以太以外

国は夜ずっと流れているプール 以太

ストア派における感情について

人間が抱くすべての感情は同意に因る、というのがストア派の見解だ。印刷教材『西洋哲学の起源』にはストア派の「理性と感情」について

怒りの感情とは「自分が不正な仕打ちを受けている」という(誤った)認識に他ならない。その意味で感情は理性と対立する別物ではなく、一元的な理性のうちの,ある特殊な(逸脱した)状態」といえよう。

と書いてある。これはクリュシッポスの規定に基づく考えだ。ここでの理性はストア派の著者の違いにより、判断・想定・臆見・主導的部分の状態などとも書かれる。

一方でゼノンは感情を「判断につづいて生じて来る圧縮と拡散」だと考え、感情をある種の判断そのものとするクリュシッポスの規定と一見すると異なっているような見方を示す。別の形態をとる同質なものか、分かれて続いて起こるものかの違いだ。ゼノン説は愛する人の死に接したとき、死んだという判断とつづいて生じる心的動揺をひとまず別の事態と考える。ゼノン説はキケロ説の「すべての感情は判断 judicium と思いなし opinio から生じる」の判断と思いなしの別を説明するものでもある。

実は一見するとゼノン説と異なっているかのようなクリュシッポス説もゼノン説やキケロ説と同じように判断を「衝動と同意を意味するものとして名づけられた」と分けて述べる。セネカもこう述べている。

すべての生きものは、たとい理性をもっていても、まず何かあるものの表象 specie に刺激され、次に衝動 impetus を受けとり、最後に同意 adsensio を承認するという、以上の過程がなければ、何かを為すことはできません。

つまりクリュシッポスもゼノンもセネカキケロも、およそストア派の著者は同じことを述べている。ストア派にとって感情とは、人の外側にあることばやできごとのような表象を受けとった人がその表象を思いなしたり同意したりしてはじめて完成するものだ、と。

さらにクリュシッポスは次のような主張を述べる。

ふさわしい表象が生じるときは、〔その表象に〕許しを与え同意することがなくとも、ただちに衝動が起こってくる、と考える人たちは虚偽を述べ、空虚な仮説を語る者であること

しかし表象によって強制的・半強制的に感情を抱かざるをえなくなるような、不本意な同意もあるのではと私は考えてしまう。

ゼノンは同意を本意からのもの voluntariam であり、われわれの力のうちに nostra in potestate あるものとする。だからこそ悲しみや怒りといった負の感情は自分自身の誤った思いなしや間違った同意によるものなので事実として存在しないので除去できるし、悲しむべきや怒るべきという感情を当然で正しいという思いなしや同意もこれを理性の力で除去することができる。

【参考文献】