Mastodon

以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

岡野大嗣『たやすなさい』書肆侃侃房

出張が重なると転勤すると聞いた日、岡野大嗣『たやすなさい』書肆侃侃房を読む。〈パーカーの絵文字をさがすパーカーがとどいてうれしい気持ちのために/岡野大嗣〉パーカーは詩人の戦闘服、〈ここからの坂はなだらで夕映えてムヒで涼しい首すじだった/岡野大嗣〉皮膚感覚に定着された夕刻、〈人間はしっぽがないから焼きたてのパン屋でトングをかちかち鳴らす/岡野大嗣〉所在なげな動作の人間版と猫版と。

降っている桜のなかへ手を伸ばしドライブスルーの会計終える 岡野大嗣

「汗馬楽鈔」『八田木枯全句集』ふらんす堂

「癖に負けた」を桑名で聞いた日、『八田木枯全句集』の「汗馬楽鈔」を読む。〈七輪に祭過ぎたる影ありぬ/八田木枯〉祭後、影もまだ華やいでいるけれど七輪という地味な器物に落とされた影は哀愁を誘う。誰の影というより空気の影。〈凍蝶に天あり天をとばざるも/八田木枯〉この天は空ではない。〈虎落笛そびゆるごとき零時過ぐ/八田木枯〉時刻をそびゆるとした。巨大な時計塔のイメージ。〈天にまだ蜥蜴を照らす光あるらし/八田木枯〉の光は〈洗ひ髪身におぼえなき光ばかり/八田木枯〉の光でもあるし〈枯野の光髪にはつもることもなし/八田木枯〉の光でもある。〈熱さめて虹のうぶ毛のよく見える/八田木枯〉虹のうぶ毛は夢見から醒めたことの証、現実の把手かもしれない。

胎児のみにきこえて霜の降りにけり 八田木枯

谷川電話『恋人不死身説』書肆侃侃房

連休明けの物流に圧倒された日、谷川電話『恋人不死身説』書肆侃侃房を読む。〈「さみしい」と書いてあるのを期待して毎日開くきみのウェブ日記/谷川電話〉義務として。〈自動車できみがむかえにきてくれる このまま轢いてほしいと思う/谷川電話〉恋愛はあやふやに合意されているストーカー行為みたいなもの。〈二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す/谷川電話〉白いミトコンドリアみたいなのが泳いでいる。〈何回かトイレのドアをひらいたら一回ぐらいいてくれませんか/谷川電話〉トイレの神様。〈恋人が(ああ「元」だった)使ってた香水の味を思い出せない/谷川電話〉さりげなく「味」とか言っている。〈モザイクの向こう側にはあるだろう図鑑に載っていない性器が/谷川電話〉何の図鑑だろう。

前髪が視界の邪魔をするけれど深夜のランドリーにはちょうどいい 谷川電話

瀬戸正洋『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』邑書林

プラスチックゴミの日、瀬戸正洋『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』邑書林を読む。〈蒲公英や爆発しない手榴弾/瀬戸正洋〉凄いことを言っていそうで単に散種なのかもしれない、〈蒲公英や原子力発電所は壊れる/瀬戸正洋〉とともに。〈月光は血液縄跳をする男/瀬戸正洋〉「月光は血液」? 青白い縄跳男の不気味な素性。〈アイドリングストップ蚯蚓鳴きにけり/瀬戸正洋〉実際に音はなかったのだ。〈日短モータープールから人間/瀬戸正洋〉人間用出入り口が分からなかった人間だ。〈コンデンスミルク北窓開きけり/瀬戸正洋〉意外さ、しかないけれど、コンデンスミルクの甘さは春の予感めく。

鬼百合の「鬼」とは人のことである 瀬戸正洋

瀬戸正洋『Z湾』邑書林

咳にはムコダイン、瀬戸正洋『Z湾』邑書林を読む。〈掌の切符ぐにやぐにや夏帽子/瀬戸正洋〉夏帽子をかぶる男の心の内、焦燥をぐにやぐにやの切符が想像させる。〈出社拒否して玉葱の微塵切り/瀬戸正洋〉音に勢いがある、〈ハイソックスルーズソックス卒業す/瀬戸正洋〉類似語の羅列にも群衆性があると視界が開ける。〈グレープフルーツ二つに切りて解雇かな/瀬戸正洋〉グレープフルーツのエグみが人生の痛みに効く。〈黄沙降るリストラされてより詩人/瀬戸正洋〉唐代詩人の風格がある。

