以太以外

辷り台に脚を忘れた虫の闇 以太

渡辺松男『寒気氾濫』書肆侃侃房

〈約束のことごとく葉を落とし終え樹は重心を地下に還せり/渡辺松男〉落葉で樹の重心が変わるという発想が哀しくも冬めく。〈アリョーシャよ 黙って突っ立っていると万の戦ぎの樹に劣るのだ/渡辺松男〉人が木より勝るとしたら話し動くがゆえに。〈捨てられし自動車が野にさびていて地球時間に浸りていたり/渡辺松男〉投棄された自転車に「猿の惑星」感が出ている。〈樹は内に一千年後の樹を感じくすぐったくてならない春ぞ/渡辺松男〉芽吹きの感じを一千年後の樹と喩える驚き、〈春さむき大空へ太き根のごとく公孫樹の一枝一枝のちから/渡辺松男〉も芽吹きの感じがある。〈残業を終えるやいなや逃亡の火のごとく去るクルマの尾灯/渡辺松男〉終業後の尾灯ほど活き活きしている赤はない。〈君の乳房やや小さきの弾むときかなたで麦の刈り取り進む/渡辺松男〉そして、豊饒へ。〈絶叫をだれにも聞いてもらえずにビールの瓶の中にいる男/渡辺松男〉ビール瓶を一本開けて幻を思うとき。