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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

中澤系『uta0001.txt』双風舎

ふと〈結語への遠き道行き風船はいままだビルのなかばのあたり/中澤系〉が目に入り、高層ビルの中にある空洞を上がっていく黄色い風船を思う、そしてふたたび中澤系を読まなければならないと思った。〈駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに/中澤系〉人に会って感謝したとき、または人に怒ったときにその人そのものではなく、その人の背後にあるシステムに対してその感情を当てるよう私たちは訓練されている。〈じゃあぼくの手の中にあるこの意味ときみの意味とを比べてみよう/中澤系〉同じ文でも人により意味は違うように解釈されるのだから、ひとまず手の中にある意味を比べて確認することからはじめよう。〈罪ならば 九段下より市ヶ谷へしずしずゆるき坂を上れり/中澤系〉そのゆるき坂には靖國神社があり、日本史の功罪について考えさせる。「しずしず」はすでに人生という刑に服さんとしている。〈未決囚ひとりひなかの快速にいてビールなど呷っていたは/中澤系〉未決囮の社会的宙ぶらりんと駅から駅への浮いた旅とはよく似ていて、さらにビールがよく似合う。〈生活を構築せよとある朝の冷たい水に顔を浸して/中澤系〉生活は余りに遠くなってしまった。生活は崩れゆくものであり、構築しようとする先からこぼれてしまう。いくら冷水で顔を洗ったとしても。〈ひょっとして世界はすでに閉ざされたあとかと思うほどの曇天/中澤系〉閉ざされているのではなく閉ざされ、もう終わったあとの世界で、ぼくらは、探しにいく。

3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系

放送大学「文学批評への招待」第9章精神分析批評(2)

学習課題2 ギリシア悲劇ソフォクレスの『オイディプス王』を読み、この悲劇が現代人にも感動を与えるとすれば、どこにその理由があるかを考えてみよう。

現代人はもはや近親相姦の禁忌や父殺しくらいでは心を動かされない。『オイディプス王』はエディプス・コンプレックスの解釈では不十分な作品となった。しかし強大な運命に打ちひしがれた人が、その生の一瞬に示した自由意志の輝きには現代人も感動しうる。
スフィンクスの謎解き英雄であるテーバイ王オイディプスは飢饉に苦しむテーバイを救うため、神託に従い前王ライオス殺しの犯人を「全力を尽くして」捜査・前王の仇である犯人を追放すると言う。「さもなくば破滅だ」と誓う。しかし盲目の預言者テイレシアスに「おまえが犯人自身だ」と言われてしまう。また王妃イオカステから前王ライオスが殺された現場の位置を聞かされ、さらに目撃者の話を聞き、前王ライオス殺しの犯人が自分であることを悟る。それでもデルポイの神託「母親と交わって、人が目をそむけるような子らを生み、実の父親を殺すだろう」については、オイディプスの父王であるポリュボスの死の報せを受け、その神託は成就しなかったとオイディプスはひとまず安堵する。しかしすぐに使者からポリュボスはオイディプスの父親ではないと知らされ、様相は逆転する。さらに前王ライオスに仕えていた羊飼の証言と踝の古傷という秘密の暴露によりオイディプスデルポイの神託が成就したことを認知する。前王ライオスを殺したばかりかその前王ライオスが自分自身の父親であり神託の通りに父殺しを犯し、王妃イオカステは自分自身の母親でありその母と交わったとオイディプスは否応なしに知る。神託や踝の古傷という形で匠みに張られた伏線が時間をおいて回収されていく。その度にオイディプスの感情はジェットコースターのように乱高下する。登場時はスフィンクスの謎解き英雄だったオイディプスは両眼を潰した悲運の人へ身をやつし退場する。
抗いきれない運命に翻弄される事態は現代でも起こりうる。多くは運命を呪うだけだ。しかし悲運の人オイディプスは自ら両眼を潰し自らを追放した。なぜなら自らを罰することだけが運命へ抗うために示せる唯一の自由意志だからだ(オイディプス「ありとあらゆる苦しみを私に与えたのはアポロンだ。だが、目を潰したのは、ほかならぬ私自身」(河合祥一郎オイディプス王光文社古典新訳文庫)。スフィンクスの謎解きではないけれど四本足のときは羊飼に救われるだけだった彼はそれからずっと自分の二本足で歩き続けてきた。終幕近くにクレオンは言う「すべて思いどおりにはならぬ。すべてを意のままにできるオイディプスは、もはやいないのだ」と。しかし悲運を呪うだけではなく再び自分の両脚で歩みだしたオイディプスの強さに、現代人は感動するだろう。

