楽しい日、『憂春』を読む。〈遠山はいちじく色に日暮れつつそこに谺す川魚のこゑ/小島ゆかり〉川魚の声が谺するのが聴こえるほど色濃い山行の思い出がある。〈下り行くわれの後ろにしばしばも鉄扉は閉ぢぬ夕闇の山/小島ゆかり〉夜という鉄扉に閉ざされた山が背後にある。〈午すぎて雲にも行方あるごとし給水塔のある街の上/小島ゆかり〉水という繋がりから雲と街とを給水塔が媒介する。見上げた景色が大きい。〈若武者の白骨に似て丈高く百合の花咲けり無人の駅に/小島ゆかり〉その無人駅は古戦場跡地であろうのか。無人と戦場の時を超えた対比がある。そこに存在感のある百合の花が咲く。〈みかん剥けばみかんの中に十人の老人がゐて軍歌をうたふ/小島ゆかり〉みんなでセピア色の汽車旅行でもしているのだろう。〈男らは知らず乳房の重たさも喪はれゆくその重たさも/小島ゆかり〉知らない、寂しさ、でも知って欲しくて。〈風やみて白芙蓉とか瞼とかやはらかきもの傷みはじめぬ/小島ゆかり〉たぶん温度により、あるいは心により内側から傷む。〈捨てに行く貝がら鳴れりむらさきの雲間に春の月のぼるころ/小島ゆかり〉貝がらはすでに楽器のよう、捨てる行為を描くのに春の月のように明るい。〈盗賊のねむり詐欺師のねむりなどおもへば熱し夜の肉体/小島ゆかり〉悪への憧憬が身のうちにひそむ。〈魚と魚すれちがふとき音なくてぶだうのやうに盛り上がる水/小島ゆかり〉川のなかの躍動が「ぶだう」、水の芳醇な匂いまで伝わる。
秋の帽子被ても脱いでも牧水の憂ひにとほし海見ゆる丘 小島ゆかり