冷房や掌が知る頭蓋骨 瀬戸正洋

岡田幸生『無伴奏』ずっと三時

娘の前髪を切った日、岡田幸生無伴奏』ずっと三時を読む。それぞれ〈無伴奏にして満開の桜だ/岡田幸生〉〈さっきからずっと三時だ/岡田幸生〉から。「〜だ」という断定は自由律俳句特有の表現である。〈きょうは顔も休みだ/岡田幸生〉顔は休むとどんな顔になるのか、〈光をあつめて黒いタイツだ/岡田幸生デニール数が低い、〈スピカがあかるいあしたは休み/岡田幸生〉因果は語順の逆となっている。〈ネクタイのとける音すずしい/岡田幸生〉シュルシュルを温度に変換する、〈青空の仮病をつかった/岡田幸生〉「青空の仮病」という造語の爽快さ、〈雪ひらがなでふってきた/岡田幸生〉カタカナや漢字ではなく、〈ひしめく星の音とどかない/岡田幸生〉ひしめいているのに、音が小さいわけではなく、〈風邪をひいた喉がある/岡田幸生〉腫れたことで存在が強調された喉のこと。

いい風がきてうわの空 岡田幸生

天坂寝覚『新しい靴』随句社

交差点に横倒しになった軽自動車を警察官二人が押して戻したのを見た日、天坂寝覚『新しい靴』随句社を読む。〈今日を使いきってこどもが寝ている/天坂寝覚〉「使いきって」ができる幸福、〈雨がすこし見える本屋の本すこし読む/天坂寝覚〉過剰ではないほどほどの本屋、〈星にぎやかなところが冬/天坂寝覚〉「ところ」で季節を言うおもしろさ、〈おもたいコップの空っぽを飲んだ/天坂寝覚〉否定辞を使わないというのは大事だ。

松田俊彦句集withえんの会

ツバメノート株式会社謹製装幀の句集。俳句とも川柳とも書かれず。〈愛される範囲を葱は知っている/松田俊彦〉の葱の妙、〈心深くに国籍のない舟繋ぐ/松田俊彦〉この世の舟ではないかもしれぬ。〈ひまわりの撃たれた音を知っている/松田俊彦〉北野武は根底にある。〈たそがれを包みきれない広辞苑/松田俊彦〉たそがれという不明さ、〈倒れた自転車が雨をのせている/松田俊彦〉自転車の機能をうまく活かす。

きのうから他人の雨になっている 松田俊彦

松本てふこ『汗の果実』邑書林

掛川市の大池公園で抹茶を飲み、法多山尊永寺で初詣を済ませ、松本てふこ『汗の果実邑書林を読む。〈錠剤をたくさん持つて遠足に/松本てふこ〉老人会とも色彩ゆるきファッションメンヘラとも読める。〈だんじりのてつぺんにゐて勃つてゐる/松本てふこ〉屹立の上の屹立神に似る。〈秋灯のこれらすべてが世田谷区/松本てふこ〉中島斌雄と有馬朗人三軒茶屋に建つキャロットタワーか。関東連合と田舎成金と農民の街の灯り、〈短夜に辣油一滴落としけり/松本てふこ〉夏夜の凝縮性、〈風死して模型のソフトクリームよ/松本てふこ〉溝に埃など溜まっているだろう。〈鶏肉の黙って沈む雑煮かな/松本てふこ〉「黙つて」の興。〈臘梅を見上げて使ふ敬語かな/松本てふこ〉ロウの音から連想が広がる。

遠州やざぶんざぶんと青田風 松本てふこ


kimikura cafe きみくらカフェ

曾根毅『花修』深夜叢書社

参謀の作戦力と組織力山崎豊子の構成力、『不毛地帯』を読み終えた日、曾根毅『花修』深夜叢書社を読む。〈初夏の海に身体を還しけり/曾根毅〉「還し」の実感、〈爆心地アイスクリーム点点と/曾根毅〉爆心地は観光地、〈身籠れる光のなかを桜餅/曾根毅〉餅明かり、〈曇天や遠泳の首一列に/曾根毅〉一列が軍隊めいて死者めいて、〈欲望の塊として沈丁花/曾根毅〉という固体めく薫り。

燃え残るプルトニウムと傘の骨 曾根毅

光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』書肆侃侃房

プレスバターサンドを貰った日、光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』書肆侃侃房を読む。〈牛飼ひが連れて歩くは購ひし牛、売りにゆく牛、売れざりし牛/光森裕樹〉最後の七が残る。横書きだと分からないけれど縦書きで中黒ではなく読点にすると短歌の重心が右にズレている気がする。けれど歌人の感覚では気にしないのか。〈島時間の粒子を翅からこぼしつつ空港跡地は蝶ばかりなり/光森裕樹〉南洋の空港跡地という穏やかな時間、〈其のひとの髮しろき冬、よかつたと思ふにいたる名はなんだらう/光森裕樹〉命名したことのある人ならこの八十年先の想像は感じるところあり。〈子の背に耳あてて聞くみづからを上書き保存する駆動音/光森裕樹〉生きていて、よかった。