自らの呪いを自らに受け、自らその身を追放する

穂村弘『水中翼船炎上中』講談社

中郷温水池公園へ赴いた日、穂村弘水中翼船炎上中講談社を読む。〈なんとなく次が最後の一枚のティッシュが箱の口から出てる/穂村弘〉この予感はよく当たる。そして最後の一枚をつまんでほじくり出す。〈口内炎大きくなって増えている繰り返すこれは訓練ではない/穂村弘〉新型コロナ・ウィルスも、繰り返すこれは訓練ではない。〈電車のなかでセックスをせよ戦争へゆくのはきっと君たちだから/穂村弘〉言われるがままおとなしくしていちゃダメだ、殖やせ。〈先生がいずみいずみになっちゃってなんだかわからない新学期/穂村弘〉いずみ先生が泉さんと結婚した。〈クリスマスの炬燵あかくておかあさんのちいさなちいさなちいさな鼾/穂村弘〉クリスマスどうのこうのよりお母さんの鼾がある方が日本の幸せである。〈金色の水泳帽がこの水のどこかにあると指さした夏/穂村弘〉さぁ金色の水泳帽を見つける夏の冒険のはじまりだ。〈ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下/穂村弘〉「半」は生命の神秘。〈僕たちのドレッシングは決まってた窓の向こうに夏の陸橋/穂村弘〉その陸橋を渡ればきっと違うドレッシングに出会える、かもしれない。〈手書きにて貼り出されたる宇宙船乗務員性交予定表/穂村弘〉宇宙船が飛ぶ時代、おそらく星間移民船であっても掲示板に手書き文字という意外さ。〈蜂蜜の壜を抱えてうっとりと母はテレビをみつめていた。/穂村弘〉思わず観入ってしまって、その壜のとろめきは母のときめきのようで。〈うすくうすく波のびてくるこの場所が海の端っこってことでいいですか/穂村弘〉もしかしたらうすく波ののびてくるこの場所が海の中心かもしれないけれど、端っこである方がおさまりがいいので。

何もせず過ぎてしまったいちにちのおわりににぎっている膝の皿 穂村弘

放送大学「文学批評への招待」第8章精神分析批評(1)

学習課題2 ギンズブルグの論文「徴候」(『神話・寓意・徴候』第5章)を読み、推論的パラダイムの系譜について学んだ上で、それを、どうすればテクストの読解に生かすことができるかを考えよう。

推論的範例(パラダイム)は狩人の世界に起源を持つという。十九世紀後半、レルモリエフことモレッリは絵画の鑑定について「個性的な努力の最も弱い部分に個性が見出される」とした。モレッリの評論を読んだフロイトは「不必要なものや副次的な与件が真実を示す」と考えた。コナン・ドイルもモレッリの評論を参考にシャーロック・ホームズが活躍する探偵小説を執筆した。モレッリにフロイトコナン・ドイル、彼ら三人とも医学を学んでいた。医学には症候学という、古代ギリシアヒッポクラテス派により確立された方法論がある。十九世紀後半にこの症候学を基盤とする推論的パラダイムが現れた。この推論的パラダイムをテクストの読解に生かすためには三つの方法が考えられる。

文字数の分析

まずは文字数の分析である。これは文や文章の文字数を比較したり名詞・形容詞・助詞・助動詞などの頻度を算出したりする分析だ。この分析ではテクストが書かれた時期や意味を重視する度合いを計測でき、テクストの性質を推し量れる。たとえば前半と後半で文字数あたりの特定の助詞が使われる頻度が変化したのならば前半と後半とで書かれた時期に隔たりのあるテクストかもしれない。時期の隔たりについては次の単語の分析と合わせても考えられる。

単語の分析

次に使用された単語の分析である。例えば類似した意味を持つ単語や漢字のうちどれが使われているか(知恵か智慧か、座禅か坐禅か、イスラームイスラムか、蝉か蟬か、花か桜か、人工言語か国際補助語か)でテクストのバックグラウンドとなる知識体系を把握し、テクストの志向を掴むことができる。たとえば「イスラム」という単語が使われたテクストはそれほどイスラームアラビア語に詳しくない人の手によるテクストと判断でき、「エスペラント語」という単語が使われたテクストはエスペランティスト以外の手によるテクストの可能性がある。

