以太以外

蒼褪めた巨漢は笑う水澄んで 以太

茘枝

〈茘枝手に人造少女の目に原野/中嶋憲武〉(『祝日たちのために』港の人)の基底部は「人造少女の目に原野」。雑草の生えるまま生命の奔放たる原野を眺めるのは、人の手により計画的に作られた少女の眼球。その基底部への干渉部は「茘枝手に」、茘枝はここでは蔓茘枝こと苦瓜ではなくライチの実だろう。というのは苦瓜では色が緑色系に固定されて景がぼんやりするのに対し、ライチならばその実は少女の眼球を連想させかつ赤みがかった黒が景の焦点となり景全体をひきしめるからだ。茘枝はそれを持つ人造少女が抱く、生命の奔放への願望だ。

 

田島健一『ただならぬぽ』ふらんす堂

ガスコンロが点かず、リアタイヤが斜めな日、田島健一『ただならぬぽふらんす堂を読む。〈蛇衣を脱ぐ心臓は持ってゆく/田島健一〉脱がれる蛇衣のなかで何が行われているかを人は知らないがゆえに、「心臓を持ってゆく」は斬新さと適切さを備えている。〈帆のような素肌ラジオのように滝/田島健一〉帆とラジオで夏空へ景が広がる。そして滝風を浴びる素肌。〈郵便の白鳥を「は」の棚に仕舞う/田島健一〉「し」の棚ではないということ。〈家のところどころを直し潤目鰯/田島健一〉日曜大工のあとSh音が脳に残る。〈寒椿空気のおもてがわに咲く/田島健一〉空気のおもてがわとは裏拍に対する表拍のようなものか。〈芽吹く江ノ島天国のようなパーマ/田島健一〉橋を渡って行ける極楽浄土のような春先の江ノ島、そこにいたパンチパーマの男。〈菜の花はこのまま出来事になるよ/田島健一〉出来事は「ふと、起こった〈こと/事件〉」(三省堂国語辞典第七版)、「ふと」のさりげなさが菜の花っぽい。〈遠雷やぽっかり空いている南/田島健一〉北と南であきらかに雲の量と空の色が違う景の大きさ。動の北と静の南と。〈内側の見えぬ小学校に雪/田島健一〉外側だけは見えていて、内側は確かに存在するはず。その外側を覆うように降る雪、内側はますます遠くなる。内側は明治なのかもしれない。

着ぶくれて遊具にひっかかっている 田島健

塩野谷仁『夢祝』邑書林

西部清掃工場を見学した日、塩野谷仁『夢祝邑書林を読む。〈噴水のむこうの夜を疑わず/塩野谷仁〉噴水のこちらの夜と噴水を通して向こう側にある夜とが異なるかもしれない、なんて思わせる夜の噴水の魔力。疑わずとは疑念ありということ。〈短夜のはるかなものに土不踏/塩野谷仁〉「はるかなもの」と大きく出て土踏まずと矮小に、夏の夜ならどこへでも足で歩いて行けそうな気になる。〈鳴けぬ虫きつといる筈虫しぐれ/塩野谷仁〉きっと自分もかつては「鳴けぬ」側だったのだろう〈啞蟬をいくつ囲んで蟬しぐれ/塩野谷仁〉も似た視点。〈ポケットに黒豹のいる二月かな/塩野谷仁〉二月の夜、忍びよるような静けさ。〈やわらかく剃刀つかう花の闇/塩野谷仁〉光に満ちた冷たさが花の闇と剃毛の肌に残る。〈青梅に触れれば遠き日の火傷/塩野谷仁〉疼くような青梅の瑞々しさは火傷の痕にも似て。

分別のなき日なり蝶真白なり 塩野谷仁
浜松市西部清掃工場

俳句の基底部と干渉部

〈山里は万歳遅し梅の花芭蕉〉について、

俳句の興味の中心を占めるのは、強力な文体特徴で読み手を引きつけながら、それだけでは全体の意義への方向づけをもたない(あるいはその手がかりがあいまいな)「ひとへ」の部分、行きっぱなしの語句である。これを「基底部」と呼ぼう。一方、さきの句の「梅の花」のように、その基底部に働きかけて、ともどもに一句の意義を方向づけ、示唆する部分を、「干渉部」と呼ぶことにしよう。(略)黒はどこまでも黒い、黒よりも黒いという「誇張法」hyperboleと、それから、黒白という両極端を持ち出して、黒は白い、実は白なのだという「矛盾法」oxymoronとである。(略)俳句は基底部内の誇張(重複)と矛盾(対立)によって文体的興味をそそり(矛盾を本質とする)、干渉部との重複や対立によって一句の意義を方向づける(重複を本質とする)という基本構造をもっていることがわかる。(川本皓嗣『日本詩歌の伝統』岩波書店

