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身也者、親之枝也(礼記)
- ツァンパ、རྩམ་པ་、糌粑、麦焦がし、麨粉
- 大陸を渡った集団は数十人から百人くらい?
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たしかにわれわれの世界観は混濁しているが、「世界」は少しも曖昧ではない、もしその中で生きようとすれば(柄谷行人「私小説の両義性」『意味という病』講談社文芸文庫)
- tayutau magazineはZINEだ、という視点は納得がいく。
- 田町のZINE
- 自分の属する島宇宙が全宇宙だと思いこむことはよくある。
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サードプレイスは基本的にローカルであり、集まる人によって個性化し、人的ネットワークのハブになっていることです。(紫牟田伸子+編集部『クリエイティブ・コミュニティ・デザイン』フィルムアート社)
- ハブの権力
- いまはすでにネットワーク作りのためにサードプレイスを作っていいのか、場の権力を醸成してしまっていいのかを再考する段階にある。
- サードプレイスはネットワーク作りの弊害になるかも。
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ぼくたちの上に/円く切りぬかれた青空があった(「楽園」『続・入沢康夫詩集』思潮社)
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たとえば憎悪は他者意識である。志賀の「不快」には他者がいない。「不快」が先につきのぼってくるのだ。(柄谷行人「私小説の両義性」『意味という病』講談社文芸文庫)
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傲慢というのは自分の用意したもの、自分の理解しうるものの領域の外に一歩も出ないということである。(柄谷行人「人間的なもの」『意味という病』講談社文芸文庫)
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たんに"平常な"場所にわれわれが降りてきたということである。しかも、そらはどんな時代でも、本当にものを考える人間が降りていった場所である。(柄谷行人「平常な場所での文学」『意味という病』講談社文芸文庫)
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同じ平面にいる異質な他者をみようとしない。またそれは「政治」そのものをみようとしない。自分がおり、それをさまたげる異質な他者がいるという、根本的な生の条件をみようとしない。(柄谷行人「平常な場での文学」『意味という病』講談社文芸文庫)
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つかんだものの性質ではなく、ものをつかん深浅だけがみえてくる。時代が変わるということが作品におよぼす作用の真の恐ろしさは、そういうところである。(柄谷行人「平常な場での文学」『意味という病』講談社文芸文庫)
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つかんだものの性質は、戦争であれ革命であれ女の足であれ、意味をもたない。つかむというより、むしろそれにつかまれた人間の窮極的な姿だけが、のっぴけならないものとして、映じてくるのである。(柄谷行人「平常な場での文学」『意味という病』講談社文芸文庫)
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鷗外の歴史小説は各所で右のような異和感をわれわれに与える。鷗外は世界は不条理だといっているのだろうか。そうではない。ただ世界は在るがままに在るといっているのだ。(柄谷行人「歴史と必然」『意味という病』講談社文芸文庫)
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われわれのどんな行動も自律的であるか他律的であるかの明瞭な区別はつかない。たとえば自殺は意志によると同時に生きる意欲を奪われたためでもある。われわれは截然とそれを区別しえないのである。(柄谷行人「歴史と必然」『意味という病』講談社文芸文庫)
- ハーマン・メルヴィルと森鴎外、中動態とマルクス主義
- 「組織だから〜」というとき、それは「〜だから盲目に従え」なのか「〜だから代案を提出しろ」なのかは組織により違う。
- 資本主義と社会主義(そのさきの共産主義)という対立はもうなくて、あるのは個人に完全な自由意志と責任があると考えるデカルト主義と個人には不完全な自由意志があり責任を問えないとするスピノザ主義である。
- もちろん歴史の必然を謂うマルクス主義はスピノザ主義の続篇である。
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海の見える階段は/白い腕のようだ(「古い夏の絵はがき」『続・入沢康夫詩集』思潮社)
- 言語化は伝わらない方がいい。
- マルチチュードは群衆というより有象無象かも
- 浜松市の文化に必要なのはサードプレイスではなくアジール?
- ジャン=フランソワ・ロジェ、歴史の思考の最期――ギー・ドゥボールとシチュアシオニストの映画
- みらいらん、Herb Port of Poets
- 洪水企画~漂流記録~