不在の分析

最後は文脈上必ず言及されるはずなのに言及されなかった単語についての分析である。名数「三」が出され三のうち二は触れて残りの一つに全く触れなかったとしたら、作者にはそれを黙殺する何らかの理由があると解釈できる。とある株式会社に三つの地方支社があり社長文書が二つの支社の来期計画に触れて残りの一支社についてはその名すら上げなかったのならば、その支社には何か問題があり来期には廃止されるとその社長文書は予告していると解釈できる。

三つの方法を挙げたけれど還元主義的批評の傾向が強い。しかしテクスト解釈のために必要な情報を得られるだろう。テクストは「2001年宇宙の旅」の宇宙船のように宇宙に浮かんでいるわけではないのだから。ただ、いずれもテクストの内容で正当付ける必要がある。推論的パラダイムは強者が弱者を管理するためにも使えるし、弱者が強者へ抗するためにも使える。テクストを出し続ける者がいる限り有効な方法論だ。

異動の夢

異動になり、作業室の隅っこにある区分棚の前に立つ。四列くらいしかない区にすでに2パスが満載に差されている。輪ゴムでくくり、鞄に詰めてカブで出かける。途中、河岸段丘の上にある住宅街の児童公園にカブを停めた同僚が丘下の住宅街まで歩いて下りて配達している。カブは田園地帯に出る。輪ゴムでくくった束を鞄から取り出し一番上の宛先を見ると「新光市」と書いてある。知らない自治体でどこか分からない。宛名はなんとか易占堂とある。前夜に読んだギンズブルグの易占的範例か。易占堂をグーグルマップで調べると浜松市の駅南にある。すべて持ち戻り、先輩に訊く。新光市は浜松市のまちなかにある高層ビル群の一区画らしい。

亀鳴くや亡命政府への葉書 以太

小野茂樹「羊雲離散」『現代短歌全集第十五巻』筑摩書房

紙を数十枚もらった日、『現代短歌全集』の小野茂樹「羊雲離散」部分を読む。〈秋の夜の風ともなひてのぼりゆく公会堂の高ききざはし/小野茂樹〉夜に公会堂の階をのぼる。K音を連ねる高揚感がある。高さへの憧憬あるいは畏怖は〈失ひしものかたちなく風の中の操車場塔つぶさに高し/小野茂樹〉〈いちはやく断層に街の灯はともり高き灯に夜の風当たりゐむ/小野茂樹〉などにも読める。〈蔽はれしピアノのかたち運ばれてゆけり銀杏のみどり擦りつつ/小野茂樹〉ピアノではなくあくまでも見えるのは「ピアノのかたち」。擦れ銀杏の葉が緑の音階に沿って鳴る楽しさ。〈更けてなほ町はにぎはふ貨物駅の塀にて成りし夜店の片壁/小野茂樹〉川崎あたりの工場地区の猥雑な飲み屋を思わせる。〈坂に沿ふ空溝に水くだりゆく堰かれしもののいきほひ新し/小野茂樹〉人間の息づかいをたしかに聴く景の描写、押さえつけられた者の怒りがほとばしる。似たような景に〈地に低く雨の音満ちきみを追ふべく幅のある道に惑ひき/小野茂樹〉があり、これは破調が急に幅の開けた道への惑いを表現している。〈はしけにて向かへば陸はひしひしと迫りぬ人なき露地もつぶさに/小野茂樹〉上陸前の街がしだいに詳細に見えてくる、解像度の上がっていく感じが「人なき」で鮮やかに視覚化される。〈手袋をはめつつ出でて擦るごとく歩道に伸ぶる夕光を踏む/小野茂樹〉魔術師めいて夕方の街をゆく。〈送り来しこの路次のはて灯を入れし公衆浴場うちら濡れつつ/小野茂樹〉銭湯の「濡れつつ」は送り来し人のエロティックな記憶とともに垣間見る。〈床高し電車の過ぐる踏切にわれら断たれてゐたり急きつつ/小野茂樹〉電車の「床高し」は隔てる境界の高さであろう。〈囲はれし園もたがはず冬なりきしきりに波紋の浮かぶ池あり/小野茂樹〉「囲はれし」は追い詰められた人生の意なのだが、そこにもなお活きようとする意思が池の波紋としてある。〈石段に土流れたる痕ありてもろく水浸きし街いま乾く/小野茂樹〉闘争のあと傷痕としての泥がこびりつくままの街だ。〈人のぬくみのみ確かなる夜にして海へ出でゆくはしけ舟見ゆ/小野茂樹〉艀舟は人のぬくみを外れる勇気として海へ出る。〈みづからのため甲ひたる詰襟の黒き咽喉にて歌へば声あり/小野茂樹〉学生は合唱する、それは誰のための歌なのだろう。〈あやまたず岐路多き日を歩み来て湯のなつかしき重みに沈めり/小野茂樹〉なんとか辿りついた一日の終わりに訪れる休息の湯は羊水にも似て、重く身体にまとわりつく。〈非力のとき誠実といふこと卑し月を過ぎゆく羊歯状の雲/小野茂樹〉月を掠める羊歯状の雲が、運命というものの儚さを現している。〈脈博のごときわれらの時をきざむ時計は腕に小さく冷えたり/小野茂樹〉刻むのは「われらの時」だからこそ小さく冷える。それは現実の時間より少し遅れている。〈一枚の葉のみ樹冠に昏れ残るまぼろしの木はねむるとき見ゆ/小野茂樹〉夕闇に見た一枚の葉の寂寥は〈ひたすらに日はわたりゆく夏柑の一つを残す木立の上を/小野茂樹〉の夏柑と似ている。〈ことごとくわが生きざまを許さぬとこゑあり扇風機の風旋り来ぬ/小野茂樹〉夏の脳裏に甦る言葉が寄せては帰す扇風機のように何度も響くのだ。忘れさせてくれない。〈まなざしのひとつわが身を過ぐるとき電車は内部灯りつつゆく/小野茂樹〉踏切、轟音をたてて過ぎゆく夜の電車の明るさは心の衝撃音のようでもある。〈あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ/小野茂樹〉類型の夏とかけがえのない夏、その間を行きつ帰るのが青春であろう。

