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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

淮陰侯列伝

精読の参考にしているのは新釈漢文体系の『史記』「淮陰侯列傳」(明治書院)です。

布衣時代

淮陰

淮陰侯韓信者、淮陰人也。

  • 「淮陰」は地名で淮水という川の南の地方、今の江蘇省清江市あたりとされている。川の場合は山を基軸にした山陽・山陰と南北が逆になる。だから洛陽は洛水という川の南。淮水、今の淮河黄河と長江の間を流れ、淮河の北は華北で小麦などの畑作地帯、淮河の南は華中で稲作地帯となる。淮陰は戦国時代においてほとんど楚国の支配下にあった。
  • 構造助詞「者」この者は名詞句のあとにあるので「トイウ」「ナル」を補読し読み手に紹介するニュアンスがある。蛇足として、タイトルが「黥布列伝」のように名前そのままの「韓信列伝」ではなく称号を使った「淮陰侯列伝」なのは史記には他に「韓信盧綰列伝」があるから。歴史上はこの淮陰侯であった韓信の方が有名だけれど、もう一人の韓信戦国七雄のひとつ韓の王族で漢王劉邦から韓王に封じられた韓王信、いわゆる正統な韓信だから淮陰侯の韓信はタイトルを譲った形になる。

布衣

始爲布衣時、貧無行、不得推擇爲吏。

  • 「爲」主語が何であるかを判断する「タリ」。英語のbe動詞みたいな使い方。
  • 「布衣」布は麻織物で、麻織物を着るような無位無官の庶民という意味。史記の廉頗藺相如列伝にも「布衣之交尚不相欺、況大國乎」とあり布衣は庶民のことを指す一般的な語彙のようだ。また衣料全体を布帛と言うように、高級な衣料には絹織物の帛がある。綿織物は唐宋以降なのでまだ一般的ではない。それと項羽本紀には「富貴不歸故鄉、如衣繡夜行」とあり、繡が富貴の象徴として挙げられている。日本で言う「故郷に錦を飾る」の錦だ。
  • 「貧無行」の「行」は行い、さらにそれだけで品行、道徳の決まりにはずれないように行動することという意味がある。庶民時代の韓信は貧しくて行いに節操がなかったらしい。ただ、どうやら若き日の韓信は例の事件のようにヤンキーにからまれやすいタイプの人間だったようなので、単に争いに巻き込まれ周囲に勘違いされていただけなのかも。
  • 「不得」この得ずは爲吏から返り、「推擇され吏と爲ることを得ず」と訓読する。ちなみに推擇は文脈から受動の意味になっている。
  • 「吏」役人。韓信が吏に推擇(推薦)されなかった理由が無行だけなら、秦代には布衣で貧しくても品行方正なら推擇され秦の郡県制を支える吏に登用される制度があったようだ。漢代の郷挙里選と似ている。ただ貧が推擇されなかった理由に加わると賄賂なども想像させる。少なくとも韓信は吏となれるくらいは字の読み書きができたのだろう。

ニート

不能治生商賈、常從人寄食飲。

  • 「又」副詞マタ。さらに、そのうえ。吏となれないうえに。
  • 不能」能力的可能を表す助動詞「能」。「不得推擇爲吏(又)不能治生商賈」は又を挟んで『否定辞「不」+助動詞+四字の主たる内容』の対句。になっているのかも。
  • 「治生」暮らしの手段を立てる。この能力が韓信にはなかった。
  • 「商賈」さらに韓信は商売もできなかった。「商」は行商、「賈」は店を出して商売すること、と区別されている。言葉巧みに何か商売できるような器用さは韓信になかったようだ。公務員にもなれず民間の商売もうまくいかない、さながら現代のニートである。
  • 「寄」たよりにする。いつも人に従って食べること飲むことをその人頼みにしていた。寄生虫である。韓信って現代の基準からするとダメ人間でニートっぽい。

逆ギレ

人多厭之者、常數從其下鄉南昌亭長寄食。數月、亭長妻患之、乃晨炊蓐食。食時信往、不爲具食。信亦知其意、怒竟絕去。

  • 「人多厭之」之は目的語を担う三人称代詞で韓信あるいは前の文「常從人寄食飲」を指す。
  • 「者」この者が従属節に付けられると「〜の時は」という意味になる。者だからといって人だけを表すのではない、モノもコトも表すのが者。人がみな韓信の居候を嫌がる時には〜。
  • 「常數」の「數」は繰り返して「しばしば」と読む。
  • 「亭長」秦漢代に十里(十の村)に置かれた亭の治安維持や宿場管理をした吏。ちなみに十亭で郷であり南昌亭は下郷にあった。ちなみに劉邦も吏となった最初は泗上亭長に任じられた。人々から厄介払いされるといつもしばしば韓信は亭長のところに居候した。韓信も吏となる可能性があったのだから、この南昌亭長は韓信とは旧知の仲だったかもしれない。
  • 「患之」これを憎んだ、という意味。之が指すのは韓信か前の文。それにしても亭長の奥さん、数カ月もよく我慢した。
  • 「晨」夜明け、夜明けに飯を炊く。炊いたのは粟だろうか?
  • 「蓐」むしろを敷いた寝床。韓信は「食時」に赴く。だから早朝の韓信が来ないうちに食べてしまったのだろう。
  • 「爲」行為の原因を導く前置詞だが、目的語は省略されている。省略部分は「乃晨炊蓐食」を指す代詞。
  • 「具」そなえる、用意する。不爲具食、そのため食事の用意をしていなかった。
  • 「怒竟絶去」の「竟」はとうとう、最後には、のツイニ。「絶去」は絶交して去る。亭長の妻の意(考え)を知ると怒ってとうとう絶交して去った。数ヶ月お世話になった人に対し、ほとんど逆ギレである。

