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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

「風蝕」『林田紀音夫全句集』富士見書房

句日記を寄稿したZINE「今だからvol.1」(ぽんつく堂)が届いた日、「風蝕」部分を読む。〈月光のふたたびおのが手に復る/林田紀音夫〉この前は月面にいて月光を手にかざしたの。〈松の花水より速きものを見ず/林田紀音夫〉水辺、風のない日に咲いた松の花。〈揚羽出て高さ失ふ水の上/林田紀音夫〉揚力を水のやわらかさに失う、ふいに魔法が切れたかのように。〈釘錆びてゆけり見えざる高さにて/林田紀音夫〉釘が錆びるのは建物の憧憬のような高みである。〈死は易くして水満たす洗面器/林田紀音夫〉洗面器を満たす水とは鬱気のようなもの、波立つことなくトロトロと溜まる静かな爆発物のようなもの。〈麦刈られ頸たるませて牛通る/林田紀音夫〉壮絶な瞬景、牛のたるませた頸とはすぐに刃で切られる頸である。〈顔洗ふときにべとつく雨の音/林田紀音夫〉「べとつく」とは募るどうしようもなさ、うなだれるように顔を洗う。そのとき使うのは水満たす洗面器だろう。〈ドラム罐叩きて悪き音愉しむ/林田紀音夫〉悪きとは雑音であり、道徳的に裏側な音、ジャズかもしれない。〈将棋さすネクタイに首つながれて/林田紀音夫〉と〈銀行がネオンをのこし酔ひきれず/林田紀音夫〉は終業後のサラリーマンたちの終業後でも会社や経済の呪縛から逃れられない悲哀であろう。〈死のごとき夜の颱風を素手で待つ/林田紀音夫〉颱風とはおとなたちの神話である。素手でなんとかできると信じこんでいる。〈仮眠四時間硝子一重に貨車ひびき/林田紀音夫〉せまい駅構内や車両での夜勤の過酷さ、「硝子一重」という騒音の生々しさ。〈銃口の深い暗さが僕らの夜空/林田紀音夫〉闇のなか、光は銃口からしか見えないから。〈食へない都市の空に鉄骨はびこらす/林田紀音夫〉資本主義がいくら蔓延するように発達してもそのおこぼれすらこの手には転がってこない。〈黄の廃水を河へ刺すくたびれた街/林田紀音夫〉「廃水を河へ刺す」という殺伐さはくたびれた街の油断から生じる。

鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫

「紫薇」『澁谷道俳句集成』沖積舎

枇杷の種を埋めた日、「紫薇」部分を読む。〈木の実独楽直立せねばうなされて/澁谷道〉均衡を失いはじめた木の実独楽を「うなされて」という把握の見事さ。〈肩先を秋の岬にして男/澁谷道〉故郷すべてが身体であるかのような男について。〈ほのぐらく茶漬の音す雛疲れ/澁谷道〉女の子の成長を祝う日に仄暗い隅においやられた女たちの疲労、彼女たちの啜る茶漬という現実。〈照る雲と降る雲の間の白木槿/澁谷道〉明暗ともに一瞬の天気のすきまに光る木槿の白。圧倒的な美学、そして景が大きい。〈えんとつに雌雄のありし花野末/澁谷道〉花野のはてに煙突が二本という素景。モノクロームが似合う。〈行きがたし美濃はしぐれて二色刷/澁谷道〉美濃の観光案内、二色刷りのパンフレットだろうか。美濃は斎藤道三明智光秀の粗忽な国である。〈夏の旅傷縫う糸でとじおわる/澁谷道〉手術を終えるかのような夏の旅でおしまい。

