以太以外

蒼褪めた巨漢は笑う水澄んで 以太

俳句の基底部と干渉部

〈山里は万歳遅し梅の花芭蕉〉について、

俳句の興味の中心を占めるのは、強力な文体特徴で読み手を引きつけながら、それだけでは全体の意義への方向づけをもたない(あるいはその手がかりがあいまいな)「ひとへ」の部分、行きっぱなしの語句である。これを「基底部」と呼ぼう。一方、さきの句の「梅の花」のように、その基底部に働きかけて、ともどもに一句の意義を方向づけ、示唆する部分を、「干渉部」と呼ぶことにしよう。(略)黒はどこまでも黒い、黒よりも黒いという「誇張法」hyperboleと、それから、黒白という両極端を持ち出して、黒は白い、実は白なのだという「矛盾法」oxymoronとである。(略)俳句は基底部内の誇張(重複)と矛盾(対立)によって文体的興味をそそり(矛盾を本質とする)、干渉部との重複や対立によって一句の意義を方向づける(重複を本質とする)という基本構造をもっていることがわかる。(川本皓嗣『日本詩歌の伝統』岩波書店

俳句を基底部と干渉部から成り、修辞法には矛盾と誇張の二種あるという説。川本は特に基底部を重要視する。

基底部に表現面の矛盾を含まないものは、そもそもはじめから句の体をなさないのであって、少なくとも芭蕉以後に関するかぎり、いわゆる「俳諧根本」としての滑稽あるいは「俳意」は、まさにそうした基底部の文体上の意外性を指すものと考えられる。(川本皓嗣『日本詩歌の伝統』岩波書店

ただし〈行く春を近江の人と惜しみける/芭蕉〉のように句全体が基底部で「近江」が干渉部の役割を果たす句もあるという。中島斌雄の「屈折」や「曲輪を飛びだす」などが「基底部の文体上の意外性」や斬新さにあてはまるだろう。そして基底部と干渉部のつなぎ目は切れとは限らない。