漂母

信釣於城下、諸母漂。有一母見信飢、飯信。竟漂數十日。信喜、謂漂母曰 吾必有以重報母。母怒曰、大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食、豈望報乎。

  • 「釣」居候先がなくなり亭長のところも絶去してしまった。食べ物がない、ならば魚を釣ればいいということで釣。しかし「信飢」から釣果はなかったのだろう。
  • 「諸母漂」母は老婦のこと。漂は布をさらし洗うことだが、「數十日」で終えているので洗濯というより麻織物か何かの織物を晒す工程かもしれない。綿や絮を晒すと訳する本もある。
  • 「飯信」の「飯」は動詞で食事を与える。一人の老婦が韓信の飢えるのを見て韓信に食事を与えた。漢文にはこのように名詞の動詞化が起こる。それにしても老婦キラーな韓信。もしかしたらこの老婦は戦国末の戦乱で息子を喪った人なのかもしれない。腹をすかせた韓信に息子の姿を重ね。
  • 「竟漂數十日」漂しを竟(終)えるまで数十日。なので洗濯ではなく麻織物か何かの晒しの工程と見たほうがいいだろうと前述。
  • 「吾必有以重報母」韓信の言葉、「以」以下はお返しをする理由が省略されている。数十日食事を与えられたことが省略されている。「僕は必ずおばさんにたくさんお返しするよ」
  • 「大丈夫」古典日本語で言う「おおますらお」立派な男。ちなみに孟子は大丈夫をこう定義している。「居天下之廣居、立天下之正位、行天下之大道。得志與民由之、不得志獨行其道。富貴不能淫、貧賤不能移、威武不能屈。此之謂大丈夫」
  • 「王孫」王様の孫というよりここでは貴公子の意味。韓信の家柄は良かったのかもしれないけれど、布衣だったので王族というわけではないだろう。ここでは老婦が若者を呼ぶ「坊ちゃん」的な呼びかけ。
  • 「而進食」の「進」は差し出す。それで食べ物を差し出した。
  • 「豈望報乎」の「豈〜乎」は典型的な反語。どうしてお返しなんて望みましょう(望まないよ)。傑物な漂母である。

股くぐり

淮陰屠中少年、有侮信者、曰若雖長大好帶刀劍中情怯耳。眾辱之曰、信能死刺我、不能死出我袴下。於是信孰視之、俛出袴下蒲伏、一市人皆笑信。

  • 「屠中」屠殺業者の仲間。
  • 「有侮信者」信(韓信)を侮る者あり。
  • 「若雖長大」若は二人称「おまえ」。おまえは背が高く図体がでかく刀剣を帯びるのを好んでいるけれど〜。
  • 「中情怯耳」中情は心の中、耳は「のみ」。心の中は臆病者に過ぎない。
  • 「信能死」の「死」は自分が死ぬのではなく、相手を死なす。韓信おまえが殺せるなら、俺を刺せ。
  • 「出我袴下」俺の袴の下から出よ。いわゆる股くぐりせよ。
  • 「孰視」孰は熟に同じ。細密にじっくり見る。
  • 「俛出袴下蒲伏」俛は身をかがめる、蒲伏は腹ばいになる。これで「股くぐりの韓信」となった。ちなみに亭長も漂母も屠中少年も淮陰侯列伝に再登場するはず。いつになるか分からないけど。

従軍時代

項軍

及項梁渡淮、信杖劍從之、居戲下、無所知名。項梁敗、又屬項羽、羽以為郎中。數以策干項羽、羽不用。

  • 「項梁」項羽の叔父。
  • 「渡淮」項梁は秦始皇帝本紀に「項梁舉兵會稽郡」とあるように春秋時代の呉の故地のあたりで會稽郡守であった殷通を殺して挙兵した。そして項梁の叛乱軍が江水(長江)を渡り、淮水を渡り東楚から西楚へ進出しようとした時に〜。「及」は時間の到達を示す。
  • 「杖劍」杖は動詞で杖つく。剣を杖つく。この韓信はさながら神話の登場人物(ヤマトタケルとか)のようである。
  • 「居戲下、無所知名」戲は軍の指揮のための大旗。麾と同じ。項梁麾下にいた時は(韓信は)名を知られなかった。
  • 「郎中」役職名。警護役か。
  • 「數以策干項羽、羽不用」しばしば策を以て項羽に干(おか)す。ちなみに干(おか)すは会見を願うこと。項羽に会見しようとは韓信、大した肝っ玉である。でも項羽韓信もその策も用いなかった。項羽は策で戦局をどうこうする武将ではないから韓信が用いられなかったのも当然だろう。しかしこの項羽の「不用」がのちの漢楚の戦いを決することになる。

連敖

漢王之入蜀、信亡楚歸漢、未得知名。為連敖、坐法當斬。其輩十三人皆已斬、次至信。信乃仰視、適見滕公曰、上不欲就天下乎、何為斬壯士。滕公奇其言、壯其貌、釋而不斬。與語大說之、言於上。

