以太以外

蒼褪めた巨漢は笑う水澄んで 以太

千種創一『千夜曳獏』青磁社

また景色を見たくて『千夜曳獏』を読む。〈でもそれが始まりだった。檸檬水、コップは水の鱗をまとい/千種創一〉「水の鱗」は想像への衣として。〈あらすじに全てが書いてあるような雨の林を小走りでゆく/千種創一〉一が千であり千が一となるような、連続としての雨の林を思う、その果てしない寂しさも、思う。〈外は嵐。水族館のくらがりにあなたは雨垂れみたいに喋る/千種創一〉嵐、雨の水族館という無人島みたいな場所で、喋り続ける。〈夏の夜の底だね、ここは、鉄柵を指でしゃららと鳴らしつつゆく/千種創一〉夏の夜の、名前のない場所の淡い記憶として。〈そんなつもりじゃないんだろうな牛乳のパックに描かれた空に触って/千種創一〉ファミリーマートで売られている牛乳パックの青空とかを思う。間違って貼られた画像のような。〈夕暮れのような暗さのアパートの、あなたは脱衣所を褒める/千種創一〉不動産短歌、昭和を愛する人のための脱衣所が穿たれている。たぶん陶器のタイルとか貼られている。〈冬至より夏至は慈しみが深い スプーンにスプーンを重ねて蔵う/千種創一〉「スプーンにスプーンを重ねて」の丁寧さは〈曖昧のなかにひそんだ愛が好き 箸で海苔から海苔をめくった/千種創一〉にも現れている。〈充足を愛してはだめ したあとで床に濡れている花の髪留め/千種創一〉「充足」も何かの性器のように濡れている。〈飲みさしのシードル二本 悪魔だって悪魔に会えると嬉しいんだよ/千種創一〉死神は林檎が好きだというけれど。〈暗くして冷やせば部屋は真夏からとても遠くに来ちゃった、僕ら/千種創一〉夜のよく冷房の効いた部屋は宇宙船のように飛行してゆく。〈もう会えないという事実がこうこうとネオンのように光る木屋町/千種創一〉京都の別れの灯りは高瀬川の水面に映る。〈感情があなたへ流れていくときの中洲に鷺は立ち尽くすのみ/千種創一〉津波のような激しさに立ち尽くすのみの、僕の分身としての鷺。〈筆を折った人たちだけでベランダの季節外れの花火がしたい/千種創一〉磨き尽くし、そして出し尽くし、ついには枯れ尽くした人たちの「季節外れの」酔狂として花火、そこはギラギラしたものがなくて黄昏ていて良いのだろう。擱筆家たちの楽園のような、老人ホームのような。〈汐風から塩を取り出すようにしてあなたは語る遊郭のこと/千種創一〉その遊郭資料はほとんど残っていない、赤線時代は砂のように吹き消された。断片をつなぎ合わせるように遊郭史を語る。それとも多くの男女がつかんだという階段の手すりについてはおおっぴらには話しにくくて。〈八日目の創造をしよう。水底に散らばる活字を拾い集めて/千種創一〉の景も〈飲み干せばペットボトルは透きとおる塔として秋、窓際に立つ/千種創一〉の景もキラキラと輝いている。