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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

ストア派における感情について

人間が抱くすべての感情は同意に因る、というのがストア派の見解だ。印刷教材『西洋哲学の起源』にはストア派の「理性と感情」について

怒りの感情とは「自分が不正な仕打ちを受けている」という(誤った)認識に他ならない。その意味で感情は理性と対立する別物ではなく、一元的な理性のうちの,ある特殊な(逸脱した)状態」といえよう。

と書いてある。これはクリュシッポスの規定に基づく考えだ。ここでの理性はストア派の著者の違いにより、判断・想定・臆見・主導的部分の状態などとも書かれる。

一方でゼノンは感情を「判断につづいて生じて来る圧縮と拡散」だと考え、感情をある種の判断そのものとするクリュシッポスの規定と一見すると異なっているような見方を示す。別の形態をとる同質なものか、分かれて続いて起こるものかの違いだ。ゼノン説は愛する人の死に接したとき、死んだという判断とつづいて生じる心的動揺をひとまず別の事態と考える。ゼノン説はキケロ説の「すべての感情は判断 judicium と思いなし opinio から生じる」の判断と思いなしの別を説明するものでもある。

実は一見するとゼノン説と異なっているかのようなクリュシッポス説もゼノン説やキケロ説と同じように判断を「衝動と同意を意味するものとして名づけられた」と分けて述べる。セネカもこう述べている。

すべての生きものは、たとい理性をもっていても、まず何かあるものの表象 specie に刺激され、次に衝動 impetus を受けとり、最後に同意 adsensio を承認するという、以上の過程がなければ、何かを為すことはできません。

つまりクリュシッポスもゼノンもセネカキケロも、およそストア派の著者は同じことを述べている。ストア派にとって感情とは、人の外側にあることばやできごとのような表象を受けとった人がその表象を思いなしたり同意したりしてはじめて完成するものだ、と。

さらにクリュシッポスは次のような主張を述べる。

ふさわしい表象が生じるときは、〔その表象に〕許しを与え同意することがなくとも、ただちに衝動が起こってくる、と考える人たちは虚偽を述べ、空虚な仮説を語る者であること

しかし表象によって強制的・半強制的に感情を抱かざるをえなくなるような、不本意な同意もあるのではと私は考えてしまう。

ゼノンは同意を本意からのもの voluntariam であり、われわれの力のうちに nostra in potestate あるものとする。だからこそ悲しみや怒りといった負の感情は自分自身の誤った思いなしや間違った同意によるものなので事実として存在しないので除去できるし、悲しむべきや怒るべきという感情を当然で正しいという思いなしや同意もこれを理性の力で除去することができる。

【参考文献】

ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナの自然区分論について

十七世紀オランダの哲学者スピノザはその主著『エチカ』にて、スコラ学派が使った能産的自然natura naturans・所産的自然natura naturataという用語に汎神論的定義を与えた。スピノザ以前では九世紀のアイルランド出身で西フランク王国で活動したヨハネス・スコトゥス・エリウゲナが汎神論につながる思想を示した。

エリウゲナの著書『ペリフュセオン Periphyseon』では万物は「存在するものと存在しないもの」に分割され、その両者を包括して自然naturaと呼んでいる。この自然は四つの種に区分される。①創造し創造されないものcreat et non creatur、すなわちすべてのものの原因である神。②創造され創造するものcreatur et creat、神の知性のうちにあるいっさいの原型つまりプラトンイデア。③創造され創造しないものcreatur et non creat、被造物の世界。④創造せず創造されないものnec creat nec creatur、再び神。 自然の名の下に万物を神の創造による変状と捉える思弁的体系は汎神論と言える。

さらにエリウゲナは非存在としての神に言及する。④は万物が発出された根拠物へ還帰する神化であり、終わりにしてはじまりである。アウグスティヌスの場所と時間論を発展させたエリウゲナは世界の終わりにおいて場所と時間とは発出根拠である神へ還帰すると考えた。④についてはエリウゲナ自身が「それが存在することがありえない不可能なことがらに属している」と書いてある。エリウゲナは神が存在するとも述べるけれど、あくまでもそれは類比の表現であり、彼はその卓越性のゆえに神を、存在を超えた非存在、無nihilとみなした。エリウゲナの「非存在の神」は無から世界を創造し、やがて無へ還帰する。

