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いま住んでいる地域を都市と考えるか、小都市と考えるか、あるいは農村と考えるかは自分次第ということだ。(小松理虔『新地方論』光文社新書)
- 地方文芸賞の受賞式へ旅行して詩歌の話をして地元のスーパーマーケットで買い物をして一時的市民になりたい。
- ブラジルのとうもろこしクスクスしか売っていない浜松市よ。
- mi pensis, ke maiza kuskuzo el Brazilo estas iomete diferenca de kuskuso el Magrebo.
- クスクスは蒸すだけなので蓋のある容器と湯さえあれば食べられる食材、キャンプ向き。
- 他人のtweetなんて誰も読めていないのだから日本語以外で書いて問題はない。
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それは我々が複雑な原因の連鎖については無知であって、身体の変状の結果だけを意識しているからだ。意識される結果は意志という単一的な力であるため、行為が一元的に決定されているかのように感じるのである。(國分功一郎『スピノザ』岩波新書)
- →相互依存して依存先を増やすことで自立する話と繋がる。
- 存在するだけで同質性の高い集団のパワーバランスが崩れるから嫌われてしまう人、いるよね。
- 呼びようのなかったものに名を与えるのが詩人の仕事だ。
- poeto nomas tion, kiu ne havas nomon. kaj hajkisto denove nomas tion. kiu havas nomon.
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無から有、有から無への途上にある時、我々は何をなすべきか。(マツダ・イチロウ「ごあいさつ」『樂土の森アートプロジェクトの25年』樂土舎/樂土の森アートプロジェクト)
- 東風明朝、その補正としてのさざなみ明朝
- igoku
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とりわけ、同質性が強く働く地方においては、書店とは「都市」を起動する場だったのではないのか。(小松理虔『新地方論』光文社新書)
- 積読はエスペラントでlegotaj librojではなくlegutaj librojだろう。
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さて、スピノザの言う能動を最も簡便な形で示すならば、それは、自らが自らの行為の原因になっているということである。(國分功一郎『スピノザ』岩波新書)
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人がねたみの感情を抱くのは、自分と能力において同等であるはずと思っていた相手が、自分を上回る能力を発揮したり、自分には成し遂げられない成果を残した時である。(國分功一郎『スピノザ』岩波新書)
- →俳句や短歌の新人賞結果発表後を観察すればその現場を見られる。
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能動性と受動性もまた「程度gradus」において捉えられなければならない。(國分功一郎『スピノザ』岩波新書)