  • 「漢王之入蜀」漢王は劉邦のこと。劉邦が秦の帝都咸陽を陥れた功績として項羽からもらった領地は漢中と巴蜀だった。漢王が蜀に入ったとき。ちなみにのちの三国志劉備も入蜀し漢を再興する。
  • 「信亡楚歸漢、未得知名」韓信は楚の項羽のもとから亡げて漢の劉邦に帰属する。未は再読文字で「いまだ〜ず」まだ名を知られるようになっていなかった。
  • 「連敖」連尹と同じか。楚の弓矢の管理官とされる。接待係と訳されることが多い。
  • 「坐法當斬」秦は法家の商鞅や李斯の協力を得て作った法で中国を統一した。その影響が漢王の陣営でも見られる。「當」は再読文字「当」で、「斬」は無標の受動表現。法にふれて斬られることになった。
  • 「其輩十三人皆已斬」の「已」はすでに。その仲間十三人はみなすでに斬られた。
  • 「次至信」甲骨文字の「至」は矢の甲骨文字を逆さにして下に板一枚を置いて板に到達した矢を表す。それが至るということ。次は韓信の順番になった。
  • 「適見滕公曰」の「適」はたまたま。滕公は夏侯嬰のこと。三国志夏侯惇夏侯淵の祖先とされる。たまたま夏侯嬰を見て言うことには〜。
  • 「上不欲就天下乎、何為斬壯士」の「上」は劉邦の呼称。「乎」は疑問文末助詞。「何為」はナンスレゾ、理由を問う疑問代詞。劉邦さまは天下人になりたくないのですか。どうして(私のような)壮士を斬るのですか。
  • 「壯士」血気さかんな男。刺客列伝の「風蕭蕭兮易水寒、壯士一去兮不復」。
  • 「滕公奇其言」の「奇」は優れていると考えるという動詞化。夏侯嬰はその言葉を優れていると考えた。
  • 「壯其貌」の「壯」はそういう性質だと見なす動詞化。その顔つきを壮士だと見なした。
  • 「釋而不斬」の「釋」は釈放すること。十三人を処刑して一人を釈放するのは秦の厳格な法ではありえないこと。ここらへんに漢軍独自の気質がある。聖人君子の風。
  • 「與語大說之」の「與」はトモニ。「說」は悦と同じ、ヨロコブ。ともに語りこれを悦ぶ。韓信は項梁→項羽劉邦と仕える君を変え、処刑される寸前でやっと理解者・夏侯嬰と出会う。

国士無双

上拜以為治粟都尉。上未之奇也。信數與蕭何語、何奇之。至南鄭、諸將行道亡者數十人。信度何等已數言上、上不我用、即亡。何聞信亡、不及以聞。自追之。人有言上曰、丞相何亡。上大怒、如失左右手。居一二日、何來謁上。上且怒且喜、罵何曰、若亡、何也。何曰、臣不敢亡也。臣追亡者。上曰、若所追者誰。何曰、韓信也。上復罵曰、諸將亡者以十數、公無所追、追信詐也。何曰、諸將易得耳、至如信者、國士無雙。 - 「拜」任命する。

  • 「治粟都尉」韓信が就いた職で都尉は将に次ぐもの。当然、連敖よりは上の職となる。それと、この時代の主な兵糧は麦ではなく粟だったのだと分かる。
  • 「上未之奇也」都尉に任命したけれど劉邦韓信をまだ「奇」、優れているとは見なさなかった。
  • 「信數與蕭何語、何奇之」の「與」は英語のwithと同じ。蕭何は漢王の丞相(宰相・首相)で「何」とだけ書かれるので疑問助詞「何」と紛らわしい。韓信は蕭何としばしば語らって、蕭何はこれ(韓信)を優れていると見なした。
  • 「南鄭」は漢の王都。漢中盆地という僻地にある。
  • 「諸將行道亡者數十人」将軍らのうち南鄭への行軍中に亡げる者が数十人出た。
  • 「信度何等已數言上、上不我用、即亡」の「度」は忖度の度で、推し測る。韓信は蕭何がしばしば劉邦韓信のことを言ったのに劉邦が我(韓信)を用いないと思い込み、逃げた。現代社会の新入社員も重用されなければこれくらいの心意気で退職していいと思う。
  • 「何聞信亡、不及以聞。自追之」一回目の「聞」と二回目の「聞」は意味が違う。一回目は普通に聞くこと。二回目は劉邦に「聞」かせること。蕭何は韓信が逃げたと聞いて、劉邦に知らせず、自ら韓信を追った。日本の会社の人事部に必要な即断力。
  • 「人有言上曰、丞相何亡。上大怒、如失左右手」劉邦は蕭何が逃げたことを人から聞いて大いに怒り左右の手を失ったようになった。項羽だったらこうはならなかっただろう。部下の力で事態を乗り切る他ない劉邦ならではの表現。
  • 「居一二日、何來謁上」一、二日たって蕭何が劉邦に謁見した。韓信を連れ戻したのか?
  • 「上且怒且喜、罵何曰、若亡、何也」の「且〜且〜」は二つの共起もしくは連続する事柄を並列させる。この二つは矛盾する事柄が並べられることが多い。この文でも劉邦はかつ怒りかつ喜んだと矛盾している。劉邦は蕭何を罵って「おまえ(若)が逃げたのはどうして(何)か?」
  • 「何曰、臣不敢亡也。臣追亡者」の「不敢」は「どうしても……しない」の意味、ちなみに「敢不」は意味が違ってくる。私(臣)は逃げることなんてしません。逃げる者を追ったのです。
  • 「上曰、若所追者誰。何曰、韓信也」劉邦は言った「おまえが追った者は誰か?」蕭何は言った「韓信です」
  • 「上復罵曰、諸將亡者以十數、公無所追、追信詐也」蕭何への二人称が「若」から「公」と尊称になった。蕭何が逃げたわけではないと知ったから心境の変化だろうか。もしくは「若」部分と「公」部分とでは司馬遷は違う史料・伝承を出典とした可能性がある。「復」はマタ。劉邦はまた罵って言った「将軍たちは逃げること十数人、でもあなた(公)は追うことはなかった。韓信を追ったというのはいつわりだ」。先ほどの「諸將行道亡者數十人」との数(數十人)の違いは司馬遷が参にした史料・伝承が違うからかもしれない。この一文だけでも前漢における韓信伝承が複数あったことが分かる。
  • 「何曰、諸將易得耳、至如信者、國士無雙」の「易」は「〜しやすい」という助動詞。蕭何は言った「その将軍たちは獲得しやすい奴らです。しかし韓信のような者に至っては国士無双、また二人と獲得できない国士(人財)です」