1225年に教皇ホノリウス三世はエリウゲナの『ペリフュセオン』に異端宣告を下し焚書を命じる。論理学によって導かれたエリウゲナの「非存在の神」は確かに無神論の匂いがする。つまり、神の卓越性を論理学により言表するならば無神論は避けて通れないことをエリウゲナは示した。

のちにドゥンス・スコトゥスが論理学の異なる手法により無神論に陥らない神の卓越性を示す。

参考文献

放送大学「文学批評への招待」第11章フェミニズム批評(1)

学習課題1 ケイト・ミレット『性の政治学』を図書館などで借りて、著者が男性作家の性差別主義的な描写をどのように批判しているか、確認しよう。

「性の政治の諸例」としてケイト・ミレットはまずヘンリー・ミラー『セクサス』の叙述文を引用し、それに含まれる性差別的主義的な描写を「その場面全体はまるで一連の戦略のようであり」とする。そして、一文ごと一語ごとにその策略を暴く。「恥毛(マフ)」の隠語としての意味やアイダについての「動物じみた自己抑制のなさ」の描写と対照的なヴァルの「落ち着きぶり」やすみやかに変わる体位などを分析して『サクセス』という作品に「男性優位の主張」を見出す。さらに、それらをケイト・ミレット自身の用語である「性の政治」を用いて「交接(コイタス)という根元的レベルにおける性の政治の一例である」と断定し、批判する。あたかもヘンリー・ミラーが、父権制イデオロギーに則り、男による女への支配を確固たるものにするような教育的意図を文学的動機として執筆しているかのように思わせる。もしヘンリー・ミラーの執筆活動が父権制イデオロギーを推進するための、その通り、性の政治でありイデオロギーのための戦闘なのだとしたら、ケイト・ミレットのフェミニズム批評という文学批評の手法もまた性の政治であり、革命であり、そして終わることのない性間戦争となる。

放送大学「文学批評への招待」第9章精神分析批評(2)

学習課題2 ギリシア悲劇ソフォクレスの『オイディプス王』を読み、この悲劇が現代人にも感動を与えるとすれば、どこにその理由があるかを考えてみよう。

現代人はもはや近親相姦の禁忌や父殺しくらいでは心を動かされない。『オイディプス王』はエディプス・コンプレックスの解釈では不十分な作品となった。しかし強大な運命に打ちひしがれた人が、その生の一瞬に示した自由意志の輝きには現代人も感動しうる。
スフィンクスの謎解き英雄であるテーバイ王オイディプスは飢饉に苦しむテーバイを救うため、神託に従い前王ライオス殺しの犯人を「全力を尽くして」捜査・前王の仇である犯人を追放すると言う。「さもなくば破滅だ」と誓う。しかし盲目の預言者テイレシアスに「おまえが犯人自身だ」と言われてしまう。また王妃イオカステから前王ライオスが殺された現場の位置を聞かされ、さらに目撃者の話を聞き、前王ライオス殺しの犯人が自分であることを悟る。それでもデルポイの神託「母親と交わって、人が目をそむけるような子らを生み、実の父親を殺すだろう」については、オイディプスの父王であるポリュボスの死の報せを受け、その神託は成就しなかったとオイディプスはひとまず安堵する。しかしすぐに使者からポリュボスはオイディプスの父親ではないと知らされ、様相は逆転する。さらに前王ライオスに仕えていた羊飼の証言と踝の古傷という秘密の暴露によりオイディプスデルポイの神託が成就したことを認知する。前王ライオスを殺したばかりかその前王ライオスが自分自身の父親であり神託の通りに父殺しを犯し、王妃イオカステは自分自身の母親でありその母と交わったとオイディプスは否応なしに知る。神託や踝の古傷という形で匠みに張られた伏線が時間をおいて回収されていく。その度にオイディプスの感情はジェットコースターのように乱高下する。登場時はスフィンクスの謎解き英雄だったオイディプスは両眼を潰した悲運の人へ身をやつし退場する。
抗いきれない運命に翻弄される事態は現代でも起こりうる。多くは運命を呪うだけだ。しかし悲運の人オイディプスは自ら両眼を潰し自らを追放した。なぜなら自らを罰することだけが運命へ抗うために示せる唯一の自由意志だからだ(オイディプス「ありとあらゆる苦しみを私に与えたのはアポロンだ。だが、目を潰したのは、ほかならぬ私自身」(河合祥一郎オイディプス王光文社古典新訳文庫)。スフィンクスの謎解きではないけれど四本足のときは羊飼に救われるだけだった彼はそれからずっと自分の二本足で歩き続けてきた。終幕近くにクレオンは言う「すべて思いどおりにはならぬ。すべてを意のままにできるオイディプスは、もはやいないのだ」と。しかし悲運を呪うだけではなく再び自分の両脚で歩みだしたオイディプスの強さに、現代人は感動するだろう。