雷を負う雲のひとりに道を訊き 澁谷道

「縷紅集」『澁谷道俳句集成』沖積舎

第三十一回伊藤園お~いお茶新俳句大賞の二次審査通過のお知らせが届いた日、「縷紅集」部分を読む。〈鏡拭けば廃村という春景色/澁谷道〉鏡の曇りを拭うと廃村の春の景色が映っていた。人が絶え自然の繁茂する、やわらかい景なのだろう。〈廃屋曾て雛の具をちりばめし闇/澁谷道〉廃村につづき廃屋、その隅の闇はそんじゃそこらの闇はではなく娘らが住み雛祭りをした闇なのだという。賑やかさの名残り。〈白地図の折り目におとなしき蛇/澁谷道〉地図が蛇の頭脳のプログラムであれば、白地図であるがゆえに蛇はまだおとなしいということか。「折り目」という把握のすごさ。〈抱けば硬き小犬のあたま野分くる/澁谷道〉やわらかそうな小犬の頭蓋骨が硬いという驚き、死の骨格に触れたような野分。〈猫を追うわが足あとは桃の花/澁谷道〉浮かれ猫ほどに追う吾も浮かれている。〈ほのぐらき電流曳けり大揚羽/澁谷道〉電流は大揚羽の生命の痕跡である。〈肉野菜はげしく炒め稲曇り/澁谷道〉稲曇りは未詳だが、稲刈のときの曇り空だろう。秋夕の中華料理屋の灯りとかを思う。食の氾濫。〈闇汁の闇のつづきに渡し舟/澁谷道〉「闇汁の闇のつづき」という手放せない機知がある。〈藻の青でベッドを覆い旅にたつ/澁谷道〉そのベッドはしばらくは寝ないベッドだ。

鳥撃つ日レモンの天国的黄色 澁谷道

見ると籠る

 折ゝに伊吹を見てや冬籠 芭蕉

「見る」と「籠る」、つまり自分の視界を確保しながら他者の視線から身を守るような振舞い癖、この二つの相矛盾するしぐさを同時に充たす生活空間を人は好むという理論の基本を、わたしは英国ハル大学の地理学者アプルトン氏に負うのである。この対行動とは、要するに、動物としての人間がその生存を全うせんとする願望に由来するとアプルトン氏はいう。(中村良夫『風景学入門』中公新書

プルトン氏とはジェイ・アップルトンJay Appletonであり、眺望 – 隠れ場理論 prospect-refuge-theoryの提唱者だ。折々の句は大垣の千川亭で作られた。実景はどうであろうと、冬籠という言葉が「見る」側をとりまく籠りの景色を作り出している。「見る」はその行為を他者に見せている。現代ではこんな「見る」もある。

 毛布から白いテレビを見てゐたり 鴇田智哉

白いテレビに何が映っているのか、津波原発事故か。それも気になるけれど景は毛布にくるまり籠る人の映像で占められる。その人はきっと生存を全うせんとする願望を抱いている。

山田耕司『不純』左右社

浜松市立図書館臨時休業の最終日、山田耕司『不純』左右社を読む。〈ペンギンは受話器にあらず半夏生/山田耕司〉黒と白の詩なので、受話器は黒電話となる。もちろんペンギンは受話器でもいい。〈いきんでも羽根は出ぬなり潮干狩/山田耕司〉海と空とをつなぐ大きな景だと思う。もちろんいきんで背中から羽根が出てもいい。〈交番に鯛焼の来て帰らざる/山田耕司〉買い物袋の鯛焼に焦点をあてて泳げたい焼きくんの世界を再現した。〈狼のまだおりて来ぬすべりだい/山田耕司〉狼は絶滅しているからおりて来る来ないの前にもういないのかもしれないけれど「まだおりて来ぬ」としたことですべりだいの上には狼が「いる」。〈うぐひすやボタンの数にあなの数/山田耕司〉ボタンを押すと凹むのは同じ数だけのあなにボタンがはめられているから。鳥、多くの鳥には暗い樹のむこうに装置が潜在している、そのような共感として読んだ。〈枝豆や脱ぐにバンザイさせあうて/山田耕司〉つるんとしているという驚きが脱衣にはある。〈このレヂと決め長ネギを立てなほす/山田耕司〉レヂは滑走路だと思う。〈はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな/山田耕司〉柚子湯の明るさに裏打ちされた入浴者の内臓の暗さ。山田耕司VS山田耕司は赤二点、白六点。〈焚き火より手が出てをりぬ火に戻す/山田耕司〉戻すのは復活しないように。実景だろう。〈日に脚のありて伸ぶるを金盥/山田耕司〉日脚の脚を強調させる。金盥は日の具体化であり日脚と日を同等表している。〈合掌のひとりは蝶を籠めしこと/山田耕司〉合掌を開くとたちまち蝶は消える。〈ふるさとや玉にラムネの底とほく/山田耕司〉玉は底に届きそうで決して届かない、〈故郷や臍の緒に泣く年の暮/松尾芭蕉〉と同じく製造過程の景を思わせるけれど掲句は景を描くことに専らしており芭蕉から三百年たったのだと思わせる。