俳句を基底部と干渉部から成り、修辞法には矛盾と誇張の二種あるという説。川本は特に基底部を重要視する。

基底部に表現面の矛盾を含まないものは、そもそもはじめから句の体をなさないのであって、少なくとも芭蕉以後に関するかぎり、いわゆる「俳諧根本」としての滑稽あるいは「俳意」は、まさにそうした基底部の文体上の意外性を指すものと考えられる。(川本皓嗣『日本詩歌の伝統』岩波書店

ただし〈行く春を近江の人と惜しみける/芭蕉〉のように句全体が基底部で「近江」が干渉部の役割を果たす句もあるという。中島斌雄の「屈折」や「曲輪を飛びだす」などが「基底部の文体上の意外性」や斬新さにあてはまるだろう。そして基底部と干渉部のつなぎ目は切れとは限らない。

 

 

藤永貴之『椎拾ふ』ふらんす堂

第3回浜松私の詩コンクール浜松市長賞をいただけるとハガキで知らされた日、藤永貴之『椎拾ふふらんす堂を読む。〈一滴を余すことなく瀧凍てにけり/藤永貴之〉この全と一の対比へのこだわりは〈瀧水の全部が粒に見ゆるとき/藤永貴之〉はもちろん〈若布刈舟一つ遅れて加はりぬ/藤永貴之〉にも見える。〈閉園の楽とぎれ噴水とぎれ/藤永貴之〉同時にとぎれたのではなく次々に、賑やかさと勢いと、それらの消滅と。〈穴惑流れに落ちて流れけり/藤永貴之〉惑っているからコントのように流れけり。〈黴の宿釘一本の帽子掛/藤永貴之〉宿としては意外性に満ちており、黴の宿ならもしかしたらありそうかなと思える程よい感じの、武骨な釘一本。〈流星やボンネットまだあたゝかく/藤永貴之〉流星の余韻とボンネットにある何かの余熱との共鳴。〈冬雲のとぎれめのなくひろごれる/藤永貴之〉「とぎれめのなく」に呼吸できないほどの厚ぼったさと織物めく繊細さが同時に共存する。〈三日月の何照らすなく落ちかゝる/藤永貴之〉「何照らすなく」はいちいち心に留めないということ。こだわりなく落ちる。〈蟷螂の創ひとつ無く死んでをり/藤永貴之〉中七と下五はよく考えれば矛盾しないけれど、創ひとつで死ぬこともあるのだから一読ではふと違和感が芽生えるかもしれない。

伊都國の夜の暗さや牡蠣啜る 藤永貴之

中嶋憲武『祝日たちのために』港の人

狭義の単調減少ならば単射なので逆関数が存在する日、中嶋憲武『祝日たちのために』港の人を読む。〈いなびかり群馬練馬をすみれいろ/中嶋憲武〉M音の暴力が脳裏に稲光のように菫色の傷として残る。〈品川の底冷粗品知る暮らし/中嶋憲武〉サ行に擦れゆく都会暮らし。〈ぽーつとしてとほい菜の花傘より雫/中嶋憲武〉「ぽーつ」の擬態語は傘を持つ人そのものであり、その人のつぶやきのように傘から垂れる雫であり、田園風景の片隅にある菜の花の曖昧さ。〈辛い教訓虹に書かれるべき言葉/中嶋憲武〉教訓と言葉は対義語のようで、スペクトラム、半ば融合している。〈傘ひらく音して古き蜥蜴あり/中嶋憲武〉傘ひらく音は雨の予感であり、一方的に降る雨をはねのけ、遡る時間の端緒でもある。〈空風のからりと影の生えてくる/中嶋憲武〉空風に揺れる木や剥がれる板の影が増える。それは生の裏側で繰り広げられる世界の伸展である。