自らの呪いを自らに受け、自らその身を追放する

放送大学「文学批評への招待」第8章精神分析批評(1)

学習課題2 ギンズブルグの論文「徴候」(『神話・寓意・徴候』第5章)を読み、推論的パラダイムの系譜について学んだ上で、それを、どうすればテクストの読解に生かすことができるかを考えよう。

推論的範例(パラダイム)は狩人の世界に起源を持つという。十九世紀後半、レルモリエフことモレッリは絵画の鑑定について「個性的な努力の最も弱い部分に個性が見出される」とした。モレッリの評論を読んだフロイトは「不必要なものや副次的な与件が真実を示す」と考えた。コナン・ドイルもモレッリの評論を参考にシャーロック・ホームズが活躍する探偵小説を執筆した。モレッリにフロイトコナン・ドイル、彼ら三人とも医学を学んでいた。医学には症候学という、古代ギリシアヒッポクラテス派により確立された方法論がある。十九世紀後半にこの症候学を基盤とする推論的パラダイムが現れた。この推論的パラダイムをテクストの読解に生かすためには三つの方法が考えられる。

文字数の分析

まずは文字数の分析である。これは文や文章の文字数を比較したり名詞・形容詞・助詞・助動詞などの頻度を算出したりする分析だ。この分析ではテクストが書かれた時期や意味を重視する度合いを計測でき、テクストの性質を推し量れる。たとえば前半と後半で文字数あたりの特定の助詞が使われる頻度が変化したのならば前半と後半とで書かれた時期に隔たりのあるテクストかもしれない。時期の隔たりについては次の単語の分析と合わせても考えられる。

単語の分析

次に使用された単語の分析である。例えば類似した意味を持つ単語や漢字のうちどれが使われているか(知恵か智慧か、座禅か坐禅か、イスラームイスラムか、蝉か蟬か、花か桜か、人工言語か国際補助語か)でテクストのバックグラウンドとなる知識体系を把握し、テクストの志向を掴むことができる。たとえば「イスラム」という単語が使われたテクストはそれほどイスラームアラビア語に詳しくない人の手によるテクストと判断でき、「エスペラント語」という単語が使われたテクストはエスペランティスト以外の手によるテクストの可能性がある。

不在の分析

最後は文脈上必ず言及されるはずなのに言及されなかった単語についての分析である。名数「三」が出され三のうち二は触れて残りの一つに全く触れなかったとしたら、作者にはそれを黙殺する何らかの理由があると解釈できる。とある株式会社に三つの地方支社があり社長文書が二つの支社の来期計画に触れて残りの一支社についてはその名すら上げなかったのならば、その支社には何か問題があり来期には廃止されるとその社長文書は予告していると解釈できる。

三つの方法を挙げたけれど還元主義的批評の傾向が強い。しかしテクスト解釈のために必要な情報を得られるだろう。テクストは「2001年宇宙の旅」の宇宙船のように宇宙に浮かんでいるわけではないのだから。ただ、いずれもテクストの内容で正当付ける必要がある。推論的パラダイムは強者が弱者を管理するためにも使えるし、弱者が強者へ抗するためにも使える。テクストを出し続ける者がいる限り有効な方法論だ。

放送大学「文学批評への招待」第7章ナラトロジー(2)

学習課題3 「私たち」を語り手の人称として実験的に用いた小説に、村上春樹の『アフターダーク』(講談社文庫、2006)がある。この語り手の「私たち」がどのような効果を与えているか(あるいは、与えていないか)を検討してみよう。

