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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

『飯島晴子読本』富士見書房

ポリプロピレン素材でコーティングされたお道具箱をそのままスーパーカブの簡易リアキャリアとして使うには耐候性が足りない。なのでお道具箱へアクリルスプレーを吹きかけた日、『飯島晴子読本』富士見書房をパラパラと読む。〈夏の星剥製屋へとみちびかれ/飯島晴子〉宇宙のざらざらとした表皮に触れるような句だ。〈馬肉屋の襖を月に開けておく/飯島晴子〉肉の明さと月面の文様と。〈南朝のこと書くもえぎ色の鉛筆なり/飯島晴子〉無季かつ破調、〈玉虫の色にさそはれて闘ふ/飯島晴子〉美への決闘めく破調、〈段丘や梅雨の星屑余りたる/飯島晴子〉段丘は川岸の名残り、梅雨の星屑と水を介して直観的に響き合う。この連想は〈山尽きて星の色もつ崖ありぬ/飯島晴子〉にも見られる。〈さつきから夕立の端にゐるらしき/飯島晴子〉雨の降っていない地が見える。〈冬深む寺建つる音やすみなく/飯島晴子〉鉋の音が乾き響く。確かに寺の造営は冬に多い。〈気がつけば冥土に水を打つてゐし/飯島晴子〉打ち水に夢中になっているうちにいつの間にか冥土に移る。〈落葉降るアリスのトランプのやうに/飯島晴子〉止めどなく降る。平成十年の浜松市での句がある。「三方原」の詞書で〈風生の瓜人の冬田見に来たり/飯島晴子〉は〈家康公逃げ廻りたる冬田打つ/富安風生〉と〈家にゐても見ゆる冬田を見に出づる/相生垣瓜人〉の句についてだろう。それから〈椿もうどんどん落ちてゐる遠州/飯島晴子〉はもしかしたら山茶花か椿と山茶花の混血だと思う。冬で、中田島砂丘の海岸通りはさざんか通りと呼ばれているので。〈なんとなき径あり冬の防砂林/飯島晴子〉〈冬砂丘足跡遁るべくもなく/飯島晴子〉は中田島砂丘。〈人日の遊動円木一押しす/飯島晴子〉誰も遊んでいない遊動円木を押すのだろう。人を懐かしむようなあたたかさ。

冬麗の入江ヨットの修理音 飯島晴子

浜名湖舘山寺

 

千種創一『砂丘律』青磁社

帰浜した子が少し面長になり乳児から幼児へ変わったという感じの日、千種創一『砂丘律』青磁社を読む。〈どら焼きに指を沈めた、その窪み、世界の新たな空間として/千種創一〉のやわらかさと反発、〈窓に貼りつくのが雪で、ふりむけば部屋は光の箱であること/千種創一〉の眩いほどの白さ、奥底にある心象風景の数枚「心のやらかい場所」を擽るような具象性。何か得体のしれない欲望にしがみつこうとする現代短歌への失望をすこし癒やしてくれる。

数枚の硬貨を切符に換えにゆく町はまだ冷水魚の気配 千種創一

中田島砂丘

 

生駒大祐『水界園丁』港の人

榛の木花粉症だと判明した日、生駒大祐『水界園丁』港の人を読む。〈鯉抜けし手ざはり残る落花かな/生駒大祐〉鯉の感触の残る手と落花との共鳴、あたたかい喪失感。〈プールサイドの足首の鍵の鳴る/生駒大祐〉その響きはきっと明るい。〈夜によく似て育つ木も晩夏かな/生駒大祐〉夜に似た木という比喩が黒く残る。〈擦りへりて月光とどく虫の庭/生駒大祐〉擦りへったのは月光、虫の音へ褪せた月光が注ぐ。

榛といふ名前に生まれさへすれば 生駒大祐

藪内亮輔『海蛇と珊瑚』角川書店

「現代俳句」の来年二月号のティータイムに私の小文が載るとハガキが届いた日、藪内亮輔『海蛇と珊瑚』角川書店を読む。〈話しはじめが静かなひととゐたりけりあさがほの裏のあはきあをいろ/藪内亮輔〉裏は「り」とルビ。花に喩えられる人は幸いだ。〈雨といふにも胴体のやうなものがありぬたりぬたりと庭を過ぎゆく/藪内亮輔〉雨の胴体の擬態語は「ぬたり」。〈太陽に雨は降らぬといふことをあなたの比喩として使ひたい/藪内亮輔〉比喩と〈夕空と夜空のまざりあふ場所をしづかにゆきて帰らざる鷺/藪内亮輔〉実景と。〈冬の野に川ゆはぐれし水がありしばらくは鳥をあつめてゐたり/藪内亮輔〉そういう水になりたい。〈眼底に雪はさかさに降るといふ噂をひとつ抱きて眠りぬ/藪内亮輔〉音も無くさかさに降る雪。

 