サンドウィッチの匂ひのなかの蜃気楼 中嶋憲武

中村安伸『虎の夜食』邑書林

この以太以外を開設して二年経つ日、中村安伸『虎の夜食邑書林を読む。〈百色の絵具を混ぜて春の泥/中村安伸〉春の泥はこれから咲くだろう、芽吹くだろう様々な色をすでに百色含んでいる濁色。〈自転車の籠の中なる雪だるま/中村安伸〉「なる」、この勢いは、自転車の前籠に雪だるまだろう。〈星を踏む所作くりかへす立稽古/中村安伸〉禹歩。〈地球儀を地球でつくる花水木/中村安伸〉地球儀を地球でつくるというボルヘス的な地図作製の営為のほか、水と木とが五行説の二つであるゆえに花が第六となりそうな。花曜日ができるだろう。〈心臓を抜いてギターのできあがり/中村安伸〉ギターの原型には心臓があり血が通っていたというなら、弾かれるギターとは抜け殻か。〈レコードの上の軍艦夏来る/中村安伸〉黒々と鉄の軋む音。〈燃えるピアノの上に無疵の胡桃かな/中村安伸〉ピアノは燃えつつ鳴っている。その上に置かれた胡桃のように無疵でありたい、いや無疵であると信じたい。〈印度からお茶が来そうな梅雨晴間/中村安伸〉大航海時代のからりとした空。

いろいろなをんなのからだ遠花火 中村安伸

鴇田智哉『凧と円柱』ふらんす堂

新型コロナウィルス感染症が流行しているため翌日の名古屋出張が中止になったと知らされた日、鴇田智哉『凧と円柱ふらんす堂を読む。〈あぢさゐへ通じる鼻のやうな道/鴇田智哉〉鼻毛の濡れる鼻腔のように、雨上がりで湿った道だろう。〈咳をするたびに金具のひかる家/鴇田智哉〉家のなかの化学反応と咳との因果関係を想起させる。〈まなうらが赤くて鳥の巣の見ゆる/鴇田智哉〉まなうらが赤いのは目を瞑っているから。なのに「見ゆる」のは連続するまばたきであり、それは親鳥のはばたき、でもある。〈蜜蜂のちかくで椅子が壊れだす/鴇田智哉〉蜂の翅音には破滅の予兆音が潜む。〈複写機のまばゆさ魚は氷にのぼり/鴇田智哉〉氷も日に光り、のぼった魚を複写するだろう。〈顔のあるところを秋の蚊に喰はる/鴇田智哉〉顔を喰はるとしなかったのは自分からは顔を見られないから。たぶん顔だろう、そんな感覚のあるところを蚊に喰われた。〈配管の寒さがビルをはしりけり/鴇田智哉〉配管の配とは何を配っているのかは知らないけれど、寒さを管が通ってビル中へくまなく通う。

二階からあふれてゐたる石鹸玉 鴇田智哉

胸中山水

〈ラムネ瓶太し九州の崖赤し/西東三鬼〉について中島斌雄は以下のように書いている。

第一句では、眼前のラムネ瓶、赤い崖が、作者により思うままに拡大されている。私の脳裡には、大きな九州地図が浮かぶ。その真ん中に一大ラムネ瓶が武骨な重さで突立ち、これを囲んで全九州の崖という崖が赤肌をそばだたせている。「九州の崖」にも、黒いの、白いの、さまざまあろう。それを赤い色一途に塗り換えたのは、作者の詩人としてのデフォルメ作業である。それこそ「九州」そのものの表現である。(略)以上、あるがままの山水を、作者がわが「胸中山水」と化することで、自然の生命以上の文学的生命を賦与した事例というべきだろう。自然の命はうつろいやすいもの、文学的生命は永遠たるべきである。(『現代俳句の創造』毎日新聞社

デフォルメされた胸中山水は永遠、そう理解したとき、九州ではないけれど瀬戸内海に浮かぶ豊島は家浦地区に建つ横尾忠則の庭を思い出す。その庭は日本式の庭園なのに岩は原色のような赤く塗られ、池底は同じく原色のような青や黄に塗り分けられている。西東三鬼の句に異常な縮尺を持ち出した中島斌雄と不気味なほど色彩を強調した横尾忠則、両者とも実際の景をそのまま写生するのではなく、胸中にどのように写ったのかという心象写生を加え作品としている。