感動を暗算し終えて風が吹くぼくを出てきみにきみを出てぼくに 小野茂

虚の自由

唐木順三は『無用者の系譜』筑摩叢書において西山宗因の虚について書く。

卽ち實の世界の常ならぬむなしさを身にしみて體驗したのである。(略)過去の重臣の位置に對比した現在の浪人のわび姿が、やがて、實に對する虛、和歌に對する寓言、連歌に對する狂言、卽ち實世間を茶化する俳諧滑稽の談林世界をよび起すことになるのである。無用坊の世界、無樂の樂、ひざをくづした世界である。(略)宗因が浪人を選びとつたのは尤もなことといはねばならない。卽ち現世の秩序からはみでた虛の世界、夢幻の世界において始めて戲言、狂句の自由をえたのである。「無用坊」となることによつて始めて詩人となりうるといふ條件がそこにあつた。

社会が大きく変化するときは虚の世界が繁るときだ。

日下野由季『馥郁』ふらんす堂

新型コロナウィルスのパンデミック、そのただなかで日下野由季『馥郁』ふらんす堂を読む。〈金木犀己が香りの中に散る/日下野由季〉高貴さのゆえに己が香り以外は寄せつけず。〈花野ゆく会ひたき人のあるごとく/日下野由季〉その歩調が、歩幅が人に逢いたがっている。〈あをぞらに噴水の芯残りたる/日下野由季〉水は消えても芯は空に残る、記憶の残像として。〈一音をもて地にひらく落椿/日下野由季〉落下を「一音」と描写した鮮やかさ。〈鳥雲に入る灯台に窓一つ/日下野由季〉窓がひとつしかない灯台の内側の暗さ、それこそ鳥雲の寂しさ。〈句座果てて一人ひとりひとりに夏の月/日下野由季〉月は人が見る面ごとに月であり月面なのだろう。〈初明り差す胸深きところまで/日下野由季〉心の深奥まで初明りが照らすのは心がまっさらな元旦だから。

 