初日射すので立ち方は毛沢東 山田耕司

句集 不純

「桜騒」『澁谷道俳句集成』沖積舎

特別定額給付金の申請書を投函した日、「桜騒」部分を読む。〈ぬぎすてて春着へ移す夜の重心/澁谷道〉身体の重みをふと無くしたかのように脱ぐ。これは脱ぎ方についての句であり裸身が青白い。〈鮭とボサノバ喉いっぱいの夕映え/澁谷道〉鮭という魚類のもつ性質の暗さとボサノバの音の冥さとが夕映えに響き合う。もちろん暗愁saudadeがある。〈冷房の紅茶一碗はりつめて/澁谷道〉「はりつめて」は紅茶を飲もうとする人の緊張の投影である。〈のうぜんへ血の繋がらぬ土運び/澁谷道〉「血の繋がらぬ」は土葬を思わせる。そして地の赤と天の赤との対比も思わせる。〈木槿萎え神さまはピンセット状/澁谷道〉新しい神話と言える。萎えとピンの対照性。〈潮風のざくろよ信管抜かれて/澁谷道〉海際の柘榴を爆発物に喩えるけれど信管が抜かれたので爆発はしない。潜在的な爆発だけを秘めて潮風に干からびてゆく。

メロンと毬百個すりかえ夢心地 澁谷道

「藤」『澁谷道俳句集成』沖積舎

第四回円錐新鋭作品賞選考座談会にて拙作「動物園前」の〈鯛焼の影より鯛焼は剥がれ/以太〉〈遅刻してゐる外套を出られない/以太〉〈影淡きアイスクリームつみあがる/以太〉などが言及されたと知った日、「藤」部分を読む。〈グラスみな水の粒著て夏至時刻/澁谷道〉夏至時刻という湯気のために視界の曇る時間にグラスが映える。〈土雛の拭きても拭きても暗き赤/澁谷道〉拭いても拭いても残る「暗き赤」とは血脈というより陋習のようなもの。〈春の蟬父の眼鏡にとどかざる/澁谷道〉春の蟬からは松林、海岸沿いの防砂林などが連想できる。父と訪れた海岸の思い出が蟬の声でふとよみがえる。〈玉霰つねに背をみせピアニスト/澁谷道〉荒天に!ふりかえり顔を見せることはない楽器の一部と化したかのような演奏。〈雪霏霏と版畫のはてしなき餘白/澁谷道〉余白を彫りつづけた人がいるということ。〈あんず噛む鼓膜のそとの靑空よ/澁谷道〉鼓膜のそとの青空とは鼓膜が聴覚するまえの音だろう、咀嚼音して骨を伝わる音との違いを際立たせてもいる。〈手花火を暗い切株へ贈らう/澁谷道〉切株は神の座であるがゆえに。〈西日ごし鈴蟲ほろぶ土の色/澁谷道〉土の色は変わりはないけれどそれを見る視線に変化がある。〈梔子や夜明けの扉輕くあく/澁谷道〉軽くあいた扉とはそこから漂う梔子のにおいのことである。〈鵯のなきがらも冷ゆ花器の水/澁谷道〉「も」ということは花器に差さる花とはなきがらである。

