以太以外

蒼褪めた巨漢は笑う水澄んで 以太

『明石海人歌集』岩波文庫

かりん糖を貰った日、『明石海人歌集』を読む。〈とりとめて書き遺すこともなかりけむ手帖にうすき鉛筆のあと/明石海人〉は〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ/林田紀音夫〉と並べられる。「うすき鉛筆」は世への未練か。〈大楓子油注射のときを近づきて口覆の上に黒む瞳なりし/明石海人〉口覆はマスク、看護婦の思い出、救いのような残像のようなものか。〈ソクラテスは毒をあふぎぬよき人の果は昔もかくしありけり/明石海人〉ソクラテスが「よき人」であったかどうかは判断する人に因るし、それはよき人より服毒死への憧憬だ。〈うすら日の坂の上にて見送れば靴の白きが遠ざかりゆく/明石海人〉靴の白さが光として、残像としていつまでも残る。〈まじまじとこの眼に吾子を見たりけり薬に眠る朝のひととき/明石海人〉いつ見えなくなるともわからない一瞬一瞬を、見る。〈切割くや気管に肺に吹入りて大気の冷えは香料のごとし/明石海人〉「香料のごとし」という感覚の生々しさ。〈蒼空の澄みきはまれる昼日なか光れ光れと玻璃戸をみがく/明石海人〉祈りのように磨く。〈蟬の声のまつただなかを目醒むれば壁も畳もなまなまと赤し/明石海人〉目覚めると夕陽の赤に囲まれる、この赤は〈手にのこるけだものの香のけうとさは真紅にかはる海を想へり/明石海人〉にも。〈傷つける指をまもりてねむる夜を遥かなる湖に魚群死にゆく/明石海人〉指の傷のため犠牲になる魚群のような、ひとつの不安を守るために死んでいく世界のような。〈そんなことちつともないと言ふ貌に半透明な心臓がのぞく/明石海人〉半透明な心臓は模型か、見え透いた心なのか。〈空はもうかすんでゐるのにこの朝の海へ落ちこむ沢山な蝶/明石海人〉「もう〜のに」はもうその必要がないのに。