しやぼん玉こはれて草のうすみどり 日下野由季

大森静佳『カミーユ』書肆侃侃房

入力物を落失した日、大森静佳『カミーユ』書肆侃侃房を読む。〈顔の奥になにかが灯っているひとだ風に破れた駅舎のような/大森静佳〉駅舎の奥に最終列車の灯が点るように、どこかへ危ういところへ連れていってくれそうな人の顔として。〈春のプールの寡黙な水に支えられ母の背泳ぎどこまでもゆく/大森静佳〉「寡黙な水に支えられ」、プールの水すべてが黙ったまま一人の老いた女の体を、さざなみのように支える景、静かな喜びが伝わる。〈ひとことでわたしを斬り捨てたるひとの指の肉づき見てしまいたり/大森静佳〉「指の肉づき」は欲や傲慢さの受肉のようなものだ。〈風を押して風は吹き来る牛たちのどの顔も暗き舌をしまえり/大森静佳〉「風を押して」に畜獣のような風の存在感がある。〈冷蔵庫のひかりの洞に手をいれて秋というなにも壊れない日々/大森静佳〉洞にうろとルビ、冷蔵庫は壊れない日々を維持する器、その光は秋の日のように橙色に覗きこむ顔を照らす。〈空の港、と呼ばれるものが地上にはあって菜の花あふれやまざる/大森静佳〉荒廃した世界の姿として、滅びた国の廃れた空港に蔓延る菜の花の黄色かもしれない。

ずっと味方でいてよ菜の花咲くなかを味方は愛の言葉ではない 大森静佳

野口あや子『眠れる海』書肆侃侃房

右袖がひどく濡れた日、野口あや子『眠れる海』書肆侃侃房を読む。〈凍えつつ踏まれたる鉄片ありてそういうもののなかにきみ住む/野口あや子〉凍え、踏まれても弱音ひとつ吐かないきみの生き様を歌う。〈うけいれるがわの性器に朝焼けが刺さってなにが痛みだろうか/野口あや子〉「うけいれるがわ」「性器に朝焼けが刺さって」の比喩が強い。「なにが痛みだろうか」はなにも痛くはないのだという叫びとして。〈眠るあなたを眠らぬ私がみていたり 糊を薄めたように匂って/野口あや子〉匂いというのは空気感でもある。薄糊のように粘りつくような寝室の空気を描く。〈名を呼べば睫毛の先より身をひねり光沢を刷くごとくほほえむ/野口あや子〉「睫毛の先より身をひねり」は、あたかも睫毛まで筋肉が通うかのごとく動く。〈てのひらに硬貨とピアスにぎりしめ階下に買いに行く冷えた水/野口あや子〉「ピアス」の意外性が、たぶん夜道の自動販売機の照明に光る。

うけとりし扇の骨の二、三本ひらきてとじてここはゆうやみ 野口あや子

九堂夜想『アラベスク』六花書林

数がなかなか合わなかった日、九堂夜想アラベスク六花書林を読む。〈湖の死や未明を耳の咲くことの/九堂夜想〉湖は「うみ」とルビ、耳は夥しく咲く、湖の欠如を埋めようとするように。当然、音への希求はある。〈くちなしの破瓜にむらがる枝神ら/九堂夜想末社の位階低き枝神らは、梔子の安っぽく強いにおいに簡単に引き寄せられてしまうという戯画。〈野火はるか雲を敲けば蛇落ちて/九堂夜想〉雲から空からボトボト蛇が落ちてくる景が愉快、野火が遠くに見えるのもよい。〈月のみち喪のみな針をふところに/九堂夜想〉針が喪のしるしとなり月への支線を旅するのだ。

きむらけんじ『圧倒的自由律 地平線まで三日半』象の森書房

きむらけんじ『圧倒的自由律 地平線まで三日半』象の森書房を読む。〈兄の古着で兄より育って家を出た/きむらけんじ〉「兄より育って」がおもしろい。〈黙って漁師継いで耳にピアス/きむらけんじ〉漁師町の元不良少年。〈その先で捨てるチラシを黙って貰う/きむらけんじ〉予め定められた未来を敢えてなぞる。〈夏の子の画用紙に水平線一本/きむらけんじ〉描きかけの一瞬をとらえる。しかし既に完成画でもある。〈前科はあるが噴水で待ちあわす/きむらけんじ〉「前科はあるが」はここで言わなくてもいい、でも言っておきたかった。〈返事はしたが声を出し忘れた/きむらけんじ〉ボディランゲージで返事。〈目覚まし二つかけて眠られぬ/きむらけんじ〉目覚ましの度が過ぎて常に目を覚ます。〈年の瀬に穴があるので穴をのぞく/きむらけんじ〉穴からは新年が顔をのぞかせるかもしれない。