すみれ摘み盡して雲へ移住する 澁谷道

「嬰」『澁谷道俳句集成』沖積舎

軸の文音句会で〈湯切りする窓をぬぐえば柳かな/以太〉と〈道の尽きるときの音は竹の秋/以太〉が編集部のふたりの特選を、〈そらいろの帽子目深に糸柳/以太〉が同人会長選をいただいた日、「嬰」部分を読む。〈ヒヤシンス鏡の向うでも匂う/澁谷道〉虚像でも匂うということは色や姿の匂いということ、反転した魂のようなものだ。〈ピアノを売れという麦風のリズム/澁谷道〉自然の音に還れというメッセージか、〈こがらしをピアノ売りたる部屋にきく/澁谷道〉も。〈狂人の諸手に銀河溢れたり/澁谷道〉景が巨きい、狂人が浮かべる恍惚の笑みは神に近い、〈長病みの掌に紫陽花の藍剰る/澁谷道〉とともに。〈冬虹の片脚が踏む孤児の家/澁谷道〉墨一色の木版画で描かれるような景、彩色は不要。〈枯野往診星等率き連れ魔女めきて/澁谷道〉往診から帰るところではなく行くところとする。そうでなければ「魔女めきて」とはならない。〈くちづけ乾く螺旋階段底から暮れ/澁谷道〉建築として面白い。暮れも螺旋状に遺伝子配列めいてのぼる口づけ。〈海に向く傷跡多し城柱/澁谷道〉「傷跡多し」が情感深い。海からは誰が城へ来襲したのだろう、歴史の積層が傷跡となる。〈台風通過密室に汗噴くチーズ/澁谷道〉台風という異常なまでの温度差が生んだ気象状況と密室(たぶん冷蔵庫)で温度変化により水分を出すチーズとの対比。科学かもしれないけれど、非懐紙連句の感性が上七と残りの十二音のあいだに響く。

手術始まる死を朝虹に懸け忘れ 澁谷道

手向くるやむしりたがりし赤い花

見田宗介の『社会学入門岩波書店小林一茶の句として〈手向くるやむしりたがりし赤い花〉が紹介されている。この句は、顕在態と潜在態を説明する題材として、柳田国男の『明治大正史 世相篇』から見田が引用した。確かに『明治大正史 世相篇』の第一章「眼に映ずる世相」の四「朝顔の豫言」に

俳諧寺一茶の有名な發句に「手向くるやむしりたがりし赤い花」といふのがある

とある。

無季句である。もちろん一茶は無季句もつくっているからそれだけでは不思議ではない。しかし一茶の俳句データベースにこの句はない。不思議である。

岩波文庫の『一茶俳句集』には、手向くるやの句はなく、「さと女卅五日墓」の詞書で〈秋風やむしりたがりし赤い花〉が載っている。手向くるやの句はこの句が変わったかたちだろう。脚注によれば文政版一茶発句集は中七が「むしり残りの」だったそうだ。「むしり残りの」では柳田の解釈「可愛い小兒でさへも佛になる迄は此赤い花を取つて與へられなかつたのである」はあてはまらない。さと女がむしり残した赤い花を墓に手向けると解釈できるからだ。

〈手向くるやむしりたがりし赤い花〉は柳田の記憶違いか、当時一茶の間違った句が流布していたか、だろう。よく調べない孫引きはよくないという一例である。

 

「夜の客人」『田中裕明全句集』ふらんす堂

保育園からの強気の登園自粛要請に驚く日、「夜の客人」部分を読む。〈家々の切れてつづけり浮寝鳥/田中裕明〉街のデフォルメされた景色と距離を違えたところにいる浮寝鳥について。〈一身に心がひとつ烏瓜/田中裕明〉心は烏瓜の明るさにも似て脈うつ。〈役者老いて役似合ひけり菫草/田中裕明〉菫草と可憐におさめたので老役者による童女の演技も締まる。〈秋風や老いし馬の目人を見ず/田中裕明〉老いの白濁によりなかば盲い、なかば澄んだ目は来世まで見透すだろう。〈さびしいぞ八十八夜の踏切は/田中裕明〉春でもなく夏でもないような、あらゆるものの境を渡る踏切か。〈空へゆく階段のなし稲の花/田中裕明〉稲田の広さが空へゆく階段なんてものを想わせたのだろう。「なし」はあらまほしだ。悲しい希望のありか。〈髪濡れて廊下をあるく良夜かな/田中裕明〉月光で艷やかに濡れる髪。〈龍あるく青水無月の原濡れて/田中裕明〉「龍あるく」は句柄の大きさと自由と。〈東京は墓多き町武具飾る/田中裕明〉死と成長の喜びがすぐ隣り合わせにあらざるをえない大都会ということ。

