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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

胴体の詩

非番、起きなくていいので初谷むに『花は泡、そこにいたって会いたいよ』書肆侃侃房を読む。〈バス停に汚れて読めない字があってここからいなくなるのいやだな/初谷むに〉消滅への微かな予感がある。五七五までは景で七七が心となっている。景と心の繋がりそうで繋がり切らない屈折が良い。しかし短歌は景に惹かれても心に方向性を決められてしまう。俳句のように読者の話へ引き寄せられず、作者の話や世界を提示される。そんな決して突き放しはしない心の部分を軟質と呼ぶのかもしれない。硬質な具象性を考えるとき中島斌雄の胴体論を思い出す。

俳句は、本来短歌以上に、この胴体だけぶったぎる手法に立脚する詩であるはずだ。現在の俳句は、いったいに饒舌で、説明し過ぎるところがある。もっと胴体だけをぶったぎり、これを提示することで、人間全体を啓示する手法に徹する要があろう。

人の中より一鳥翔てり紙咥えて 手代啞々子

無季句だが、この手法に徹した作。「何の鳥」「なぜ」「どんな具合」「どう感じた」等々、すべてを抹殺して、胴体だけが空間を截る。それでいて、どこかに抽象界が啓示されているのだ。(中島斌雄『現代俳句の創造』毎日新聞社

具象しか書かれていないのに抽象へ飛ぶ。その飛翔は具象aと具象bの屈折からはじまる。