「私たち」について、『アフターダーク』本文中に「私たちはひとつの視点となって彼女の姿を見ている。(略)視点は宙に浮かんだカメラとなって、部屋の中を自在に移動することができる」とある。また「私たちは目に見えない無名の侵入者である」「観察はするが、介入はしない」とも書かれている。一人称の「私たち」は内的焦点化を担い、全知全能の神の視点を自分が実際に体験しているような感覚になる。そして読者である私の知らない都市の出来事なのに、私の知っている都市の見慣れた部屋やデニーズやすからいーくで起こった出来事のように思えて、私の身体がその場(たとえば浅井エリの部屋)にいるような感覚になる。それは観客に役者が話しかけるような観客一体型の演劇を観ている感覚に近い。焦点化ゼロで描写されるよりもその体験の感覚ははるかに強いだろう。あまりに強いので、私が知り得ない瞬間のテレビや鏡で今この瞬間も不思議な現象が起こっているかもしれないと恐怖させるほどだ。しかし上記のように、これは「カメラアイ」です、とタネ明かしをされるとなんだか実験に無理矢理参加させられているように思えて興醒めする。そこは仄めかすだけの方が良かった。

アルファヴィルの防犯カメラ解析のシーンがあることから「私たち」はインターネットのユーザー、現在で言えばyoutubeの視聴者やtwitterのフォロワーなどを予想して設定しているのかもしれない。観たがり知りたがる欲望そのままに動き、実際に観て知ることはできるけれどそこで起こっていることには介入できない人たちを。浅井エリの部屋のテレビに映る男がビッグブラザーを模しているのだとしたら「私たち」はリトルピープルだ。「私たち」の複数性には彼らリトルピープルの強迫的な、遍在する気持ち悪さを伝える効果もある。コンビニの棚に白川が置いた携帯電話は言う、

「逃げ切れない。どこまで逃げてもね、わたしたちはあんたをつかまえる」

放送大学「文学批評への招待」第4章小説の分析

学習課題4 ベンヤミンバフチン、アウエルバッハ、バルト、三島由紀夫のいずれかの小説論を読んで、われわれが小説を読むうえで参考になる点を考えてみよう。

作者を殺せば小説の楽園へ至る。そこは小説の父たる作者が支配する意味の家父長制を破壊したあとに現れる、意味のつきせぬ泉を湛える無法地帯の楽園だ。

ロラン・バルトが「作者の死」を書いたあとでも作者はまだ死んでいない。作者の意図を探ろうとし、作者の言葉に憤慨し、作者にそう考えるよう命じられたのかのように考える人は絶えないからだ。確かに数人の読者は誕生しただろう。しかし読者になれない人たちはまだ地球上に蔓延り、とあるエクリチュールを「ヘイトだ」と究極的意味を与え、ほかのエクリチュールを「差別的で偏見を与える」と意味を固定している。例をあげると日本では「ちびくろさんぼ」や「無人警察」などのタイトルをもつエクリチュールで作者の延命が図られた。21世紀になってもエクリチュールに神学的な意味を出現させ憤慨し、そして作者の断罪を望みかつ作者を神として生き長らえさせようとする言説に、TwitterなどSNS上で出合う。実はみんな憤慨と断罪が好きなだけではなく、それ以上に作者と家父長制が大好きなのだ。

偽善的にも読者の権利の擁護者を自称するヒューマニズムの名において、新しいエクリチュールを断罪しようとすることは、ばかげているのだ。(ロラン・バルト著、花輪光訳「作者の死」『物語の構造分析』みすず書房

では、ばかげたことを止め作者を確実に殺すにはどうすべきか? どんなエクリチュールが出されても、誰も悲しまず、誰も憤慨せず、誰も出版停止を訴えない世界、誰もがそのエクリチュールを読解するのではなく解きほぐし、その解釈によって提出された意味に生じる原因と責任を作者に押しつけるのではなく読者の側へと引き寄せられる世界を実現させたのなら作者を殺せる、作者に死を与えられる。

みんなが大好きな作者の、その葬式を済ませることで、はじめて読者は誕生し、エクリチュールの豊穣を楽しむことができる。その世界は「理性、知識、法」を拒否した、新しいエデンの園である。

放送大学「文学批評への招待」第3章詩の分析(2)

