以太以外

蒼褪めた巨漢は笑う水澄んで 以太

胸中山水

〈ラムネ瓶太し九州の崖赤し/西東三鬼〉について中島斌雄は以下のように書いている。

第一句では、眼前のラムネ瓶、赤い崖が、作者により思うままに拡大されている。私の脳裡には、大きな九州地図が浮かぶ。その真ん中に一大ラムネ瓶が武骨な重さで突立ち、これを囲んで全九州の崖という崖が赤肌をそばだたせている。「九州の崖」にも、黒いの、白いの、さまざまあろう。それを赤い色一途に塗り換えたのは、作者の詩人としてのデフォルメ作業である。それこそ「九州」そのものの表現である。(略)以上、あるがままの山水を、作者がわが「胸中山水」と化することで、自然の生命以上の文学的生命を賦与した事例というべきだろう。自然の命はうつろいやすいもの、文学的生命は永遠たるべきである。(『現代俳句の創造』毎日新聞社

デフォルメされた胸中山水は永遠、そう理解したとき、九州ではないけれど瀬戸内海に浮かぶ豊島は家浦地区に建つ横尾忠則の庭を思い出す。その庭は日本式の庭園なのに岩は原色のような赤く塗られ、池底は同じく原色のような青や黄に塗り分けられている。西東三鬼の句に異常な縮尺を持ち出した中島斌雄と不気味なほど色彩を強調した横尾忠則、両者とも実際の景をそのまま写生するのではなく、胸中にどのように写ったのかという心象写生を加え作品としている。

実際の景はいつか崩れ朽ちる。しかし文学や美術の形で表現された景はどのような形であれ、後世に残る。人間の胸中に心というものが存在する限り。