Mastodon

以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

永島靖子『紅塵抄』牧羊社

永島靖子『紅塵抄』牧羊社を読む。〈をみならに畳冷たし利休の忌/永島靖子〉フェミニズム批評としてはいろいろあるだろうけれど、千利休の美への追求と美を追求される生き物としての女という対照がある。〈若鮎の波打つさまに焼かれたる/永島靖子〉生命力の動きそのままに焼け死ぬ。〈血の音をつつめるごとき白地かな/永島靖子〉包んでもなお聴こえる血の音の激しさということ。〈夕鵙やしばらく樹下に旅鞄/永島靖子〉鵙の早贄から旅人の運命や如何と思わせる。〈わが触れて鶏頭の色変りけり/永島靖子〉実際に変わったのはわが心でありその変わった心を通して色が変わったように見える。〈歳晩の灯や崖下の楽器店/永島靖子〉歳晩、町の暗さが崖面で際立つ、そのなかを小さな灯、そして楽器店のわずかな灯。〈蕗原や黒瞳大きな女学生/永島靖子〉蕗原は信濃国の蕗原荘を思わせる。〈揚羽より速し吉野の女学生/藤田湘子〉の吉野の女学生に並び、山国に生きる杣人の生命力を感じさせる。〈絨毯の紺青深き無月かな/永島靖子〉色の深さは絨毯の毛の深さを連想させる。音も消え、月も消える。〈他国動乱金魚の鰭の襞の数/永島靖子〉動乱について、というより俳句の景を視るスケールについての詩だ。〈革の鞭土に置かるる良夜かな/永島靖子〉「革の鞭」には気高さがあり、月を見上げる人の顎の尖りを際立たせる。〈ふらんすの鳥類図鑑良夜なり/永島靖子〉とはすこし人が違う。〈あたたかし湯呑一個と巴里地図/永島靖子〉は〈洋梨とタイプライター日が昇る/髙柳克弘〉のような藤田湘子の二物衝撃だろう。

雲行きしのみ青蔦の女学院 永島靖子

感覚の不一致

各都府県に緊急事態宣言が発令されているなか、『田中裕明全句集』ふらんす堂の「櫻花譚」部分を読む。〈宿出でててもとさびしき春日傘/田中裕明〉春日傘があるはずなのに「てもとさびしき」はその人が春日傘を差しているのではなく連れが差しているから。「てもと」が情感めく。〈峰雲や櫻のはだのつめたきに/田中裕明〉一季節前の花盛りを峰雲から連想せざるをえない。櫻の木肌に置いた手の感触に湧き上がる思いは夏空へのぼる。〈京へつくまでに暮れけりあやめぐさ/田中裕明〉現代でもいい、初夏に内陸のやや繁華な地方都市へ辿りついたときの感覚が甦る。それは飯田へ辿りついたときの寂しさとも前橋へ辿りついたときの寂しさとも少し違う寂しさのはず。事象の感覚と必ずしも一致しない感覚をもつ季語を斡旋する。そのとき生じる感覚のズレが飽きのこない俳味となる。〈落鮎はむらさきの木のなかをゆく/田中裕明〉木の繊維を泳ぐのではない、樹間をゆく。「むらさきの」とは記憶の美化された色だろう。〈額の花つれきし人は音もなし/田中裕明〉「つれきし人」は額の花のように瀟洒で繊細な色遣いの人、「音もなし」は額の花そのものではないけれど、ありようは確かに「額の花」感覚の円周に接するあたりにある。〈小さくて全き六腑水温む/田中裕明〉幼児の臓器について、だろう。なぜあの小さいなかにすべてが詰められたのか。幼児の臓器がもつ滑らかさの感覚と「水温む」のあいだにある感覚のズレが楽しい。