学習課題3 日本語の俳句、短歌、近現代詩を一つ選び、自分の得意な言語に翻訳し、翻訳のプロセスにおいて何が起こっているか記述しなさい。

俳句〈わが夏帽どこまで転べども故郷/寺山修司〉をスペイン語に訳す。

mi sombrero de verano

rueda para siempre

no puede salir de mi tierra natal

「わが夏帽/永遠に転がる/わが故郷を抜け出せない」と三行詩へ訳した。

日本語では「わが夏帽」と「転べ」の主述関係は曖昧で、「わが夏帽(が)どこまで転べども」とも「わが夏帽/(Xが)どこまで転べども」とも解釈できる。しかしスペイン語では主述関係が固定されてしまう。三行詩に分かつことで主述関係を曖昧にしようと企図した。

「どこまで〜ども」の翻訳が難しい。「わが故郷の果てへ転がる」と訳すると日本語にはある故郷から抜け出せない感が出ない。「永遠にわが故郷を転がり続ける」でもないのは、そんな延々と続く動きの描写は俳句に必要ではないからだ。俳句は一瞬の景を切り取るとき最も効果を発する。また「わが夏帽がわが故郷を出られない」の否定辞だけでは何の景も描写できていない。ゆえに訳は二番目と三番目を組み合わせた。それでも日本語の「どこまでも〜ども」の悲壮感が消えてしまい、「故郷」の故郷から抜け出せない感や故郷を肯定的に捉えていない感じが消えてしまった。

語学力の問題もあるけれど、これ以上説明する文を加えてスペイン語訳すると俳句ではなく詩となってしまう。

放送大学「文学批評への招待」第3章詩の分析(2)

 学習課題2 萩原朔太郎詩篇を一つ選び、それが「詩」として成立している根拠を示しながら、1000字程度で丁寧に分析しなさい。

萩原朔太郎の「殺人事件」を読む。探偵と探偵のこひびとであり殺された女と曲者の三人の登場人物が出てくる推理小説とも読めるかもしれない。しかしこれは詩だ。なぜならことばをめぐる不確定な感覚を起こさせる意図があり、日本の伝統的な詩形を意識したことばの配置があるからだ。

まず「殺人事件」の舞台や小道具は奇妙だ。探偵は「玻璃の衣装」すなわち硝子でできたこの世ならざる衣装を着ている。殺人現場の床は晶玉であり、その床をながれる血は「まつさを」、血が真っ青とは人間離れしている。殺人現場を出て十字巷路には「秋のふんすゐ」が据えられている。歩道は大理石で敷き詰められている。それら舞台や小道具は現実のものではないだろう。夢の世界や詩のことばだけで形造られた世界と言われたのなら了解できる類のものだ。この不思議な世界で起こる出来事も奇妙だ。ぴすとるは二度鳴った。しかし殺された女の傷は「ゆびとゆびのあひだ」のどうやら一箇所のようだ。しかも、ぴすとるの弾が指と指の間のような箇所を撃ち抜けるとは考えられない。それにしてもどうして血はまつさをなのか。女の屍体の上で女の最期の嗚咽であるかのようにきりぎりすが鳴いているというも奇妙であり異常な事態だ。最後に探偵はなぜこひびとの窓からしのびこんだのだろう。なぜ探偵はうれひを感じているだけで曲者をすべつてゆくに任せるのだろう。探偵の動きは探偵という枠から外れている。これらの奇妙なことばと出来事はことばをめぐる不確定な感覚を読み手に起こさせる。読み手の意識を現実のどこかで起きた殺人事件ではなく、夢のなかの殺人事件などといった空想へ飛ばす力を持っている。

次に、この詩は三つ場面で構成されている。ぴすとるの鳴る場面、探偵と屍体ときりぎりすの場面、そして街の十字巷路での探偵と曲者の場面である。それら三つの場面は繋がっているようでそれぞれ独立している。これら三つの場面は発生順に並べられているというよりまったく別の時系列で起こった場面のようだ。もしかしたら循環して発生するのかもしれない。そんな、関連性が低いようだけれどどこか繋がりのありそうな三つの場面を並べるのは俳諧連歌あるいは連句の付けを意識している。さらに、つめたいきりぎりすが屍体のうへで鳴いているという唐突さは俳句的な二物衝撃の付けを連想できる。そもそも「秋のふんすゐ」という措辞が噴水を夏の季語とする歳時記の前提に立っている。「殺人事件」の作詩の根底には俳句の土壌がある。きりぎりすの有名な句に〈あなむざんや甲の下のきりぎりす/松尾芭蕉〉がある。甲の下のきりぎりすはつまり屍の上であり、かなしい女の屍体のうへで泣くきりぎりすと同じ位置にある。「あなむざんや」が萩原朔太郎の「殺人事件」でも響いている。しかし平家物語への回顧ではなく、現代的な感覚での悲しみへ、響く。