実際の景はいつか崩れ朽ちる。しかし文学や美術の形で表現された景はどのような形であれ、後世に残る。人間の胸中に心というものが存在する限り。

「白體」『柿本多映俳句集成』深夜叢書社

静岡県ふじのくに芸術祭2019の詩部門で拙作「あすめざめるきみへ」が入選したので東静岡のグランシップへ県民文芸と賞状を取りに行った春雨の日、『柿本多映俳句集成』の「白體」部分を読む。〈海市より戻る途中の舟に遭ふ/柿本多映〉何が海市帰りの証となったのか、気になる、フジツボかな。〈いきいきと映つてしまふ雪女/柿本多映〉映ることすら不覚なのに「いきいきと」した雪女のポーズ、嗚呼、春になってしまいたい。〈月の僧マンホールの蓋開いてゐる/柿本多映〉円形の連想はあるが、月の僧が地下道をぬけマンホールから出てきたような感じ。〈君子蘭路地が途方に暮れてゐる/柿本多映〉「路」地が「途」方に暮れるという面白さ。〈衰への力鮮し山桜/柿本多映〉鮮しはあたらし、衰と鮮が一瞬のように咲き散る山桜で出合う。力だから桜ではなく山桜でなければならない。〈掌のうれしき窪み螢狩/柿本多映〉合わせられた掌の窪みに螢火がある。〈草いきれ烈し向か合ふ坂ふたつ/柿本多映〉住宅街のなかの擂鉢地形、坂が向き合っている様が陽光のなかに見える。湿気がこもるから草いきれも「烈し」い。地形俳句の秀句。〈凍蝶に渉りそびれし川のあり/柿本多映〉蝶の古名はかはひらこ、なのに川を渡り損ねて季節はめぐり凍蝶になってしまった。

肉食の午後や祭器のくもりをる 柿本多映

 

 

 

 

楠誓英『禽眼圖』書肆侃侃房

太さが一歳児の胴回りくらいあり、大人の背丈ほどの長さのある鰻を三匹、大きな睡蓮鉢に飼う夢を見た日、楠誓英『禽眼圖』書肆侃侃房を読む。〈自転車が倒れ後輪は回るまはるさうして静まるまでを見てゐき/楠誓英〉自転車を起こそうとしない、ただ車輪が止まるのを見ているというのは児戯のようであり、無気力の世界だ。〈轢かれたる獣の皮がこびりつき車道しづかに恩寵を受く/楠誓英〉轢死獣は胙だった。〈伏せられしボートのありてこんなにも傷はあるんだ冬の裏には/楠誓英〉ボートの裏を「冬の裏」とする断定は詩ならでは。〈海に花手向けるときのくらさにて少女は抱いた子猫を放す/楠誓英〉「くらさ」は現実の景色ではなく心象風景だろう。〈夕ぐれの名の無き橋をすぐるとき無名の闇になりてゆくかも/楠誓英〉名の無い橋を過ぎたものは名を喪う。〈大瀧の落つる先にも小さき瀧どこまで一つの時間なのだらう/楠誓英〉時間にいまとルビ、瀧と時間は流れてゆき二度と戻らない。〈電球をかへてうつむく少年は眼窩の深きひとりの男/楠誓英〉電球をさすソケットと眼窩の共通項に触れようとしたのかもしれない。〈薄明をくぐりて眠るわがからだ枕の下を魚が泳ぎぬ/楠誓英〉「魚」は安心感の表れ。

飛び立つた空の深さをおもひけり有刺鉄線にこびりつく羽根 楠誓英

服部真里子『遠くの敵や硝子を』書肆侃侃房

メガドンキの遊び場で一歳半の吾子から玩具をことごとく奪い玩具を専有していた四歳くらいの男の子。数分後に彼が迷子としてアナウンスされていた日、服部真里子『遠くの敵や硝子を』書肆侃侃房を読む。〈梔子をひと夏かけて腐らせる冷えた脂を月光という/服部真里子〉「冷えた脂を月光という」という謎めいた説得力、〈目を閉じたまま顔を上げ月光と呼ばれる冷たい花粉を浴びる/服部真里子〉の「冷たい花粉」も強い。〈風がそうするより少していねいに倒しておいた銀の自転車/服部真里子〉「銀の自転車」ゆえに少し丁寧に倒したのか、神へ近づく命名。銀の特別さは〈人の死を告げる葉書にまぼろしの裏面ありて宛先の銀/服部真里子〉にも。〈神様と契約をするこのようにほのあたたかい鯛焼きを裂き/服部真里子〉種無しパンのように鯛焼きを。〈君を去る船団のようなものを見たある風の日の床のざらざら/服部真里子〉「君を去る船団」という虚のイメージの強烈さ。〈前髪をしんと切りそろえる鋏なつかしいこれは雪の気配だ/服部真里〉感覚の言語化、そして共通項を見つける技量の鮮やかな一面。