歯朶を刈ることに星ぼしめぐるやう 田中裕明

景のつくり方

山羊を見た日、『田中裕明全句集』ふらんす堂の「花間一壺」部分を読む。〈天道蟲宵の電車の明るくて/田中裕明〉宵という暗のなかに車窓の明のある「宵の電車」、それに赤地という明のなかに黒点の暗のある「天道蟲」の比較。もしかしたら害虫の天道蟲かもしれないけれど一句に二つの対照が並べられている。〈濁り鮒人に逢はねば帰られず/田中裕明〉「濁り鮒」は負の感情や義務感を表すために直感で付けられた季語だろう。実景としてあるわけではないけれど、心象には濁り鮒が確かに泳いでいる。そういう景の拵え方がひとつの魅力となっている。〈かもめ飛び春服ひくく吊られける/田中裕明〉景のつくりかたとして「ひくく」は安直である。しかし夏のような大空ではなく手近な範囲の春としてかもめを低く飛ばすため、春服はひくく吊るされた。〈ほとほとの卯の花腐し海の寺/田中裕明〉木製のものにものの当たる音「ほとほと」が良い。「卯の花腐し」という季語の斡旋が海にほど近い寺の潮風にすぐ朽ちる柱などを思わせる。たとえば、漁民の寺かもしれない。〈落鮎や浴衣の端の黄を好み/田中裕明〉落鮎といえば錆色だけれど、鮎なので黄色が目に残るということか。「浴衣の端の黄」とは消えゆく名残りの表現だろう。〈貝寄風のむらさきいろに装釘し/田中裕明〉「むらさき」は高貴な色、大阪あたりの人が春との訪れとともに密かに数冊の自費出版詩集を紫の上質な紙の装幀で編んだら、ひとつの音楽のようではないか。

行春のはばたきふかき空にあり 田中裕明

不在の存在

『田中裕明全句集』ふらんす堂の「山信」部分を読む。〈今年竹指につめたし雲流る/田中裕明〉あきらかに景に人物がいるはずなのに表情やその体臭を感じさせない。今年竹に触れる指を中心にしているのだが、レンズは雲が動いている空へ焦点を合わせている。〈口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし/田中裕明〉もまた口笛が確かに聴こえるのに映るのは人ではなく池の蝌蚪たちだけだ。〈水澄むや梯子の影が草の中/田中裕明〉も梯子を立てかけた人はどこかにいるはずなのに映らない。影だけが草の中にあるのかもしれない。〈ラグビーの選手あつまる桜の木/田中裕明〉に至っては桜の木が映るまで引いたためにラグビー選手らは背景となった。そこに存在しないけれど、不在を強調された人物は、読み手のなかにどうしても存在してしまう。

濯ぎものたまりて山に毛蟲満つ 田中裕明

日野百草『無中心』第三書館

異動初日、日野百草『無中心』第三書館を読む。〈それぞれに頂上があり山笑ふ/日野百草〉それぞれ勝手に悦に入りそれぞれ勝手に笑う。〈酒ばかり買ひに行かされこどもの日/日野百草〉ありえそうな主客転倒が愉快、こどもの日の宴なのに遣いに出されるし、お菓子は買えない。〈原爆がふたつも落ちてさくらんぼ/日野百草〉ふたつは並ぶのではなく列ねるとでも言うのか。〈樺太の南半分残る蝉/日野百草〉一九四五年八月の南樺太という在り方について考えさせる。〈武器もなく立たされてゐる案山子かな/日野百草〉立たせているのは国家であり、人間の集団だ。〈生粋の無産階級おでん食ふ/日野百草〉「生粋の」と「無産階級」の組み合わせがすでに面白い。〈軍艦の肉づき寂し冬の波/日野百草〉「軍艦の肉づき」というエグみが効いた。

夏休み楽屋で宿題する子役 日野百草

白井健康『オワーズから始まった。』書肆侃侃房

白井健康『オワーズから始まった。』書肆侃侃房を読む。〈三百頭のけもののにおいが溶けだして雨は静かに南瓜を洗う/白井健康〉南瓜という存在のどぎつさが雨に洗われる、そのどぎつさのままに。〈自販機のボタンをみんな押してゆくどんな女も孕ませるよう/白井健康〉オートマチックな恋愛、すべてはボタンを押すように恋愛の掟に則り手当たり次第射精に至るだけだ。〈プテラノドンの影がゆっくり過ぎてゆくザザシティからプレスタワーへ/白井健康〉ザザシティは私の日常語だけれど、他市の人はこの固有名詞をどう捉えるのかを知りたく思う。ただの擬音となるかもしれない。〈蟷螂の交尾を指でつついてる海を飛べない少年である/白井健康〉交媾と繁殖への願いが「海を飛べない」という修辞の鮮やかさに秘められる。

