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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

池田澄子『此処』朔出版

毎朝毎夕兜虫の雄か雌かと鉢合わせる日々に池田澄子『此処』を読む。〈花冷えのこころが体を嫌がるの/池田澄子〉では気温の低下による鬱気な心を主体とさせ、〈花ふぶき体がこころを捨てたがる/池田澄子〉では風が体を主体とさせる。〈満潮の河の厚みと百千鳥/池田澄子〉「満潮の河の厚み」が生き物めく、その懐に百千鳥はひそむし、囀はその厚みに含まれる。〈蓬莱やプラスチックは腐らない/池田澄子〉正月の蓬莱飾りもプラスチック製に。もし海に流れたらどうなるのか。〈窓越しの木々に風立つ水饅頭/池田澄子〉窓や風の透け感と水饅頭の透け感の共鳴だろう。〈藤重く垂れて心の端に触れる/池田澄子〉心の端はどこまでか、毛先か頬か。〈羽蟻の夜そう読めば遺書ともとれる/池田澄子〉解釈の違いですね。〈老いし竹の倒れ凭れも竹の春/池田澄子〉「倒れ凭れ」が枯木も山のにぎわいっぽくて楽しそう、竹の春だし。秋でも字面が「竹の春」だから楽しくていい。〈散る木の葉この世に入ってくるように/池田澄子〉コノのリフレイン、木の葉はあの世に生えていた。〈食卓はなんでも置けて去年今年/池田澄子〉なんでも置けてなかなか下ろせない。そのまま年を越す。〈花ふぶき地に着かぬよう着かぬよう/池田澄子〉いずれは着くまでの時間を拡張している。〈どしゃ降りの夜や金魚が藻に凭れ/池田澄子〉どしゃ降りで疲れているのは人だが、人の疲労感が金魚に投影されている。

石段に水溜りあり山法師 池田澄子