九鬼あきゑ『海へ』角川文化振興財団

自由律俳句部門で浜松市文芸賞をいただいた表彰式でその死を知った九鬼あきゑ『海へ』角川文化振興財団を読む。舞阪図書館で借りたので〈旗千本はためく元日の港/九鬼あきゑ〉や〈一湾に舟犇めける淑気かな/九鬼あきゑ〉を舞阪港の景かと思う。〈永き日の机に辞書と花林糖/九鬼あきゑ〉手垢で黒ずんだ、使い古された辞書なのだろう。花林糖から、同じものを大切に補修しながら使い続ける人柄と分かる。穏やかな春の日にそんな人とともに過ごす時間。〈着ぶくれて鳥の眠りに近づきぬ/九鬼あきゑ〉鳥の眠りと着ぶくれ、羽毛に埋めた首を想像させる。

大漁旗鳴りに鳴りたる二日かな 九鬼あきゑ

新居漁港の大漁旗

 

長嶋有『春のお辞儀』書肆侃侃房

バイクのリアタイヤがパンクした日、長嶋有の新装版『春のお辞儀』書肆侃侃房を読む。〈はるのやみ「むかしこのへんは海でした」/長嶋有〉闇と海が質料的に合う、〈雲の峰中古車売場の旗千本/長嶋有〉現代あるいは資本主義の戦場、〈橋で逢う力士と力士秋うらら/長嶋有〉NHK俳句の放送によれば野球賭博らしい。〈先生が黒板の字を手で消した/長嶋有〉教室の、とある視点。

萩原慎一郎『滑走路』角川書店

左足小指の爪が剥がれた日、萩原慎一郎『滑走路』角川書店を読む。表現が直截である。その屈折の無さに驚く。だからこそ歌作場面の歌もあるのだろう。〈青空の下でミネラルウォーターの箱をひたすら積み上げている/萩原慎一郎〉徒労に従事という清々しさ、〈街風に吹かれて「僕の居場所などあるのかい?」って疑いたくなる/萩原慎一郎〉散歩でときどき迷い込む憂鬱、〈停留所に止まってバスを降りるときここは月面なのかもしれず/萩原慎一郎〉こころを遊ばせてみた歌、〈あのときのこと思い出し紙コップ潰してしまいたくなりぬ ふと/萩原慎一郎〉突然降ってきた過去の映像に対し「ふと」という抑制、〈屋上で珈琲を飲む かろうじておれにも職がある現在は/萩原慎一郎〉絶対はない、絶対。〈牛丼屋頑張っているきみがいてきみの頑張り時給以上だ/萩原慎一郎〉私にとっては吉野家上北沢店、〈ぼくが斬りたいのは悪だ でも悪がどこにあるのかわからないのだ/萩原慎一郎〉悪が実在しないという優しさ、たぶん自分のなかに悪は。同じ一九八四年に生まれ、中学受験では武蔵に比べ格下になるけれど駒東に入り、早稲田大学に進み、卒業後は職を転々とした身としては萩原慎一郎は他人とは思えない。他人だけど。

生きているというより生き抜いている こころに雨の記憶を抱いて 萩原慎一

舘山寺

 

秋尾敏『ふりみだす』本阿弥書店

第十二回十湖賞俳句大会の東区長賞をもらえるという通知が郵送された日に、秋尾敏『ふりみだす』本阿弥書店を送ってもらった。〈黒潮は遅れ気味なり卒業期/秋尾敏〉の落第生感、〈薔薇抱え世間が見えてきたと言う/秋尾敏〉ツッコミ待ち句、〈男も男だ出目金を飼っている/秋尾敏〉出目金という責め、〈冬銀河目玉おやじが渡りきる/秋尾敏〉挽歌。〈檸檬は鳥類てのひらで眠る/秋尾敏〉てのひらの感覚として檸檬と鳥は等価、〈立春大吉新製品が安い/秋尾敏〉ケーズデンキ

日本で働くという桜貝 秋尾敏

三村純也『一』角川文化振興財団

俳句に向くのは、もう何を書くのも億劫になったとき。書いても書き足りないときではなく書くのに倦むとき、と思った日に三村純也『一』角川文化振興財団を読む。〈包丁を研ぎ改めて桜鯛/三村純也〉「研ぎ改めて」の厳かさ、〈露草や藪のどこかに水鳴りて/三村純也〉露草の露と水の鳴りとの感応。

南帝の裔匿ひし夏炉とて 三村純也

土生重次『素足』角川書店

『覚えておきたい極めつけの名句1000』角川ソフィア文庫に収録されている〈銀杏落葉一枚咬みて酒場の扉/土生重次〉が気になった土生重次『素足』角川書店を読む。扉は「と」と読む。〈雪代や鐘の臍には打たれ艶/土生重次〉金属の冷ややかさ、〈有り余る風のなすまま風鈴屋/土生重次〉「有り余る」の俳妙、〈先生の波を最後にプール閉づ/土生重次〉大人の秘密の余韻、〈爽涼や両面に歯のおろし金/土生重次〉涼と金物が合う。