さみだれのあつまつてゐる湖心かな 田中裕明

「先生からの手紙」『田中裕明全句集』ふらんす堂

浜松市立図書館はすでに全館休館となった。多くの飲食店が浜松市からの休業要請を受け五月六日まで営業を自粛する四月二十五日、「先生からの手紙」部分を読む。〈掛稲や音楽会の重き幕/田中裕明〉緞帳の重さにも似た掛稲の豊かさ、芸術の秋でもある。〈暗幕の向うあかるし鳥の恋/田中裕明〉とともに明暗の対照がある。〈海山の神々老いぬ蒲の絮/田中裕明〉蒲の絮の色が老神、川沿いで海神と山神とが出会う、〈神々の老いて雪しろ流れけり/田中裕明〉もまた水際。〈みづうみをこえて雨くる春田打/田中裕明〉浜名湖を西に控える浜松駅南の田園地帯なんかがその景だけれど遠江じゃなくて近江の琵琶湖かな。「みづうみをこえて」が景の広さを伝える。〈をさなくて昼寝の國の人となる/田中裕明〉体力のない乳幼児は一日二回は昼寝する、それは別の国の人となったかのような眠りっぷり。〈初しぐれ京の町屋に学者ゐて/田中裕明〉数学者だろう。初時雨は素数か。〈遺句集といふうすきもの菌山/田中裕明〉菌山は故人へのやさしさ。〈俳諧に大作のなし懐爐燃ゆ/田中裕明〉懐炉のいつまでも続くかのような生暖かさは俳諧の楽しみに似て。〈夜学子のまたふにやふにやと送り仮名/田中裕明〉漢字をくっきり濃く書いたからこそ対照的にふにゃふにゃになる送り仮名。〈蟻地獄赤子に智慧の生れけり/田中裕明〉人の智慧の有り様は漏斗状にすべりおちる。〈白靴の結び目なんとなく大き/田中裕明〉新しい靴紐の結び目はまだ大きい。白の映える大きさ。〈姉の音妹の音夜は長し/田中裕明〉姉妹の住む夏の家という色彩がある。〈角砂糖ゆっくり溶ける芝火かな/田中裕明〉雪解への連想を含んだ角砂糖の融解と芝の燃焼するおだやかさ。〈蓼の花玩具はすぐに暗くなる/田中裕明〉玩具であそんでいると時間がたつのが早く感じられ、すぐにあたりが暗くなるということか。いや、蓼の花のうちにある暗さと玩具の自然な色の暗さとの相関か。

鱚食うて黒きネクタイしめなほす 田中裕明

当間青『サーフィン共和国』松琴俳句会

風の強い日、当間青『サーフィン共和国』松琴俳句会を読む。〈カセットの音揺らし来るサマー・ギャル/当間青〉カセットはラジカセか。ギャルも二十世紀の香りがする、きっと肌は日焼けしており汗粒が浮かぶだろう。〈コインロッカーに教科書隠し秋の蜂/当間青〉放課後に街へくりだす。夏の頃よりすこし大人になって。〈掌の中で鳴らす錠剤梅の花/当間青〉白い錠剤と梅の花の小ささとの対比、命を掌中にしたかのように鳴らす。〈天井で転ぶ風船四月尽/当間青〉どこにも行けない風船として。〈点滴の少女の拳半夏生/当間青〉汗につめたく濡れた拳を柔らかくつつんであげたくて。〈冬茜海の両端結ばるる/当間青〉冬夕焼けの鮮烈さに海の変容が見えるかのようだ。