顔見知りの高橋君は野良犬をしている きむらけんじ

天道なお『NR』書肆侃侃房

ららぽーと磐田で靴を買った日、天道なおNR』書肆侃侃房を読む。〈砂粒は遠くとおくへ運ばれて生まれた街を忘れてしまう/天道なお〉砂粒のように生まれ、砂粒のように旅をして、そして摩耗するように死ぬの。〈バスタブに白き石鹸滑り落ち深まる夜の遺骨であるよ/天道なお〉湯に落ちてやわらかくなる石鹸、屈折する光、手に届かないほどに遠い夜の遺骨として揺らめく。〈白シャツの衿尖らせて帰宅せり真水に浸しただ眠るべし/天道なお〉「衿尖らせて」そのためにゆえ疲れてしまった一日だった。〈ぬばたまのクレームコールいっさいの光およばぬ沼の底より/天道なお〉暗き消費者たちから明るい会社員への電話、その名はクレームコール。〈陽炎の彼方に見えし夏帽子どの子がわれの子になるのだろう/天道なお〉「どの子がわれの子になるのだろう」は陽炎を通して見えた未来、時空を超えた希望である。〈本のない図書館がよい幾つもの夢にやぶれた僕ら逢うなら/天道なお〉空いた書棚をふきぬける風が頬に心地よい。〈コットンのねむりの中でおさなごがやさしく握る虹の先っぽ/天道なお〉虹の先っぽを握るほどの小ささ、虹の儚さと指の未完成さとの共鳴がある。

 

詩の鎖鑰点

  • 詩は戦争である。
  • 作詩目標を達成するために作詩計画を立案し、複数の作詩技術を組み合わせる。
  • 作詩技術の組み合わせが適切となってはじめて作詩目標を達成しうる詩が綴られる。
  • 作詩目標が曖昧なら詩の効果は曖昧になる。
  • 作詩技術が未熟でも作詩目標が明確なら伝わりはする。露骨な表現になってしまうが。
  • 数学者の言葉と思考を詩人は日常の言葉へ翻訳する。
  • 数学者の思考は、日常の文が為す外見では表現しきれない。
  • 改行や段落など詩の外見は詩の鎖鑰点となる。

俳句と川柳の違い

江戸川柳は「ひとごと」、俳句は「私たち」。つまり、川柳って「あいつらは」なんです。何故ならば、江戸川柳の根本というのは江戸にやってきた田舎者を馬鹿にするものだから。(略)「情緒」から出発して「知」に行く。「知」とは滑稽。「情」に流されると上手く行けば短歌になる。俳句は、情に流されまいとして「知」に走って「情」に戻って俳句になる。行きっぱなしだと川柳。(「秋尾敏主宰講評」『軸』第五十四巻第三号通巻第六三九号)

俳句と川柳の違いを論じるときによく引用されるのが〈だいこ引きだいこで道を教えけり/小林一茶〉と古川柳の〈ひん抜いただいこで道を教えられ〉である。一茶句の主語は「だいこ引」(あいつら)であり古川柳の主語は受身だから「(私たち)」となる。主語だけで見ると秋尾敏の説明は逆のようだ。

しかし実際は逆ではない。古川柳は蔑みを読み取れる。なぜなら「教えられ」のあとを省略して読みの焦点をことばの後方へ置いているからだ。その後方にあるのは大根で道を教えられ、憮然とした「私」の顔の滑稽さだろう。顔の表情には価値判断があり、その価値判断はきっと大根引の「ひん抜いた」調の横着さへの蔑みである。まさに「あいつらは」であるし、省略を使い余白の読みを促す手法は「知」に走っている。一方で一茶句は「けり」と言い切って価値判断を保留し、「知」へ走らず「情」へ戻っている。そして読みを「私」の価値判断の保留について共感させる方へ促して、句の中心を「私たち」へ引き戻している。主語や季語や切れ字など形として何が書かれているかではなく、読みを「あいつらは」それとも「私たち」、「価値判断」それとも「価値判断の保留」のどちらへ促す言葉遣いかで俳句と川柳は区分される。