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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

野村日魚子『百年後嵐のように恋がしたいとあなたは言い実際嵐になったすべてがこわれわたしたちはそれを見た』ナナロク社

あまりにも独特すぎる調べはそれぞれの読み手に自分だけの内在律かもと錯覚させる。〈四番目に来た男の靴が濡れていて雨に飛び降りた人だと思う/野村日魚子〉どこの、何の列だよ。服が濡れていないのは靴を脱いだからか。〈生きてると死んだの間に引く線のあまりにぐにゃぐにゃであることを話す/野村日魚子〉脳か心臓か腸か血液かで歪む境界線。曖昧だからこそ人は知りたがる。〈殺されて死ぬのだけはいや何万もの架空のみずうみとその火事/野村日魚子〉問いと答えの歌、湖の火事はありえないかもしれない。でもそのありえない架空の出来事を想像すると、それだけは嫌だと思える避けたい感情が水面に走る。それがトリガーだ。〈それはとても寂しいことだという あなたを知る天使はみな表面積の少なく/野村日魚子〉優等生的に理知でに世界をとらえようとする措辞、この「表面積の少なく」は。もちろんその把握は自らをも絡め取ろうとする。ただ、天使は幾何学的な存在ではあるけれど。同じ理知の傾向は〈雪が四角ではないのとおなじように死んではいないのだあなたも/野村日魚子〉にも見られる。〈屋上へ向かうとき少しずつ地上がはなれても羽は生えていないこと/野村日魚子〉日常から抽出された発見である。〈犬小屋が燃えてるそばできみはうつくしい月の生活を話す/野村日魚子〉くりかえされる火事のモチーフ、グチャグチャの乱れと平穏な美しさの対比、あるいは落差か。〈ぼくはまだ死にたくはない前髪の雪をはたいてゆく青信号/野村日魚子〉赤信号が雪のなかにちらつく。すぐに信号機は変わってしまうと知っているから、しかし変わるのがいつなのかは分からないということも、知っている。〈幽霊が出てくる映画 主人公は幽霊で 家族も友人もみな幽霊だった おれは席を立ち映画館を出た/野村日魚子〉観客も幽霊だったから。〈記憶の中の人間が好きだ 記憶の中の人間はわたしにさわれない/野村日魚子〉人間は会ったその瞬間から記憶の中の人間になる。ひとは誰と対面していても自分の記憶の中の人間としか話せない。それでも?