砂山に月の卵をうずめては孵化するまでを春と呼びたい 白井健康

髙柳克弘『未踏』ふらんす堂

中央図書館の郷土資料室で髙柳克弘『未踏』ふらんす堂を読む。〈卒業は明日シャンプーを泡立たす/髙柳克弘〉卒業後の生き方はシャンプーをしているときの閉ざされた視界のように不明瞭、それこそ〈ことごとく未踏なりけり冬の星/髙柳克弘〉のような未知への期待感で胸がふくらむ。〈夜の新樹どの曲かけて待つべきや/髙柳克弘〉iPod登場以降の句、夜の新樹が待つ人の半袖とか夜風の流れとかを想像させる。そういえば渋谷ハチ公像は樹木に囲まれていた。〈一心に読みつぐ眉間夜の新樹/髙柳克弘〉も参考に。〈ストローの向き変はりたる春の風/髙柳克弘〉風表現のひとつとして。プラスチック時代のストローには何色か色があるはずで、それが春めく。〈星充ちて夜の絶頂きんぽうげ/髙柳克弘〉きんぽうげの使い途として正しい。〈何もみてをらぬ眼や手毬つく/髙柳克弘〉盲目ということではなく、現在を見ず、手毬の弾む未来を凝視している一瞬を捉えた。〈水族館かすかに霧のにほひせり/髙柳克弘〉霧はきっと海獣の臭いの喩として。〈さみだれや擬音ひしめくコミックス/髙柳克弘〉擬音は頭のなかで鳴るのであり、「さみだれ」と開いたのは実景というより頭のなかの五月雨、梅雨の煩わしいイメージを強調したのだろう。〈掌のうちをライタア照らす野分かな/髙柳克弘〉掌のうちの明るさと外の景の暗さの対比がシュルレアリスム絵画めく。

桐の花ねむれば届く高さとも 髙柳克弘

犀ヶ崖の句碑

浜松市布橋の犀ヶ崖古戦場跡には、天明俳壇の雄・大島蓼太の句碑〈岩角に兜くだけて椿かな/蓼太〉が立つ。首をまるごと落とすように花ごとポトリと落とす椿の赤が、山武士たちの鮮血を連想させる生々しい幻想の句だ。夕暮れの犀ヶ崖に鎌鼬が出るという伝説とともに想像力をかきたてる。『俳人大島蓼太と飯島』飯島町郷土研究会によればこの句碑は、昭和十一年に「雪門系の俳人野沢十寸穂(ますほ)の筆で、久野仙雨らが発起人となり建立」されたという。雪門とは大島蓼太の師・服部嵐雪の流れを汲む一派のこと。

大島蓼太の句碑、岩角に兜くだけて椿かな

 

横にして見るや浜名の横霞 大島蓼太

澤田和弥『革命前夜』邑書林

浜松市内にはじめて新型コロナウイルス感染者が出た日、澤田和弥『革命前夜』邑書林を読む。〈鳥雲に盤整然とチェスの駒/澤田和弥〉黒白の無機質さと鳥雲の灰色と。盤の直線が交わる消失点へ鳥は引く。〈空缶に空きたる分の春愁/澤田和弥〉春愁は残量ではない、「空きたる分」という捉え方が面白い。〈恋人の臍縦長に花の雨/澤田和弥〉縦長の臍は美人を連想させる、花の雨のような華やかな湿り気。〈とびおりてしまひたき夜のソーダ水/澤田和弥〉ソーダ水の瓶に夜景が透ける、そんな透明な存在としての自己がある、まだある、発泡しながら。〈かの胸は簡単服に収まらず/澤田和弥〉そんな胸に、子安北交差点で出合った。〈夜の秋古きノートに五賢帝/澤田和弥〉高校時代のノートか、古代ローマの都市へ思いを馳せる晩夏、ポール・デルヴォーの絵画のような。〈秋水や遠州弁母語とする/澤田和弥〉「立て板に水」など言葉は水に喩えられる。ふいに口をついて出た「だもんで」「〜だに」への懐かしさに心が澄みきるような思い。〈深秋や本に二つにバーコード/澤田和弥〉熱意とともに生まれた言葉たちが商業に組み込まれていくことの二つのバーコードという寂しさ。〈手袋に手の入りしまま落ちてゐる/澤田和弥〉斬り落とされたか、単に手のかたちに膨らんでいるだけか。〈乳房の豊かすぎたる雪女/澤田和弥〉温度のなさそうな雪女に繁殖力が備わる不思議さ。