夕闇に手をさし出せばこぼれくる桜は乳歯のほの明るさで 服部真里子

吉岡太朗『世界樹の素描』書肆侃侃房

西の方言というよりファンタジー世界の長生きする小人の話し方で吉岡太朗『世界樹の素描』書肆侃侃房を読む。〈葉が紅こうなる話などして君は会いたさをまたほのめかしてる/吉岡太朗〉紅葉は恋愛感情の比喩として楽しい。〈カーテンがふくれて夜の王国の国境線が引き直される/吉岡太朗〉風にふくらむカーテンの裏側にある政治的な駆け引き。〈100よりよなぜか大きい数のようきみのテストの98は/吉岡太朗〉0や1よりも8や9の方が大きい数なんだよね。〈自転車が自転車を抜く遠景の橋 そこに感情はあったんやろか/吉岡太朗〉それとも無感動に抜いたのか、あらゆる事象に意味と感情を見出そうとする過敏な時期。〈たいせつなレシートばかりポケットにうしないやすき夕冷えの風/吉岡太朗〉たいせつなものばかり無くしてきた私だった。

洞窟をたまの散歩にだしてやる洞窟用のリードをつけて 吉岡太朗

「バリケード・一九六六年二月」『福島泰樹全歌集』河出書房新社

天竜川河口付近、太平洋を前に、強い北風で子が泣く。そんななか『福島泰樹全歌集』の「バリケード・一九六六年二月」部分を読む。〈一隊をみおろす 夜の構内に三〇〇〇の髪戦ぎてやまぬ/福島泰樹〉戦闘前夜の緊張、〈検挙されなかったことを不覚とし十指もろとも凍る手袋/福島泰樹〉悲愴へ迸る、〈奮迅したる友へ差入れなにもなしポッケの底のライオン歯磨/福島泰樹〉必需品だけを持ち街にある。〈あまつさえ時雨はさびしきものなるをコーヒー店に待機している/福島泰樹〉闘争のさなかコーヒー店に待機する、というリアリズム。〈はいりきてレイン・コートを脱ぎ捨てしわかものの髪もうかわくまい/福島泰樹〉「もうかわくまい」とは永遠のわかもとなるゆえに。〈飛沫するレイン・コートを纏いしは無残なりわが暁の帰路/福島泰樹〉痛いほどの敗北感をレインコートの重みに変えて。

五月あまりに豊饒なるをわがためにひとり少女が切りし黒髪 福島泰樹

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』青磁社

卸本町でアリィの冬と夏「内と外のリフレクション」を観て、俳句と工芸の融合について考えた日、岡田一実『記憶における沼とその他の在処青磁社を読む。〈闇鍋の闇を外せぬぬめりやう/岡田一実〉闇鍋の闇は趣向ではなく必要、だった。〈碁石ごと運ぶ碁盤や梅月夜/岡田一実〉ゴ音の頭韻に梅月夜が丁寧に付くつくり。〈夜を船のよぎる音聞く桜かな/岡田一実〉運河か河口か港か、大きな景から桜という中くらいの景へ、自己から離れたところに意識を飛ばし、それでいて自己の範囲を探るかのような。〈焼鳥の空飛ぶ部位を頂けり/岡田一実〉「空飛ぶ部位」を食するのは類感魔術めいた魅力がある。〈中庭を抜ける明るさ榠樝の実/岡田一実〉中庭は精神病棟によく似合う、さらにその只中にごつごつと榠樝の実。〈立つて食ふサンドヰッチや誘蛾灯/岡田一実〉夜のコンビニエンスストア。〈廃坑や莢蒾の実の雨を帯び/岡田一実〉捨てられる運命にある廃坑と生命力の繁茂とも言える莢蒾の実の奇妙とも言える対比。

室外機月見の酒を置きにけり 岡田一実


アリィの冬と夏、アルラ玄関