拝大将

王必欲長王漢中、無所事信、必欲爭天下、非信無所與計事者、顧王策安所決耳。王曰、吾亦欲東耳、安能鬱鬱久居此乎。何曰、王計必欲東、能用信。信即留、不能用、信終亡耳。王曰、吾為公以為將。何曰、雖為將、信必不留。王曰、以為大將。何曰、幸甚。於是王欲召信拜之。何曰、王素慢無禮。今拜大將如呼小兒耳、此乃信所以去也。王必欲拜之、擇良日、齋戒、設壇場具禮、乃可耳。王許之。諸將皆喜、人人各自以為得大將。至拜大將、乃韓信也。一軍皆驚。

  • 「王必欲長王漢中」の「必」は仮定を表す条件節にあるのでモシ、「長」は長くという意味の副詞、王がもし長く漢中に「王」たらんと欲するなら。
  • 「無所事信」の「事」は仕えるの意味ではなく使役するの意味の動詞。韓信を使役することはありません。
  • 「必欲爭天下、非信無所與計事者」これも仮定を表す条件節。もし天下を争うことを欲するなら、韓信ではなくて與(トモ)に事を計る者はいません。
  • 「顧王策安所決耳」の「安」はイヅレノ。疑問形にすることで婉曲に決断を促している。
  • 「安能鬱鬱久居此乎」の「安能」はイヅクンゾヨク〜ンヤの反語。どうして鬱々と長く此(漢中)に居れようか、いや居れない。
  • 「吾為公以為將」「以為大將」劉邦韓信を将にしようとしたけれど、蕭何に「将では韓信は留まらない」と言われ大将にすると言った。蕭相國世家では「大將軍」とも表記される。
  • 「幸甚」たいへんありがたい。
  • 「王素慢無禮」、王にむかって「無礼」と言うのも凄い。ただ「今拜大將如呼小兒耳」、大将を任命するのに子供を呼びつけるようにするのみ、とは確かに「礼」がない。まだ漢は新興の国であり、官僚任命などの儀式が整っていないということが読み取れる。漢が礼を整える過程は劉敬叔孫通列伝における儒学者の活躍で読める。
  • 「王必欲拜之」の「必」はモシ。王がもし韓信を大将に任命したいのなら。
  • 「擇良日、齋戒、設壇場具禮、乃可耳」蕭何の進言する大将任命式はなかなか大がかりである。日取りを良くし斎戒した上で大将任命式の壇場を設ける。「具禮」が分かりにくいけれど、この礼は概念ではなく、礼物のことだろう。
  • 「諸將皆喜、人人各自以為得大將」ぬか喜びとはこのこと。
  • 「一軍皆驚」あの股くぐりの韓信が、連敖のとき処刑されるところを命拾いして、将でもない治粟都尉に過ぎない韓信が、なぜ大将に? という驚き。

韓信の計策

項羽の人となり

信拜禮畢、上坐。王曰、丞相數言將軍、將軍何以教寡人計策。信謝、因問王曰、今東鄉爭權天下、豈非項王邪。漢王曰、然。曰、大王自料勇悍仁彊孰與項王。漢王默然良久、曰、不如也。信再拜賀曰、惟、信亦為大王不如也。然臣嘗事之、請言項王之為人也。項王喑噁叱咤、千人皆廢。然不能任屬賢將、此特匹夫之勇耳。項王見人恭敬慈愛、言語嘔嘔、人有疾病、涕泣分食飲。至使人有功當封爵者、印刓敝、忍不能予、此所謂婦人之仁也。

  • 「將軍何以教寡人計策」の「寡人」は諸侯のへりくだった自称。ちなみに不幸のあるとき諸侯の自称は「孤」。「教(寡人)(計策)」で目的語が二つある〈教示〉の動目構造となっている。
  • 「今東鄉爭權天下」の「鄉」は向にも通じ、向かうという意味。「權」は人を支配し服従させる力。今東へ向かい権を天下に争う。
  • 「豈非項王邪」の「邪」は疑問文末助詞だが、相手に探りを入れるニュアンスがある。(天下を争うのは)項王ではないのですか?
  • 「漢王曰、然」の「然」は肯定。
  • 「大王自料勇悍仁彊孰與項王」の「料」はオシハカル。「A孰與B」はAトBニイズレゾ。Aが離れていてその位置に形容詞(勇悍仁彊)がありやや変則的。大王が自ら推し測るに、勇悍仁彊という基準では(大王と)項王とどちらが勝りますか?
  • 「漢王默然良久」の「良」は副詞でヤヤ。黙然たることやや久しく。
  • 「惟、信亦為大王不如也」の「惟」は唯にも通じる、感嘆詞ハイ。はい、私(韓信)もまた大王は項王に及ばないと思います。こんなことを王に言えるのが韓信の魅力でもある。
  • 「然臣嘗事之」の「然」は逆接の接続詞シカレドモ。
  • 「請言項王之為人也」の「為人」はひととなり。
  • 「項王喑噁叱咤、千人皆廢」の「喑噁」は「喑啞」とも書かれ障害で口がきけない様を指すが、ここでは叱咤と同じく怒鳴りつけること。もしかしたら喑噁は押し殺した静かな怒りで、叱咤は発散するための騒がしい怒りなのかもしれない。「廢」はひれ伏すこと。
  • 「此特匹夫之勇耳」の「特〜耳」はタダ〜ダケ。これは単なるつまらない男の勇ましさだけである。
  • 「言語嘔嘔」の「嘔」は胃の中のものを吐き出すことだが、ここでは言葉づかいが優しいさま。
  • 「印刓敝、忍不能予」の「刓」は玩にも通じもてあそぶ、「敝」は弊にも通じやぶれる、印璽をもてあそんでボロボロになる。「忍」は我慢する、忍びて予(あた)ふること能はず、は意味がとりにくいが、我慢しても印璽を予えることはできなかった、の意か。
  • 「此所謂婦人之仁也」フェミニズムが横行する現代ではなかなか言えない言葉、婦人の仁。仁は慈しみなどポジティブな意味を持つ言葉なのに「婦人之〜」と冠しただけでネガティブな意味になってしまう。