蛇笏忌や舟端鎧ふ古タイヤ 土生重次

浜松市立図書館収蔵の全句集

浜松市立図書館に収蔵されている全句集と俳句集成のリスト。ただし季題別や全集の一巻や数巻で俳句を集めたものは除く。

黛まどか『B面の夏』角川書店

バスターミナルを見下ろしながら佐佐木定綱『月を食う角川書店を読む。〈噛み遭わぬ男女は帰りテーブルに折り重なったフライドポテト/佐佐木定綱〉の意外で滑稽な視点。それから時代舎古書店で買って読んでいなかった黛まどか『B面の夏』角川書店を読む、表題句は〈旅終へてよりB面の夏休み/黛まどか〉、伊集院静が「蒼い果実の揺れ」と題した文章を寄せている。〈交換日記少し余して卒業す/黛まどか〉書き足りなかったことば、〈楽書きをなぞるらくがき沈丁花黛まどか〉仮名に開くと恋になる、〈鶯や叩いてほぐすふくろはぎ/黛まどか〉離れすぎのようで鶯の声にふくろはぎのふくらみが付く意外さ。〈小悪魔になったつもりのサングラス/黛まどか〉と〈いつまでもキスをしているサングラス/黛まどか〉は同一人物、〈割箸をぎつしり立てて祭くる/黛まどか〉はお好み焼き屋など夜店の意気込み、〈着ぶくれて渋谷を少しはみ出せり/黛まどか〉居づらさ。

一人称の文芸と私性キメラ

今井杏太郎全句集角川書店に「俳句は一人称の文芸」と題された俳論が収められており、

それでも人間には、変身願望などという奇妙な欲望がひそんでいて、たとえば、男性が女性に変身して一句を作ってみたい、と思う人がいる。このような遊び感覚を楽しむのを妨げる訳にも行かないが、それは、あくまでも、個人のゲームの範囲にとどまるもので、俳句のメッセージとして納得出来るものではない。(中略)これを、「虚」などと言ってもらっては、「虚」も、さぞかし迷惑なのではあるまいか。

とある。これは花鳥風月を「主格」にした句ではなく、作中主体が省略されたり明示されていない句についての話。〈腹の子がうごいて春のゆふべかな〉の作者が年配の男性であることを杏太郎は「決して許されるものではない」としてこのような句を「俳句のようなもの」の一例としている。このような話は、短歌でも第57回短歌研究新人賞の石井僚一「父親のような雨に打たれて」で私性というキーワードで論じられた。杏太郎の意見をそのまま肯定するわけではないけれど、私にも少なからず変身願望や憑依願望があるので、作句態度を振り返らざるをえない。作者名を伏せることが前提の賞レースというゲームを走らせる句ではなく作者名を明示した人生に根差した句を作ることが、作家として成長するために肝要ということだと捉えた。しかし新人賞という匿名システムと俳誌の雑詠欄巻頭という顕名システムという矛盾している二つのシステムが同居している現状ではどうしても私性キメラな作家が生まれてしまう。

金子兜太『百年』朔出版

何も考えず、金子兜太『百年』朔出版をただ読んだ。〈山茶花の宿にころがる尿瓶かな/金子兜太山茶花と尿瓶の液体連想が合う、〈牡丹咲く黒犀が通りすぎたよ/金子兜太〉白黒・草獣の対比、〈鹿の眼に星屑光る秩父かな/金子兜太秩父の闇の深さ。

雲巨大なりところ天啜る 金子兜太

「海鳴り星」『今井杏太郎全句集』角川書店

詩的挑戦は難解でなく平明でもできるのだろうか、と思い『今井杏太郎全句集』角川書店のうち「海鳴り星」を読む。〈うすらひのうごいて西国へむかふ/今井杏太郎〉少し西へ動いた薄氷と西国へ向かう自分と。〈さざなみのあふみに春の祭あり/今井杏太郎〉ささやかな命の芽吹きとしての春祭。〈九つはさびしい数よ鳥雲に/今井杏太郎〉かたちが。〈北窓をひらく誰かに会ふやうに/今井杏太郎〉このまっすぐな直喩、〈ものの芽を見しより二重瞼かな/今井杏太郎〉不思議な説得力、〈空を吹く風あり春の雲ゆきぬ/今井杏太郎〉語順によって因果を外れた大きな景、というのは風の方が雲よりも速いから。〈ゆつくりと眺めてをれば青葉かな/今井杏太郎〉眺める速度で変わる景色、〈目をつむりても真青な日向水/今井杏太郎〉見ていないはずなのに見える心象風景、〈南より北のあかるい秋の空/今井杏太郎〉理屈を遠くなはれたところ、〈茸山とはしづかなるところなり/今井杏太郎〉生命の繁茂なのにしづか、〈ぼんやりと枕を抱いて十二月/今井杏太郎〉冷えはじめた疲労感、〈遠いところに星のある寒さかな/今井杏太郎〉すごいな。