もよりえきと呼びゐし駅舎に一礼をして返す名よかぜの笹塚 光森裕樹

榮猿丸『点滅』ふらんす堂

飯田公園で臘梅と水鳥を見て、乎那の峰の麓で冬蜂の斃れ伏すのを見たあと、榮猿丸『点滅』ふらんす堂を読む。〈真上よりみる噴水のさみしかり/榮猿丸〉これは噴水そのものというより、見ている場所であるオフィスビルの高層階の無機質さ。〈桐の花キャッチボールの横とほる/榮猿丸〉桐の高さと平面の広がりという三次元。〈冷房や相談室の仕切壁/榮猿丸〉社会福祉法人などの息詰まる狭所。〈焼きそばパン包むラップや春灯/榮猿丸〉包んでしまうラップは乱反射で光る。〈滑走路より長き金網みなみかぜ/榮猿丸〉「より長き」は空港という広大な余白の描写。〈X線検査機通過す読初の『檸檬』と鍵/榮猿丸〉正月旅行の気付かれない危険物。

シャツめくり額の汗を拭ひけり 榮猿丸

 

西原天気『けむり』西田書店

端末を駐車場に忘れた日、西原天気『けむり』西田書店を読む。〈まばたきの軽さに浮いてあめんぼう/西原天気〉軽さは重量ではなく感触、〈ペン先に雪降る音のしてをりぬ/西原天気〉とあり方が似ている。〈まだなにも叩いてゐない蠅叩/西原天気〉実績ではなく用途による名、〈月島のどの路地からも同じ月/西原天気〉地名効果もあるけれど、路地ごとに違うように見えるのに同じ月というのがミソなのだろう。〈幾何学の余白に花粉飛んで来し/西原天気〉スピノザの言う様態と変状の余白へ飛んでくる花粉よ、〈レコードの溝の終りは春の雨/西原天気〉その雑音が。それと針の研究もいいけれどやはりこれ。

十月や模型の駅に灯がともり 西原天気

鈴木牛後『にれかめる』角川書店

音のない部屋のためにラジオ受信機を買った日、鈴木牛後『にれかめる角川書店を読む。〈手にのせてなほも深雪と呼びにけり/鈴木牛後〉てのひらで雪となっても深雪と呼ぶ、それは記憶とともに存在するものだから。〈牛の尾の無風に揺れて草青む/鈴木牛後〉「無風に」「揺れて」の屈折。〈みな殴るかたち炎暑の吊革に/鈴木牛後〉東京の電車、「殴る」が炎暑に合う発見。〈枕木の井桁に積まれ鳥渡る/鈴木牛後〉廃線に終わりの予感。〈齧り痕めいて背高泡立草/鈴木牛後〉意外性のある把握。

牛死せり片眼は蒲公英に触れて 鈴木牛後

胴体の詩

非番、起きなくていいので初谷むに『花は泡、そこにいたって会いたいよ』書肆侃侃房を読む。〈バス停に汚れて読めない字があってここからいなくなるのいやだな/初谷むに〉消滅への微かな予感がある。五七五までは景で七七が心となっている。景と心の繋がりそうで繋がり切らない屈折が良い。しかし短歌は景に惹かれても心に方向性を決められてしまう。俳句のように読者の話へ引き寄せられず、作者の話や世界を提示される。そんな決して突き放しはしない心の部分を軟質と呼ぶのかもしれない。硬質な具象性を考えるとき中島斌雄の胴体論を思い出す。

俳句は、本来短歌以上に、この胴体だけぶったぎる手法に立脚する詩であるはずだ。現在の俳句は、いったいに饒舌で、説明し過ぎるところがある。もっと胴体だけをぶったぎり、これを提示することで、人間全体を啓示する手法に徹する要があろう。

人の中より一鳥翔てり紙咥えて 手代啞々子

無季句だが、この手法に徹した作。「何の鳥」「なぜ」「どんな具合」「どう感じた」等々、すべてを抹殺して、胴体だけが空間を截る。それでいて、どこかに抽象界が啓示されているのだ。(中島斌雄『現代俳句の創造』毎日新聞社

具象しか書かれていないのに抽象へ飛ぶ。その飛翔は具象aと具象bの屈折からはじまる。