天下の情勢

項王雖霸天下而臣諸侯、不居關中而都彭城。有背義帝之約、而以親愛王諸侯、不平。諸侯之見項王遷逐義帝置江南、亦皆歸逐其主而自王善地。項王所過、無不殘滅者。天下多怨、百姓不親附、特劫於威彊耳。名雖為霸、實失天下心。故曰其彊易弱。今大王誠能反其道、任天下武勇、何所不誅。以天下城邑封功臣、何所不服。以義兵從思東歸之士、何所不散。

  • 「霸天下」霸は覇。先秦時代は王道から王を補佐する覇道、そして王を超える帝道へと移行した。項羽は義帝を補佐する霸者、西楚覇王(自称かどうかは疑問)である。
  • 「臣諸侯」諸侯を臣にす、諸侯を臣下とする。後に出てくる「王諸侯」諸侯を王たらしむや「自王善地」自ら善き地に王たり、などと同じ名詞の動詞化。ここでの諸侯とはかつての戦国七雄の国々やそれを継承する王たちのこと。
  • 「關中」、狭義では函谷関より西の地域で秦の故地。関中は咸陽を落した劉邦に与えられるはずだったが、三秦王に与えられた。劉邦は広義の関中(秦の故地という意味)である漢中に封じられた。
  • 「義帝」秦に捕らえられた楚懐王の孫。項梁・項羽など叛乱軍の名目上の君主となった。しかし秦打倒後は項羽により彭城から長沙に遷され九江王黥布らにより殺された。義帝の殺害後から各地で項羽に対する叛乱が勃発する。
  • 「百姓」は多くの人民の意。
  • 「特劫於威彊耳」の「特〜耳」は既出。前置詞「於」により「劫」はオビヤカサレと読み受動表現となる。単に威彊(脅威)によりおびやかされているだけ。
  • 「故曰其彊易弱」の其彊易弱は古いことわざ、彊(強)いものは弱くさせ易い。
  • 「何所(動詞)」が三回出てくる。それだけだと「どんな〜することがあろうか」。「何所不(動詞)」だと「〜できないことがあろうか」。
  • 「思東歸之士」、東へ帰りたい士卒たち。漢王の軍隊は逃亡者が多く、彼らは出身地である東方へ帰りたがっていた。この思東歸之士の帰巣本能を項羽討伐の原動力にしようと韓信は進言した。

弱点を衝く

韓信の献策は、①まず主敵でたる項羽の性質(匹夫之勇・婦人之仁)を分析して勝利は不可能ではないとやる気にさせ、②全体の情勢(名雖為霸、實失天下心)を把握して不可能どころか利はこちらにあると思わせ、③更にその上で攻略しやすい弱点(三秦)を指摘して現実的な第一手を想像させやすくしている。もちろん漢水・江水を下って直接楚を攻めても三秦王に空になった本拠地を衝かれたらひとたまりもないので三秦をまず攻めるほかないのは劉邦も分かっている。そこで韓信は三秦攻めの有効さを戦略的に明確にした。

且三秦王為秦將、將秦子弟數歲矣。所殺亡不可勝計。又欺其眾降諸侯。至新安、項王詐阬秦降卒二十餘萬、唯獨邯・欣・翳得脫。秦父兄怨此三人、痛入骨髓。今楚彊以威王此三人、秦民莫愛也。大王之入武關、秋豪無所害、除秦苛法、與秦民約法三章耳、秦民無不欲得大王王秦者。於諸侯之約、大王當王關中、關中民咸知之。大王失職入漢中、秦民無不恨者。今大王舉而東、三秦可傳檄而定也。於是漢王大喜、自以為得信晚。遂聽信計、部署諸將所擊。

  • 「三秦」とは雍王章邯・塞王司馬欣・翟王董翳。秦始皇帝により中国を統一した旧秦の地はこれら三王国と漢により四分割された。
  • 「將秦子弟數歲矣」の「矣」は変化の実現を強調する文末助詞。秦の子弟を率いること数歳(年)もたった。
  • 「所殺亡不可勝計」の「勝」は否定の副詞(ここでは「不」とともに用いて)アゲテと読む、全部・残らずの意味。殺し亡(うしな)ふ所あげて計(かぞ)ふべからず。殺した者は数えられないほどだ。
  • 「唯獨邯・欣・翳得脫」は「獨」なのに章邯・司馬欣・董翳と三人が挙げられている。こっそり・ひっそりこの三人が新安での虐殺の場から逃れたということだろう。
  • 「秦民無不欲得大王王秦者」は〈不欲得大王王秦者〉まで一括り。秦の民で大王(劉邦)を秦王にしたいと欲しない者はいない。
  • 「痛入骨髓」、恨み骨髄に入る。
  • 「秦民莫愛也」の「莫」はする人がいないという否定副詞。秦の民に三秦王を愛する人はいない。
  • 「大王之入武關」劉邦は武関から関中に入り、函谷関から入ろうとした項羽に先んじた。
  • 「秋豪無所害」の「秋豪」は秋毫とも書かれ、秋になって生えはじめた獣の細い毛。ほとんどないという比喩である。次に否定の表現が来てすこしも〜ない。
  • 「與秦民約法三章耳」苛法と対照的な法三章とは高祖本紀にある「殺人者死、傷人及盜抵罪」のこと。
  • 「關中民咸知之」の「咸」はミナやコトゴトクと読む副詞。関中の民はみんなこれ(劉邦が約束では関中の王になること)を知っている。
  • 「自以為得信晚」の「以為」は「以A為」(Aを以て〜と為す)のAが省略され、オモヘラクと読み「思う」という意味になる。「晩」はオソイ。自ずと信を得るのがおそかったと思った。

