま)、旧地名は蛭田・巴水ヵ岡
- 藤原不比等の嫡孫、藤原静足が806年に蛭田(志都呂)へ定住。
- 1076年に、白河天皇の皇子、敦文親王と源土守(ひじもり)が蛭田許倍大明神を祭る。
- 敦文親王はまもなく疱瘡で病死。
- 許倍椎
- 1698年、松平志摩守中明(五井松平家)、志都呂陣屋、表高5500石(実質8200石?)
- 志都呂の俳人・下山千蔵は大島蓼太の門人、号を閑里。下山閑里
- 浜松在萱場(旧東区中野町)金原総本家の出で国学者波多完(はたたまき)、名は市郎、号は漣舎(さざなみや)
- 波多完による志都呂歌会、文政年間・天保年間
- 志都呂幼稚園の敷地がかつて志都呂陣屋、園庭の西側が主殿、東南の弁天様のあたりが牢屋
- 志都呂方言「日出(ひづ)るしい」眩しい、「おだいさま」金持ち。
- アートプロジェクトの3人事務局「事務局長」「広報」「経理」
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まずは前提の確認から。問題意識や個人の動機を、誰かに伝えることを想定したことばに置き換えてみる。(『アートプロジェクトのつくりかた』フィルムアート社)
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より具体的なことばを選ぶ方が、事務局の目指す方向性がシャープになるといえるだろう。(『アートプロジェクトのつくりかた』フィルムアート社)
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「とにかく何でも残すこと」が、アーカイブつくりの近道だ。チラシ、ポスター、議事録、スケッチ、メモ、領収書、写真、音声、映像など、さまざまな場面で作成する資料の、できるかぎりをすべて残す。(『アートプロジェクトのつくりかた』フィルムアート社)
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「何が売りになるだろうか?」という自問(『アートプロジェクトのつくりかた』フィルムアート社)
- ふいに拡張子.jtdとバックアップの拡張子.$tdを見て、兵庫県庁が一太郎を使っていて親近感を覚える。
- 脱属人化
- 限界芸術としてのコミケ・コミティア・文学フリマ・詩丼。
- 俳句限界芸術論
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家元制度は、アマチュア芸術文化活動家にとって二面性をもつが、いずれにしても家元制度は、近代化以後も日本社会全体に広がる組織原理(「イエモト」)といえる。(薗田碩哉・歌川光一「発表会の歴史」『発表会文化論』青弓社)
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発表することとは生業とは別の世界での生きがいとなる。発表会がめざすものは、労働生活とは区別された文化生活での一定のステイタスを得ることなのである。(薗田碩哉・歌川光一「発表会の歴史」『発表会文化論』青弓社)
- 個々人が共同体に溶け込み一体となる祭り↔表現することへの個人的な志向が前面に押し出される発表会(近代化された祭り)
- 地域アマチュア芸術文化活動
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「文化」が日々の暮らしを彩るものであり、大衆性を失わないのに対して、「芸術」は新しい視線や価値を提示するものであり、日常から飛躍するような志向性を有する。(氏原茂将「発表会が照らす公共ホールの役割」『発表会文化論』青弓社)
- むしろ公募展は、人生を豊かにしようと
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積極的に余暇を楽しむ日曜画家たちが、自身の成長を定期的に確認する場として見いだされてきた。(光岡寿郎「誰のための公募展」『発表会文化論』青弓社)
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ライブハウスの発表会化は、ライブハウスに導入されたノルマ制度が大きな要因になっている。正確にいうならば、ライブハウスそのものが発表会化しているというよりはむしろ、ライブハウスでおこなわれているステージに発表会化がみられるのだ。(宮入恭平「発表会化するライブハウス」『発表会文化論』青弓社)
- 地下社會、何東洪
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台北の河岸留言、地下社会、海辺卡夫卡、女巫店、The Wall、台中の迴響、浮現、TADA方舟、台南のRoom335、高雄のATT、子宮などである。(インディーズ百家争鳴)