- 保存の効く農作物の余剰が文字・債務・通貨・国家・官僚制・軍隊・宗教を作ったとするなら、大和朝廷が戦った諏訪の勢力はいかなる種の勢力で、どんな信仰を持っていたというのか。
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「姥ヶ浴」というのは、子どものない家の女性が村人にお詫びとして竹を植えたところである。已然は子どもを生まない家が三軒出てくると、村が滅びると言ったものであるという。(谷川健一『日本の地名』岩波新書)
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信濃の大河原は山国であったが、宗良親王の長期間の籠居を可能にしたものは、ひとえに鹿塩の井戸の塩水のおかげであった。(谷川健一『日本の地名』岩波新書)
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地名の改竄は歴史の改竄につながる。(谷川健一『日本の地名』岩波新書)
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人間は人間だけではやってゆけない。人間には神が要る。その神とは教義も教典も教会も教祖も不要な神であるが、その神の具現である自然が要る。神と自然への畏敬を失ったことが現代日本の精神の荒廃を招いた。(谷川健一『日本の神々』岩波新書)
- hermeneutica Godzilla ゴジラ解釈学、ゴジラは大東亜戦争南方戦線における死者の集合体という解釈もあるのか。
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他者を巻き込むための攻撃性が、アグレッシブということだ。そして、その根っこにある攻撃性を忠実に残している文化的営為が「笑う」ということだ(山内志朗『目的なき人生を生きる』角川新書)
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表向き権力嫌いの人、実は権力好きの人が、小さな権力の設定の場面でイライラするのは、権力の小さな落差であっても、そこを敏感に感じとり、自分の序列が正当に承認されているのかを気にするからである。(山内志朗『目的なき人生を生きる』角川新書)
- ↑短歌や俳句など短詩系新人賞の場面でも、選者という権力を嫌うけれど実は権力好きな人がイライラしている。
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言葉を使うということは、不動の大地から離れ、海を漂流することに似ている。言葉とは世界そのものをありのままに表現する道具ではない。(山内志朗『目的なき人生を生きる』角川新書)
- 存在である限りの存在 ens inquantum ens/祭りの後 post festum
- amo: ut sis.
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ともかくもスピノザは目的論を憎む。(山内志朗『目的なき人生を生きる』角川新書)
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アリストテレスは目的論を語る。目的は「愛される者の如く」自ら動くことなく、ほかの様々なものを動かす。(山内志朗『目的なき人生を生きる』角川新書)
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天使の言語においてさえも、言葉は心の内にあるメッセージを他者に移送する乗り物ではない。意志が不透明性の起源としてあり、外に現れることが同時に個体化であって、出自の姿を変様させることは、天使言語論の要点となる。(山内志朗『天使の記号学』岩波書店)
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言葉は常に語り手を裏切る。これは表現という行為の避けられない特質だ。表現(expression)行為は、確かに、自分の内面にあるものを外側に押し出す行為だ。しかし、外にだされた途端、表現されたものは、取り戻すことのできない、そして自分では制御することのできない出来事として、表現者を裏切る。(山内志朗『天使の記号学』岩波書店)
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言語は世界に傷をつけずにはおかないのであり、自分にも他者にも世界にも傷をつけない言語、世界を上空飛翔する言語、世界から逃避しようとする言語は言語たりえない。だからこそ、自分をも他人をも傷つけないとおもって語った言葉が、自分をも他人をも癒しがたいまでに傷つけるということが起こる。(山内志朗『天使の記号学』岩波書店)
- →祈り、呪い。
- forma dat esse rei 形相は事物に存在を与える。
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心の病が惑星全体に行き渡ってしまった。凡庸化という病だ。誰もが製品と快適な生活のとりこになっている。(アンテルナシオナル・シチュアシオニスト第1号)
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転用*1とは、《大文化》が、今日の現実の遊びに支配された文盲状態によって破壊される前の、最後の演劇的表現、その断末魔の身震いであると同時に、二流品によって無駄もの扱いされた質を欠いた事物の使用のなかで、《大文化》が嘲弄の種として片づけられてしまう先駆けでもあることになる。(ジャン=フランソワ・ロジェ、木下誠訳「歴史の思考の最期 ――ギー・ドゥボールとシチュアシオニストの映画」)