挙兵

京索之間の戦い

八月漢王舉兵、東出陳倉、定三秦。漢二年、出關、收魏河南。韓殷王皆降。合齊、趙共擊楚。四月、至彭城、漢兵敗散而還。信復收兵與漢王會滎陽、復擊破楚京索之閒。以故楚兵卒不能西。

  • 「東出陳倉」漢軍は陳倉で雍王章邯を破った。
  • 「出關」は函谷関を出る。
  • 「收魏河南。韓殷王皆降」、このとき魏王(西魏王)は魏豹、河南王は申陽、韓王は鄭昌、殷王は司馬卬。「收魏河南」は魏と河南を収めたということだろう。漢王に降ったのは韓と殷とのこと。しかし高祖本紀では「二年漢王東略地。塞王欣、翟王翳、河南王申陽皆降。韓王昌不聽、使韓信擊破之」とあり魏(西魏)については触れず河南は收めたのではなく降り、韓をこそ撃破したと書いてあり殷攻略はこれら併合より後のこととなっている。
  • 「合齊、趙共擊楚」このとき項羽は、膠東・濟北・齊の旧齊三国をまとめて勝手に齊王となった田榮と戦っており彭城を留守にしていた。
  • 「至彭城、漢兵敗散而還」、項羽本紀によれば「春漢王部五諸侯兵、凡五十六萬人東伐楚」のように楚の王都である彭城を攻略したけれどすぐに敗れて散り、戻った。これは項羽本紀に「收其貨寶美人、日置酒高會」とあり、漢軍は敵の本城を奪って勝利に浮かれていたためだ。彭城は現在の徐州市であり、漢からだいぶ東にあり漢軍は楚のなかで孤立したかたちになっている。高祖本紀によれば齊から撤兵した項羽によって漢軍は「大破漢軍、多殺士卒、睢水為之不流」という大敗を喫する
  • 「信復收兵與漢王會滎陽」、韓信は敗散した兵を收め漢王と滎陽で会った。
  • 「復擊破楚京索之閒」京は地名、索は滎陽の古名。着任したばかりの大将韓信は敗散した漢軍をふたたびまとめたばかりか、ふたたび楚を破った。なかなかできることではない。
  • 「以故楚兵卒不能西」京索之閒の戦いでの韓信の勝利により楚軍はそこ(京索之間)から西へ進軍できなくなった。夏侯嬰や蕭何の人を見る目に狂いはなかった。もし韓信がいなかったら劉邦と漢軍はすでにお終いだった。

魏攻め

敗走した漢軍をまとめふたたび楚軍を破り漢軍の態勢を持ち直させた韓信。時にこの韓信のような人が現れる。平社員・下級職(郎中・連敖)や中間管理職(治粟都尉)としては無能どころか処刑寸前だったのに、管理職(大将)になった途端に能力を発揮する人が。韓信は、大将の器を持ちながら「使えない平社員」として虐げられているすべての漢たちの希望である。

漢之敗卻彭城、塞王欣、翟王翳亡漢降楚。齊趙亦反漢與楚和。六月魏王豹謁歸視親疾。至國、即絕河關反漢、與楚約和。漢王使酈生說豹。不下。其八月以信為左丞相擊魏。魏王盛兵蒲阪、塞臨晉。信乃益為疑兵、陳船欲度臨晉。而伏兵從夏陽以木罌缻渡軍、襲安邑。魏王豹驚引兵迎信。信遂虜豹、定魏為河東郡

  • 「卻彭城」の「卻」は却に通じシリゾク。
  • 「六月魏王豹謁歸視親疾」の「謁」はマミユ、目上の人に面会する。親の病を視んと(劉邦に)謁ゆ。親の看病はこの時代も都合のよい口実に使われた。
  • 「漢王使酈生說豹」酈生は儒者、酈食其。魏豹を投降させるための説得に派遣された。でも結果は「不下」。
  • 「其八月以信為左丞相擊魏」とうとう韓信はこれまでの対楚戦の功績により漢大将兼左丞相となる。「王侯将相寧有種也」という言葉があるけれど、韓信は布衣出身でありながらこの王侯将相四種全てになった。
  • 「魏王盛兵蒲阪、塞臨晉」蒲阪と臨晉はお互いに黄河の対岸にある。魏側が蒲阪、秦側が臨晉。魏豹は蒲阪に兵を集中的に置いて漢軍が臨晉から黄河を渡れないようにした。
  • 「信乃益為疑兵」の「益」は副詞マスマス、ここではオホク。「疑兵」は迷わすためにいつわり設けた軍隊。
  • 「陳船欲度臨晉」の「陳」はナラベル、「度」は渡に通じる。「臨晉」は黄河が南下から東へ折れるあたりの西岸(秦側)。韓信は臨晉に疑兵を配置し、船を陳(なら)べることで魏豹の軍を対岸の蒲阪に釘付けにした。魏豹は自軍の存在が相手の渡河行動を抑えていると思い込んでいたけれど、実際は自軍が釘付けにされていた。
  • 「而伏兵從夏陽」の「從」はfrom、夏陽(地名)より〜。夏陽は臨晉より上流(北)にある地。
  • 「以木罌缻渡軍」の「木罌缻」は「木罌缶」であり木製の口が小さく腹の大きな酒器。韓信はこれらを浮かべて夏陽から伏兵の軍を渡河させた。酒器であることから用途を悟られることなく容易に調達できたのだろう。
  • 「襲安邑」、安邑は魏の王都。典型的な迂回戦術である。
  • 「魏王豹驚引兵迎信」の「驚」は予想外の方面に敵軍が出現し、しかも王都を攻撃されてしまったことを知った驚きである。しかしここで蒲阪から軍を引いて安邑救出へ向かってしまうと、船を陳べてありすぐに臨晉から渡河できる韓信の疑兵に追撃され、安邑を襲った伏兵と渡河した疑兵とで魏豹の軍は挟撃されてしまう。このような水を巧みに使った韓信の包囲戦術は、釣をしながら漂母に飯をもらっていた時代に川を見ながら考えていたのだろうか。
  • 「信遂虜豹、定魏為河東郡韓信は遂に魏豹を捕虜とし、魏国を漢の河東郡とした。