男娼の錆びたる毛抜き修司の忌 澤田和弥


澤田和弥サイン本

左手親指のささくれ

カップヌードルで暖を取る左手親指のささくれから吹いてくる乾いた風/生田亜々子(『アルテリ』五号)

豊田西之島のパン屋one too many morningsで読んだ『アルテリ』五号、短歌連作「なだれるように」より。「カップヌードル」や「ささくれ」で生活の様子は類推できる。壊れそうな生活、カップヌードルのお湯から手へ伝わる温度で親指へ血が巡る。拍動のたび記憶が甦るように、ささくれから乾いた冬の風が吹く。破調は心の動揺である。

enterを二回押したら真っ青で圧倒的にひとりの夜更け 生田亜々子


天然酵母パン one too many morning

『寺山修司俳句全集』あんず堂

合同句集『麦の響』が届いた日、『寺山修司俳句全集』を読む。〈十五歳抱かれて花粉吹き散らす/寺山修司〉花粉は花の性器である雄蕊で作られる。十五歳は花束を渡され、かき抱かれた弾みでその花束が花粉を吹き散らす。しかし省略が、あたかも十五歳そのものが花の性器であるように読ませる。〈父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し/寺山修司〉仏教における犀の角がちかいのかもしれない。犀の角のように知の国へ独り歩む父への追慕なのかもしれない。〈土曜日の王國われを刺す蜂いて/寺山修司〉王国とは閉ざされた埋没の世界である。土曜日から連想されるのは土に根差した埋没である。しかしその埋没を破るのが蜂の針で。〈電球に蛾を閉じこめし五月かな/寺山修司〉電球は青年の意識が埋没していく場所、五月の明るさに反比例するように。〈かくれんぼ三つかぞえて冬となる/寺山修司〉子供たちが三つまで数えそれから声のなくなる、誰もいない枯山の景が一瞬にして癌前に広がる。〈冬浪がつくりし岩の貌を踏む/寺山修司〉当然ながらこの貌は自己の険しい貌でもある。〈もしジャズが止めば凩ばかりの夜/寺山修司〉ジャズ停止後をかくれんぼの静寂と同じとするならジャズとかくれんぼの三つは類似した音楽ということになる、〈もし汽車が来ねば夏山ばかりの駅/寺山修司〉とともに。〈霧ふかし深夜のラジオ壁を洩る/寺山修司〉霧の浸透とラジオ音の浸透、世界への遠さとか。〈枯野へ向く塀に求人ビラはらる/寺山修司〉枯野という無人地帯へ向けて刷られた求人ビラという面白さ。〈春の暁紙屑に風ひそむかな/寺山修司〉いまにも飛び出しそうな紙屑の春めく皺とカサカサと鳴る音。

ふらんすの海の詩集へ咳こぼす 寺山修司

坂なす

ポストまで村が坂なす天の川/広田丘映(福島万沙塔『建築歳時記』学芸出版社

ポストは郵便差出箱であり、この坂は上り坂だ。村という言葉には面積的な広がりがあり、ポストまで坂がひとつあるなら他に何本もある。「村が坂なす」はポストめがけ村が隆起しているようでもある。もちろん夜なので星空は見えるけれどポストは見えない。概念的なポストと言える。丘の上にあるポストは郵便網を通して他の町へ繋がっている。そんなポストに潜在する可能性はまさに天の川。