晩夏急海はサーフィン共和国 当間青


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安里琉太『式日』左右社

落花生を食べた日、安里琉太『式日』左右社を読む。〈ひとり寝てしばらく海のきりぎりす/安里琉太〉佇まい俳句とも言うべきか。実景としてありうるだけに「きりぎりす」の動詞化をほのめかされたような気にもなる。〈葛咲くや淋しきものに馬の脚/安里琉太〉葛は国栖であり、吉野や信濃など山の力を感じる。馬の脚が淋しいとは胴より上と比較して、であるしマルクス主義批評としての下部構造をも連想させる。単に中山競馬場の景かもしれないけれど。〈もの掛くる釘あまたあり薬喰/安里琉太〉狩猟人の整頓された清澄さ。〈風鈴やたくさんの手と喉仏/安里琉太〉風鈴市の景でもひとつの風鈴にまつわるたくさんの人の残像でも構わない、汗に濡れた喉仏が目立つ季節だ。その残像は〈並べたる瓶に南風の鳴り通し/安里琉太〉と同じで背景は霞んでいる。〈遅れくることの涼しく指栞/安里琉太〉一切の読書関係の語をいれずに「指栞」としたのが読み手を信頼していて、佳い。待ち人のやや気取った心境が鮮やかに縁取られる。〈郵政や鳩あをあをとして冬は/安里琉太〉郵政は結束のことだろう。冬はひとつの繁忙期として鳩は太る。〈避暑の宿耳かき売つてゐたりけり/安里琉太〉昭和からの宿なら竹製の耳かきで、触ればひんやりとするはず。〈竹筒やぽろぽろ出づる春の蟻/安里琉太〉未熟な、意識としては透明に近い春の蟻が竹筒から飯粒のように落ちて出るのは楽天家の景に他ならない。

竹秋の貝が泳いで洗ひ桶 安里琉太

杉田桂『摩天楼』梅里書房

全国的に緊急事態宣言な春、杉田桂『摩天楼』梅里書房を読む。〈水中花腐蝕がすすむ摩天楼/杉田桂〉水中花も摩天楼も垂直の詩である。〈六月の空は腐りて鳥こぼす/杉田桂〉空と鳥の因果が梅雨により変じた。〈向日葵を凶器にしたる少女かな/杉田桂〉鈍器ではなく、すでに向日葵で人を傷つけたのだ、少女は。〈櫨紅葉はや鰓呼吸をしていたり/杉田桂〉海嘯のような紅葉の鮮やかさに肺呼吸では息苦しさを感じるという詩情は〈紅葉谷石が呼吸をはじめたり/杉田桂〉からも分かる。ちなみにハゼもハヤも魚の名。〈鉄壁をなすかげろうの切口よ/杉田桂〉かげろうは陽炎か蜉蝣か。いずれにせよ、気体の切口も細きものの切口も鉄壁とまで言い切られると愉快だ。〈さるすべり嘘の歯車噛み合いて/杉田桂〉すべらずに噛み合うのは嘘の歯ではなく嘘の歯車と。百日紅の色が真っ赤な嘘に見えてくる。

無神論者口を濡らして柿を食う 杉田桂

『中拓夫句集』ふらんす堂

社会的距離を保ちながら人間ドックを受診した日、『中拓夫句集』ふらんす堂を読む。〈耳かすみをり流域は林檎園/中拓夫〉「流域は林檎園」というザックリとした景の描き方が俳句ならでは、〈赤とんぼ山の斜面の明るき墓地/中拓夫〉もザックリ。〈霧の駅冷凍の魚引きずられ/中拓夫〉駅で冷凍の魚が引きずられている景は実景であっても心象風景であっても訴求力のある景だ。文明のまぎれものとして魚体。〈塩鮭の尾が砂に立つ松林/中拓夫〉や〈漁船出す道あり海水浴の中/中拓夫〉とともに鑑賞したい。〈薄氷の田面や喉をざらざら剃る/中拓夫〉表面や表皮への際どい想像力。〈田を植ゑぬ宵の三日月を神として/中拓夫〉荒っぽいというか措辞が大胆。〈洗ひ飯蜂の機嫌を悪くせり/中拓夫〉洗ひ飯の感覚が蜂の機嫌を悪くしたときの危険の感覚と合う。〈鳴らずなり麦笛の管甘きかな/中拓夫〉甘い理由を植物学ではなく思い出として語る。〈雲雀野や捨て自転車の輪が回る/中拓夫〉「輪が回る」とは捨てられることで自転車の新しい人生がはじまるかのよう。

枇杷青しひとときかつと机照る 中拓夫