代攻め

漢王遣張耳與信俱引兵東北擊趙代。後九月、破代兵、禽夏說閼與。信之下魏破代、漢輒使人收其精兵、詣滎陽以距楚。

  • 「漢王遣張耳與信俱引兵」、「張耳」は項羽に従って秦を攻めた武将、その功績により常山王となったけれど齊王田榮の援軍を受けた旧友陳餘により王位を逐われた。常山国には代王趙歇が趙王として入り、空位となった代王には陳餘が即位した。齊・代・趙は楚の項羽にも漢の劉邦にも与しない第三勢力となりつつあった。それらを伐つため漢王劉邦は張耳に韓信とともに兵をともに率いさせた。
  • 「東北擊趙代」。代は趙の北にある国。かつて趙が秦に滅ぼされたとき、趙の公子が代に逃げて代王嘉と称し、隣国の燕と共闘した。
  • 「破代兵」、魏の攻略記事に比べて代の攻略記事はあっさりしている。正攻法で落としたのだろうか。
  • 「夏説」は代王陳余の代わりに派遣された代の相國、代国の実務的な統治者。すぐに禽(とら)えられた。
  • 「信之下魏破代、漢輒使人收其精兵、詣滎陽以距楚」の「輒」はソノタビニのスナハチ。「下魏」や「破代」のその都度、漢の劉邦は人をやって韓信軍の精兵を手に入れて滎陽に差し向けて以て楚をふせいだ。京索之間の戦い以降、韓信が魏・趙・代を攻め落としているあいだ、劉邦は滎陽で楚と戦っていた。

趙攻め

廣武君と成安君

信與張耳以兵數萬、欲東下井陘擊趙。趙王成安君陳餘、聞漢且襲之也、聚兵井陘口、號稱二十萬。廣武君李左車說成安君曰、聞漢將韓信涉西河、虜魏王、禽夏說、新喋血閼與。今乃輔以張耳、議欲下趙、此乘勝而去國遠鬬、其鋒不可當。臣聞、千里餽糧、士有饑色、樵蘇後爨、師不宿飽。今井陘之道、車不得方軌、騎不得成列。行數百里、其勢糧食必在其後。願足下假臣奇兵三萬人。從閒道絕其輜重。足下深溝高壘、堅營勿與戰、彼前不得鬬、退不得還。吾奇兵絕其後、使野無所掠、不至十日、而兩將之頭可致於戲下。願君留意臣之計。否、必為二子所禽矣。成安儒者也。常稱義兵不用詐謀奇計。曰、吾聞兵法十則圍之、倍則戰。今韓信兵號數萬、其實不過數千。能千里而襲我、亦已罷極。今如此避而不擊、後有大者、何以加之。則諸侯謂吾怯、而輕來伐我。不聽廣武君策。廣武君策不用。韓信使人閒視、知其不用。還報則大喜、乃敢引兵遂下。

  • 「號稱二十萬」、中国の軍記でありがちな数字の誇張。
  • 「廣武君李左車」は趙の名将・武安君李牧の孫。李牧は匈奴や秦を破った。
  • 「新喋血」、「喋」の意味がしゃべるなのは近代の日本語用法。ふみつける、ふむが本来の意味。血を踏むほど血を流す。
  • 「樵蘇後爨、師不宿飽」、「樵」は薪を採る、「蘇」は草を刈る、「爨」は火を燃やして飯を炊く。焼肉屋で牛を連れてくるところからはじめても客への提供が間に合わないように、戦場で薪を採り食糧の採取からはじめても「師」軍隊が「飽」満腹であることを「宿」とどめていることはできない。
  • 「車不得方軌」、二台の車が轍を並べ手行くこと。一台は通れる。
  • 「行數百里」この時代の一里は415.8メートル。 万里の長城は4000キロメートルとなるけれど、現存する人工壁の延長は6,259.6kmであり、名前より実際は長い。
  • 「從閒道絕其輜重」、輜重は武器や食糧の兵站。敵の輜重を絶つと敵の士気は下がる。
  • 「足下」、目下が目上を呼ぶ敬称。
  • 「勿與戰」、「勿」は目的語を省略できる。
  • 「而兩將之頭可致於戲下」、「戲下」は麾下であり大将旗のあるところ。
  • 「願君留意臣之計」、「意」こころを臣の計(はかりごと)に留めよ。
  • 「否」シカラズンバ、そうでなければ。
  • 「成安君、儒者也」戦場で儒者が出てきたらすぐ死亡フラグである。
  • 「兵法十則圍之、倍則戰」、十倍は「什」を使うことが多いけれどここでは「十」。兵法では自軍が(敵の)十倍なら囲み、(敵の)倍ならば戦う。
  • 「亦已罷極」、「罷」は疲労したさま。またすでに疲れが限界に達しているだろう。
  • 「不聽廣武君策」、趙王を立てたのは成安君陳餘である。立案では現実を見る力のある者の意見より実力者の意見が通るのは世の常だ。