中澤系『uta0001.txt』双風舎

ふと〈結語への遠き道行き風船はいままだビルのなかばのあたり/中澤系〉が目に入り、高層ビルの中にある空洞を上がっていく黄色い風船を思う、そしてふたたび中澤系を読まなければならないと思った。〈駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに/中澤系〉人に会って感謝したとき、または人に怒ったときにその人そのものではなく、その人の背後にあるシステムに対してその感情を当てるよう私たちは訓練されている。〈じゃあぼくの手の中にあるこの意味ときみの意味とを比べてみよう/中澤系〉同じ文でも人により意味は違うように解釈されるのだから、ひとまず手の中にある意味を比べて確認することからはじめよう。〈罪ならば 九段下より市ヶ谷へしずしずゆるき坂を上れり/中澤系〉そのゆるき坂には靖國神社があり、日本史の功罪について考えさせる。「しずしず」はすでに人生という刑に服さんとしている。〈未決囚ひとりひなかの快速にいてビールなど呷っていたは/中澤系〉未決囮の社会的宙ぶらりんと駅から駅への浮いた旅とはよく似ていて、さらにビールがよく似合う。〈生活を構築せよとある朝の冷たい水に顔を浸して/中澤系〉生活は余りに遠くなってしまった。生活は崩れゆくものであり、構築しようとする先からこぼれてしまう。いくら冷水で顔を洗ったとしても。〈ひょっとして世界はすでに閉ざされたあとかと思うほどの曇天/中澤系〉閉ざされているのではなく閉ざされ、もう終わったあとの世界で、ぼくらは、探しにいく。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系

穂村弘『水中翼船炎上中』講談社

中郷温水池公園へ赴いた日、穂村弘水中翼船炎上中講談社を読む。〈なんとなく次が最後の一枚のティッシュが箱の口から出てる/穂村弘〉この予感はよく当たる。そして最後の一枚をつまんでほじくり出す。〈口内炎大きくなって増えている繰り返すこれは訓練ではない/穂村弘〉新型コロナ・ウィルスも、繰り返すこれは訓練ではない。〈電車のなかでセックスをせよ戦争へゆくのはきっと君たちだから/穂村弘〉言われるがままおとなしくしていちゃダメだ、殖やせ。〈先生がいずみいずみになっちゃってなんだかわからない新学期/穂村弘〉いずみ先生が泉さんと結婚した。〈クリスマスの炬燵あかくておかあさんのちいさなちいさなちいさな鼾/穂村弘〉クリスマスどうのこうのよりお母さんの鼾がある方が日本の幸せである。〈金色の水泳帽がこの水のどこかにあると指さした夏/穂村弘〉さぁ金色の水泳帽を見つける夏の冒険のはじまりだ。〈ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下/穂村弘〉「半」は生命の神秘。〈僕たちのドレッシングは決まってた窓の向こうに夏の陸橋/穂村弘〉その陸橋を渡ればきっと違うドレッシングに出会える、かもしれない。〈手書きにて貼り出されたる宇宙船乗務員性交予定表/穂村弘〉宇宙船が飛ぶ時代、おそらく星間移民船であっても掲示板に手書き文字という意外さ。〈蜂蜜の壜を抱えてうっとりと母はテレビをみつめていた。/穂村弘〉思わず観入ってしまって、その壜のとろめきは母のときめきのようで。〈うすくうすく波のびてくるこの場所が海の端っこってことでいいですか/穂村弘〉もしかしたらうすく波ののびてくるこの場所が海の中心かもしれないけれど、端っこである方がおさまりがいいので。

