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だから、若者たちが、定職を持たなくとも、何とか、生計をたてていくことができたのは、時、まさに、高度経済成長期だったからに他ならない。(風間研『小劇場の風景』中公新書)
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日本ではまだ、演出という概念が人びとの間に浸透していないから誤解している人は多いが、本来、演劇とは、時代と社会というコンテクストのなかでこそ語られるべきだろう。(風間研『小劇場の風景』中公新書)
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こうなると、これは、現実の自分とは違ったもう一人の自分といった、変身願望の代償行為としての演劇に近いものということになるだろう。(風間研『小劇場の風景』中公新書)
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俳優は、台詞を与えられると、どうしてもその台詞をうまく言おうとして、台詞に意識が集中しがちになり、力が入ってしまいます。その台詞に集中しがちな意識を、様々な負荷をかけることによって分散させていこうというのが、私の台詞に対する考え方です。(平田オリザ『演技と演出』講談社現代新書)
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「間をとる手前は、コンパクトにする」(平田オリザ『演技と演出』講談社現代新書)
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私が提唱してきた現代口語演劇は、複雑なものを、複雑なままに、全体の解像度を高めていく新しい方法論です。(平田オリザ『演技と演出』講談社現代新書)
- 「この人には虚言癖がある」という先入観があると、これを疑ってしまえる。【リンク先は閲覧注意】
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足の調子がよくないという鳥居さんは、主催者の勧めで椅子に座って聞いていたが、やがて感極まったのか、立ち上がって祝辞に耳を傾けた。(セーラー服の歌人・鳥居 授賞式で涙こらえ「私は短歌が一生好きです」)
- ↑ライターの人、何かを意図して書いたとも読める。
- 言えることは、鳥居女史は戦略的に賢いということだけだ。
- 自分のからだは自分のもの、私のからだは私のもの my body is mine.。
- 自分のからだの範囲はどこまでだろう。
- 自分の意志で動く範囲がからだなら自分の心臓など不随意筋でうごく部分は自分のからだではない。逆に自分の声で反応するたとえば他人の心臓は自分のからだと言える。
- また物理的に傷つけられたとき痛みを感じる範囲が自分のからだなら、共感してくれて痛みを感じる他人のからだも自分のからだだ。
- 感覚のあった範囲が自分のからだならば、服はもちろん髪や角質は自分のからだではない。
- 自分のからだと他者のからだに明確な線をひきたがる人は自国と外国のあいだに明確な国境線をひきたがる。
- 都市国家の曖昧な境界と曖昧な身体。領域国家の成立と自己身体の確立。
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六〇年代の小劇場運動の背景に、濃淡の差はあっても、かなり普遍的にこうした「闘争体験」があったことは注目していい。ことにそれが、六〇年安保闘争をきっかけに、日本共産党などの既成革新政党とは絶縁して、新しい急進的な前衛組織を作ろうとした新左翼のグループが登場した時期の闘争体験だったことは重要である。(扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書)
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彼らが新劇の大手劇団に入ろうとはせず、苦しくても自前の小劇団を結成した動きは、時代の動向としては、新左翼の諸党派の動きと確実に並行していた。(扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書)
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現代演劇は人間をもっぱら社会的存在としてとらえ、その葛藤を描いてきたが、太田は枠組みをさらに大きくし、自然や宇宙の中にある「生命存在」として人間を重視する。自然や宇宙の視点をもつ以上、そのテンポは私たちの日常のテンポを大きく超えたものにならざるをえない。(扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書)
- ↑太田省吾
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寺山によれば、演劇は演劇でなくなることによって、変革されなければならなかったのだ。(扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書)
- ↑寺山修司、天井桟敷
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野田秀樹のドラマの根本にあるものは何か。/それは人類や歴史が進化し、分化するはるか以前の、すべてが無垢でしあわせな一体感のうちにまどろんでいた始原の状態にさかのぼろうという衝撃と情熱である。(扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書)