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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』書肆侃侃房

〈土くれがにおう廊下の暗闇にドアノブことごとくかたつむり/佐藤弓生〉暗闇のなかのドアノブは、異世界と通じてぬらぬらと光るかたつむりのような冷たさと異物感とがある。〈泣き方を忘れた夜のこどもたち蛙みたいに裏返されて/佐藤弓生〉新生児室だろうか。〈引力の生まれたてなるうれしさに落ち葉は落ち葉のまわりをまわる/佐藤弓生〉枝から切り離されたとき、自由という引力を得る落ち葉よ。〈されこうべひとつをのこし月面の静の海にしずかなる椅子/佐藤弓生〉拡張人類滅亡後の月面の静寂がうつくしい。さびしくなんかないよと椅子が言う。〈なきひとに会いにゆく旅ナトリウムランプのあかりちぎれちぎれて/佐藤弓生〉ちぎれそうなのは風で動くから。旅は動く動く。〈新聞受けに新聞なくて惑星の昼ひそやかに藍色のドア/佐藤弓生〉新聞という世事を報せる道具が来ない扉は、藍色に冷たくて、世界から隔絶された空間へ繋がっていそうだ。別世界と隣り合わせの扉についての歌。〈地をたたく白杖の音しきりなり地中の水をたどるごとくに/佐藤弓生〉盲人の歩みに新たな意味を見出す。〈もう誰も月を覚えていないはるじおん咲きひめじょおん咲き/佐藤弓生〉印象的な一言めいたことばと写生の組み合わせ。〈曲がるたび月みえかくれするバスに耳たぶうすく透けゆく子ども/佐藤弓生〉色と質感の相似を楽しむ。〈詩を思うときのなずきいいにおい くちなしいろの月が上がった/佐藤弓生〉詩を思うときの脳のにおいと政治を考えるときの脳のにおいは同じか、それとも違うのか。私は同じ、焦げるようなにおいがすると思う。〈いつもより月が大きい 紙芝居みたいな生を生きおおせたい/佐藤弓生〉月を大きく感じる心持ちが、いつもより作りごとめいた夜の世界をはじまる。〈捨てられた子どもがつどう港あり月のいちばんあかるいところ/佐藤弓生〉港の倉庫とかに集めら……、いや集まっているこどもたち。埠頭でなにして暇をつぶすのか。

月は死の栓だったのだ抜かれたらもういくらでも歌がうたえる 佐藤弓生