何もせず過ぎてしまったいちにちのおわりににぎっている膝の皿 穂村弘

小野茂樹「羊雲離散」『現代短歌全集第十五巻』筑摩書房

紙を数十枚もらった日、『現代短歌全集』の小野茂樹「羊雲離散」部分を読む。〈秋の夜の風ともなひてのぼりゆく公会堂の高ききざはし/小野茂樹〉夜に公会堂の階をのぼる。K音を連ねる高揚感がある。高さへの憧憬あるいは畏怖は〈失ひしものかたちなく風の中の操車場塔つぶさに高し/小野茂樹〉〈いちはやく断層に街の灯はともり高き灯に夜の風当たりゐむ/小野茂樹〉などにも読める。〈蔽はれしピアノのかたち運ばれてゆけり銀杏のみどり擦りつつ/小野茂樹〉ピアノではなくあくまでも見えるのは「ピアノのかたち」。擦れ銀杏の葉が緑の音階に沿って鳴る楽しさ。〈更けてなほ町はにぎはふ貨物駅の塀にて成りし夜店の片壁/小野茂樹〉川崎あたりの工場地区の猥雑な飲み屋を思わせる。〈坂に沿ふ空溝に水くだりゆく堰かれしもののいきほひ新し/小野茂樹〉人間の息づかいをたしかに聴く景の描写、押さえつけられた者の怒りがほとばしる。似たような景に〈地に低く雨の音満ちきみを追ふべく幅のある道に惑ひき/小野茂樹〉があり、これは破調が急に幅の開けた道への惑いを表現している。〈はしけにて向かへば陸はひしひしと迫りぬ人なき露地もつぶさに/小野茂樹〉上陸前の街がしだいに詳細に見えてくる、解像度の上がっていく感じが「人なき」で鮮やかに視覚化される。〈手袋をはめつつ出でて擦るごとく歩道に伸ぶる夕光を踏む/小野茂樹〉魔術師めいて夕方の街をゆく。〈送り来しこの路次のはて灯を入れし公衆浴場うちら濡れつつ/小野茂樹〉銭湯の「濡れつつ」は送り来し人のエロティックな記憶とともに垣間見る。〈床高し電車の過ぐる踏切にわれら断たれてゐたり急きつつ/小野茂樹〉電車の「床高し」は隔てる境界の高さであろう。〈囲はれし園もたがはず冬なりきしきりに波紋の浮かぶ池あり/小野茂樹〉「囲はれし」は追い詰められた人生の意なのだが、そこにもなお活きようとする意思が池の波紋としてある。〈石段に土流れたる痕ありてもろく水浸きし街いま乾く/小野茂樹〉闘争のあと傷痕としての泥がこびりつくままの街だ。〈人のぬくみのみ確かなる夜にして海へ出でゆくはしけ舟見ゆ/小野茂樹〉艀舟は人のぬくみを外れる勇気として海へ出る。〈みづからのため甲ひたる詰襟の黒き咽喉にて歌へば声あり/小野茂樹〉学生は合唱する、それは誰のための歌なのだろう。〈あやまたず岐路多き日を歩み来て湯のなつかしき重みに沈めり/小野茂樹〉なんとか辿りついた一日の終わりに訪れる休息の湯は羊水にも似て、重く身体にまとわりつく。〈非力のとき誠実といふこと卑し月を過ぎゆく羊歯状の雲/小野茂樹〉月を掠める羊歯状の雲が、運命というものの儚さを現している。〈脈博のごときわれらの時をきざむ時計は腕に小さく冷えたり/小野茂樹〉刻むのは「われらの時」だからこそ小さく冷える。それは現実の時間より少し遅れている。〈一枚の葉のみ樹冠に昏れ残るまぼろしの木はねむるとき見ゆ/小野茂樹〉夕闇に見た一枚の葉の寂寥は〈ひたすらに日はわたりゆく夏柑の一つを残す木立の上を/小野茂樹〉の夏柑と似ている。〈ことごとくわが生きざまを許さぬとこゑあり扇風機の風旋り来ぬ/小野茂樹〉夏の脳裏に甦る言葉が寄せては帰す扇風機のように何度も響くのだ。忘れさせてくれない。〈まなざしのひとつわが身を過ぐるとき電車は内部灯りつつゆく/小野茂樹〉踏切、轟音をたてて過ぎゆく夜の電車の明るさは心の衝撃音のようでもある。〈あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ/小野茂樹〉類型の夏とかけがえのない夏、その間を行きつ帰るのが青春であろう。

感動を暗算し終えて風が吹くぼくを出てきみにきみを出てぼくに 小野茂