殺人事件

     萩原朔太郎

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。

放送大学「文学批評への招待」第2章詩の分析(1)

学習課題2「詩の批評を通して、それまで見えなかった風景が見えてくることがある。詩のことばを経ることで、世界への新たな眼差しが獲得される可能性について、自身の経験にもとづいて、800字程度で述べなさい。」

金子兜太の俳句に〈暗黒や関東平野に火事一つ〉がある。関東平野には首都圏があり、煌々と明るい夜景があるはずである。しかし俳人関東平野に大きな暗黒のみを見出した。では「火事一つ」とは何だろう。それは崇高な精神を求めてやまない命の燃焼である。

田村隆一の詩「天使」に〈(前略)北斗三等寝台車/せまいベッドで眼をひらいている沈黙は/どんな天使が「時」をさえぎったのか/窓の外 石狩平野から/関東平野につづく闇のなかの/あの孤独な何千万の灯をあつめてみても/おれには/おれの天使の顔を見ることができない〉とある。詩人は鉄道に乗りながら東日本に横たわる巨大な闇を見出し、民家の光を「孤独な何千万の灯」と表現した。そしてそれらの光を集めても「天使の顔を見ることができない」と嘆く。

兜太の句でも「孤独な何千万の灯」が直接書かれていないだけで「関東平野」の言葉にそれらの灯は内包されている。しかしそれらの灯を集めても詩人と同じく兜太の「天使の顔」を見るまでには至らない。だから俳人は他人の灯を借りるばかりでなく、自らを燃やして「火事」を起こした。そしてその明かりで「天使の顔」を拝もうとした。自分は一人しかいないから「火事一つ」なのだ。自棄糞であり焼身自殺的でもあるその詩的態度は滑稽さを求める俳諧の詩ならではの表現であり、同時に童子めく純粋さを秘めた崇高な精神への希求の姿勢だ。

この句に出会って以降、首都圏の夜景を見るたびに、崇高な精神へ到達するため命を燃やす青年の姿を探してしまう。ビルの谷間に、傾斜に犇めく民家のなかに、その凍えるような火事は燃えているのかもしれない。

放送大学「文学批評への招待」第2章詩の分析(1)

学習課題1「一篇の詩を読むことと、一枚の絵画をみることでは、どのような体験の質の違いがあると思うか。800字程度で論じなさい」

一篇の詩を読むのと一枚の絵画をみるとき、詩は徐々に詩であることに気付くのに対し絵画は直感的に絵画であると気付くという点で違いがある。どういうことか。

詩も絵画もまず全体を眺めようとする体験に変わりはない。詩は何ページにも渡って続いていたら全体を把握してからとりあえずその詩がはじまっているだろうと判断できるページを探す。絵画は視界からはみ出すほど巨大ならまず視界に入る部分からみて、徐々に全体を把握しようとする。このように詩も絵画も全体を眺めようとする体験から始める。

しかし、鑑賞をはじめたときからすでに体験の質の違いが生じている。詩はどこがはじまりであれ、ことばを読み始めない限りそれが詩かどうか、他の文学作品や論文ではないかを判断しえない。なぜなら詩は読み進めていくうちにことばをめぐる不確定な感覚を発見する文学作品だからだ。題名から詩と判断して読み始めたら論理的に構成された学術論文だったという事態もおこりうる。これはことばのつらなりである詩を読むうえで避けられない体験だ。つまり詩は読み終わってはじめて詩と気付くし、もしかしたら詩と気付かずに読み終わるかもしれない作品なのだ。

一方で絵画をみるときは、複製か写真か、素材や目的は何であるかに関わらず、それが絵画であることは直感的に判断できる。最初から絵画として鑑賞することになる。