背水の陣

未至井陘口三十里、止舍。夜半傳發、選輕騎二千人、人持一赤幟、從閒道萆山而望趙軍。誡曰、趙見我走、必空壁逐我。若疾入趙壁、拔趙幟、立漢赤幟。令其裨將傳飱曰、今日破趙會食。諸將皆莫信、詳應曰、諾。謂軍吏曰、趙已先據便地為壁。且彼未見吾大將旗鼓、未肯擊前行。恐吾至阻險而還。信乃使萬人先行、出背水陳。趙軍望見而大笑。平旦、信建大將之旗鼓、鼓行出井陘口。趙開壁擊之、大戰良久。於是信張耳、詳棄鼓旗走水上軍。水上軍開入之、復疾戰。趙果空壁爭漢鼓旗、逐韓信張耳。韓信張耳已入水上軍、軍皆殊死戰、不可敗。信所出奇兵二千騎、共候趙空壁逐利、則馳入趙壁、皆拔趙旗、立漢赤幟二千。趙軍已不勝、不能得信等、欲還歸壁。壁皆漢赤幟、而大驚、以為漢皆已得趙王將矣、兵遂亂遁走、趙將雖斬之、不能禁也。於是漢兵夾擊、大破虜趙軍、斬成安君泜水上、禽趙王歇。

  • 「未至井陘口三十里」、ある地点まで何里という距離の表現。未至浜松五百里など。
  • 「止舍」止まり舎する。「舎」とは泊まること。
  • 「赤幟」、漢王が火徳でシンボルカラーが赤なのは高祖本紀の「吾白帝子也化為蛇當道今為赤帝子斬之故哭」、劉邦が赤帝の子を名乗っていた伝説による。しかし当初の漢王朝は水徳を名乗っていたとする説もあり、水徳=黒ならこの「赤幟」と矛盾する。実は漢代までの史書において漢=赤幟なのはこの淮陰侯列伝における井陘の戦いの記事だけである。
  • 「從閒道萆山」の「萆」は蔽と同じで間道、抜け道の草で蔽われた山から。
  • 「必空壁逐我」の「壁」は砦。
  • 「令其裨將傳飱曰」の「裨將」は副将、「飱」は「簡単な食事」、ここは使役形で、その副将をして簡単な食事にすることを伝えさせて。
  • 「趙已先據便地為壁」の「便地」は有利な地。
  • 「出背水陳。趙軍望見而大笑」、「陳」は陣。戦場で「大笑」はいつの時代も死亡フラグ
  • 「平旦」は日の出時。
  • 「詳棄鼓旗走水上軍」の「詳」は佯に通じてイツワル。見せかけること。
  • 「水上軍開入之、復疾戰」孫子に「疾戰則存、不疾戰則亡者、為死地」とあるが、これは「復疾戰」の典拠だろう。
  • 韓信張耳已入水上軍」の「水上軍」は水の上の軍隊ではなく、水のほとりの軍隊。
  • 「軍皆殊死戰、不可敗」、死兵である。
  • 「共候趙空壁逐利」の「候」はウカガウ、斥候する。

兵法

信乃令軍中毋殺廣武君、有能生得者購千金。於是有縛廣武君而致戲下者。信乃解其縛、東鄉坐、西鄉對、師事之。諸將效首虜、休畢賀。因問信曰、兵法右倍山陵、前左水澤。今者將軍令臣等反背水陳、曰、破趙會食。臣等不服。然竟以勝。此何術也。信曰、此在兵法。顧諸君不察耳。兵法不曰、陷之死地而後生、置之亡地而後存。且信非得素拊循士大夫也。此所謂驅市人而戰之。其勢非置之死地、使人人自為戰。今予之生地、皆走。寧尚可得而用之乎。諸將皆服曰、善、非臣所及也。

  • 「毋殺廣武君」の「毋」は禁止のナカレ。
  • 「諸將效首虜」の「效」はイタス、献上する。戦場における首切断の歴史については左伝文公十一年の記事に「冬十月甲午、敗狄于鹹、獲長狄僑如、富父終甥樁其喉、以戈殺之、埋其首於子駒之門」とあり、夷狄の首を門に埋める習慣はあるらしい。
  • 「東鄉坐、西鄉對」師匠は東へ、弟子は西へ向かって座る。
  • 「右倍山陵、前左水澤」、「倍」は背と同じでソムク。孫子に「邱陵隄防必處其陽而右背之此兵之利地之助也」とある。山を右に川を左にする理由は不可解であるけれど、右手に武器を持つ者が多いのならば右から回り込むことで敵を川に落とせるからだろうか。
  • 「兵法不曰A」兵法に曰はずや。兵法にAと言わないのか(いや言うだろう)
  • 「陷之死地而後生,置之亡地而後存」孫子に「投之亡地然後存,陷之死地然後生」と語順が違えど類似した文がある、韓信孫子で兵法を学んだようだ。机上の兵法というより、弁論に孫子など兵法を引用するのが巧みであり、実戦を理論で補強するタイプ。
  • 「且信非得素拊循士大夫也」の「拊循」は訓練するの意。
  • 「驅市人而戰之」慣用句。「市人」は町を歩いている人、そんな新兵を戦わせているが韓信の現状だった。
  • 「今予之生地、皆走」そのような新兵に生地を与えると皆逃げてしまう。

(中断)