※ 二読目です。(一読目)でも諸事情により書き終えらなかったので、途中まで載せます。
観念への憧れがある。実際の名は実体を表さないし、表された実体も歪で観念には至らない。
五千年後の語彙を想像してみてよ ティースプーンでスコーンを割る 榊原紘
なぜ「ティースプーン」で「スコーン」というティーではない、おそらく硬い食品を割ったのかを榊原は問う。ティースプーンは五千年後にはスコーンスプーンという名に変わっているかもしれない。新商品の開発にも利用されうるような、ことばへの基礎的な問いに満ちた歌集、榊原紘『悪友』書肆侃侃房を読む。
店名の由来はスペルミスらしい指先だけをおしぼりで拭く 榊原紘
実際の店舗かどうかはどうでもいい。焦点は「スペルミス」にある。スペルミスで決められた店名が店名としては正しいスペルでグーグルマップや駅前の地図やホットペッパーや食べログに載っていることを読み手に想像させる。その指先はスペルミスらしい「店名」に触れて経路を検索したのかもしれない。正しさへの疑念を拭うようにおしぼりで指先を拭く。今まで正しいと信じてきたことばが、実は誤記であったかもしれないと読み手に反省させる。
文字化けのむこうにあった文字のよう振り向く前のあなたの貌も 榊原紘
文字化けと文字の関係はスペルミスの店名と正しいスペルの関係と似ている。下の句の振り向く前のあなたの貌は文字の方だから、実際振り向いて見たあなたの貌は文字化けでスペルミスということになる。
指にあるときに指輪は線であり、由来にまつわる話がしたい 榊原紘
ティースプーンとスコーンへの疑問と同じつくりをしている。確かに指輪は指線とも言うべきで、輪ではなく曲線として見える。指のせいで決して輪には見えない。指輪と名付けられたとき、それは指に嵌められていなかった。つまり指輪は指の輪ではなく指への輪だったかもしれない。
ことばへの疑念は社会をつくる仕組みへの疑念である。このような疑念は社会へ怒りや不安を持つ者が抱くことが多い。
半袖は実際三分袖だよね 次暮らす街ってどんなとこ 榊原紘
五分袖に満たない物を半袖と呼ばなくてはならないのである。日常に知性と論理は屈する。
機嫌なら自分でとれる 地下鉄のさらに地下へと乗り換えをする 榊原紘
「地下鉄」は地下を通る鉄道で、「さらに地下へと」と榊原は付け加える。地下のさらに地下はそれでも地下でしかないのだが、そこを通る鉄道に新しい名前をつけられそうな気もする、地下地下鉄とか。
「機嫌なら自分でとれる」は感情のかたちへの推察である。感情とひとくくりに呼んでしまっていたものにストア派のように名前をつけて分類し自分でコントロールしようとする。たとえば衝動と同意のように。名前をつけることで感情というものの原因と結果を分類し、把握する。
ことばから補助輪が外されてなお漕ぎ出した日のことを言うから 榊原紘
子供のときはことばは与えられるもので、社会から与えられた意味を補助輪のようにして生きていけた。しかし自分でことばに意味を与え、名前をつける能力が身についたとき補助輪は外される。「なお漕ぎ出した」人はどんな意味をことばに与えるだろう。
舌という湿原を越えやってくるやさしくなりきれない相槌よ 榊原紘
舌と湿原が強い比喩の関係になるためには舌蕾の形状だけではなく、舌→ことば→失言→シツゲン→湿原という連なりが必要だ。
ゴミの日がかわりますって回覧をまわすくらしに飛び地はなくて 榊原紘
マーガリンなしでジャムだけ塗る朝に飛び級みたいにこいびとになる 榊原紘
「飛び地」「飛び級」は同じような使い方をされている。町内会の回覧を回す日常とパンにマーガリンを塗ってからジャムを塗る日常、前者はないもの、後者はそうしてみたことの喩えとして表される。