- 原自己Archi-Soiと自己たちles Soi
- 十全ナ思考ハ常ニ同ジモノヲ回避スル cogitatio adaequata semper vitat eandem rem
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スピノザの面白いのは、エチカとポリティカを異質なままにしておいて、哲学者がよくやるように弁証法的に綜合しようとしないことだ。(上野修『スピノザ考』青土社)
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何のことはない、最高権力も結局は理性に従って万人の利益と公正を図るよう、あるいは少なくともそう見えるように、自然から拘束される。倫理的な理由からではなく、自らを滅ぼさないための用心として拘束されるのである。(上野修『スピノザ考』青土社)
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その力能は常に、各人の外、各人のまわりに現われ、各人の想像力を触発し、あたかも一つの精神によってであるかのように各人を従わせる。それが群集の力能だった。(上野修『スピノザ考』青土社)
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とすれば群集は「われわれ」という主格を構成しない。何人も本当には群集を代表して「われわれ」と言うことはできない。われわれはみずから群集として何ができ、自分たちに何をしているのか知らないのである。(上野修『スピノザ考』青土社)
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したがって「群集の力能」とスピノザが言うとき、「の」という属格は行為主体への帰属を意味しない。(上野修『スピノザ考』青土社)
- スピノザの群集は脳の眠ったゾンビのよう、ゆえに怪物的。
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貴族制の統治が実際の運営において絶対的なものにならない理由はただ一つ、評決から排除された群集が統治者にとって脅威として存在し、ある種の自由を暗黙のうちに保持しているからであるとスピノザは言う。(上野修『スピノザ考』青土社)
- 詩歌は誤読されるのを作者が希望することがある。誤読が正読という。
- 古典の知識がないと詩歌(特に短詩)が読めないと読者が主張するのは正読したいから、でも作者にとっての正解は誤読されることかもしれない。
- むしろ読者が正読しかしないのなら、作者は不要な世界。
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死辱片時痛/生辱長年羞(孟郊「夜感自遣」)
- 瘂弦、詩人
- 押韻してしまったら恥ずかしいから推敲するらしい。
- 浜松市の文化のためにいま必要なのは、非レッツ系かつ非リノベーション系だけれど人を集められるイベンターだろう。
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連唱波瀾動/冥搜物象開(高適「陪竇侍御霊雲南亭宴」)
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滋野の川柳には風土性と社会性の両面が共存している。(小池正博編著「滋野さち」『はじめまして現代川柳』書肆侃侃房)
- 牛じゃないのに個体識別カード来る/滋野さち
- 除染済むまで鳴り止まぬ夕陽/滋野さち
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王の首こよひ取らむと秋桜/熱田俊月(毎日俳壇2024年10月14日小川軽舟選)
- 雲南市なら出雲王だね
- 「反蹤跡具如此」の具と「索得反具以聞」の具の違い
- 有司(警察・検察)、廷尉(最高裁判所長官)、治(取り調べ)、験(証拠)。