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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

一人称の文芸と私性キメラ

今井杏太郎全句集角川書店に「俳句は一人称の文芸」と題された俳論が収められており、

それでも人間には、変身願望などという奇妙な欲望がひそんでいて、たとえば、男性が女性に変身して一句を作ってみたい、と思う人がいる。このような遊び感覚を楽しむのを妨げる訳にも行かないが、それは、あくまでも、個人のゲームの範囲にとどまるもので、俳句のメッセージとして納得出来るものではない。(中略)これを、「虚」などと言ってもらっては、「虚」も、さぞかし迷惑なのではあるまいか。

とある。これは花鳥風月を「主格」にした句ではなく、作中主体が省略されたり明示されていない句についての話。〈腹の子がうごいて春のゆふべかな〉の作者が年配の男性であることを杏太郎は「決して許されるものではない」としてこのような句を「俳句のようなもの」の一例としている。このような話は、短歌でも第57回短歌研究新人賞の石井僚一「父親のような雨に打たれて」で私性というキーワードで論じられた。杏太郎の意見をそのまま肯定するわけではないけれど、私にも少なからず変身願望や憑依願望があるので、作句態度を振り返らざるをえない。作者名を伏せることが前提の賞レースというゲームを走らせる句ではなく作者名を明示した人生に根差した句を作ることが、作家として成長するために肝要ということだと捉えた。しかし新人賞という匿名システムと俳誌の雑詠欄巻頭という顕名システムという矛盾している二つのシステムが同居している現状ではどうしても私性キメラな作家が生まれてしまう。