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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

「独り歌へる」「別離」「路上」『若山牧水歌集』岩波文庫

諏訪大社上社本宮と神長官守矢史料館うらのミシャグジ社を訪れた日、「独り歌へる」「別離」「路上」部分を読む。〈角もなく眼なき数十の黒牛にまじりて行かばやゝなぐさまむ/若山牧水〉あるべきもののない動物と行く寓話。漂泊の究極形だろう。〈玻璃戸漏り暮春の月の黄に匂ふ室に疲れてかへり来しかな/若山牧水〉消耗して帰宅。〈停車場に札を買ふとき白銀の貨のひゞきの涼しき夜なり/若山牧水〉貨幣の響きに旅立ちの高揚感がある。〈床に馴れ羽おとろへし白鳥のかなしむごとくけふも添寝す/若山牧水〉失墜ののち、家族という安らぎ。〈春白昼ここの港に寄りもせず岬を過ぎて行く船のあり/若山牧水〉出会うということのありがたさ、出会わなくても在るというありがたさ。〈海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり/若山牧水〉眼のなき魚という寓話、「恋しかりけり」で作者の人柄が分かる。〈指に触るるその毛はすべて言葉なりさびしき犬よかなしきゆふべよ/若山牧水〉「その毛はすべて言葉なり」という優しさ。〈しら砂にかほをうづめてわれ禱るかなしさに身をやぶるまじいぞ/若山牧水〉「うづめて」鮮烈な祈りの景、恥のかなしさを含む。

われ二十六歳歌をつくりて飯に代ふ世にもわびしきなりはひをする 若山牧水

「海の声」『若山牧水歌集』岩波文庫

鳶の飛ぶ諏訪湖を見ながら「海の声」部分を読む。〈白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ/若山牧水〉「青」と「あを」を書き分けたのは空と海の色の違いによるものだろうけれど、やや理屈っぽいかもしれない。俳句なら同じ漢字を使う。〈海明り天にえ行かず陸に来ず闇のそこひに青うふるへり/若山牧水〉や〈海の声そらにまよへり春の日のその声のなかに白鳥の浮く/若山牧水〉の方がごつごつしているが、神々しい。〈夕海に鳥啼く闇のかなしきにわれら手とりぬあはれまた啼く/若山牧水〉は〈淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほゆ/柿本人麻呂〉を思わせるかなしさ。〈片ぞらに雲はあつまり片空に月冴ゆ野分地にながれたり/若山牧水〉は野分に動く雲という巨大な景を描く。それにしても「片ぞら」「片空」で書き分ける必要はあるのだろうか。〈春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるかな木の芽ふく山/若山牧水〉闇に潜在する匂い立つような生命力について。〈幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく/若山牧水〉長野県の山を巡るときとは違う感じが中国山地を巡るときにはある。歴史の感覚と神話の感覚と。そして〈旅ゆけば瞳痩するかゆきずりの女みながら美からぬはなし/若山牧水〉は旅詠らしさがある。

玉葉和歌集の冬

都田図書館へ行ってみたくなった日、「冬」部分を読む。〈おのづから音する人もなかりけり山めぐりする時雨ならでは/西行法師〉さびしさのはてなむ国ぞ。〈神無月時雨飛び分け行雁の翼吹き干す峰の木枯らし/後鳥羽院御製〉「翼(を)吹き干す」の技巧は写実を超えるほどに映画的。〈夕時雨嵐に晴るゝ高嶺より入り日に見えて降る木の葉哉/よみ人しらず〉橙の薄日にちらちら散る木の葉が見える遠景、美しい。この遠景のちらちらする複数色の美しさは〈暮れかゝる夕べの空に雲さえて山の端ばかり降れる白雪/前大納言為氏〉も。〈落ち積もる木の葉ばかりの淀みにて堰かれぬ水ぞ下に流るる/平宗泰〉清濁、動静の対比がある、〈早き瀬は猶も流れて山川の岩間に淀む水ぞ氷れる/権中納言公雄〉とも。〈時雨降る山のはつかの雲間より余りて出る有明の月/前大納言為家〉「余りて出る」という描写の力だ。〈淡路島瀬戸の潮風寒からし妻問ふ千鳥声しきるなり/前参議経盛〉淡路は逢はじ、地名と境遇と。〈下折れの竹の音さへ絶えはてぬあまりに積もる雪の日数に/民部卿為世〉音の絶える雪の深さと竹林の奥深さ、青と白、明と暗とが映える。

玉葉和歌集の秋

若山牧水の「梅雨紀行」を読んだ日、「秋」部分を読む。〈尾花のみ庭になびきて秋風の響きは峰の梢にぞ聞/永福門院〉庭という近景と峰の梢という遠景とを同時に見て、聴いている。この近景と遠景を併置するのは〈我が門の稲葉の風におどろけば霧のあなたに初雁の声/伊勢〉も。〈山の端の雲のはたてを吹風に乱れて続く雁のつら哉/前中納言定家〉「乱れて続く」という動きの描写が壮大。空飛ぶ鳥は地を這う獣の数倍も数十倍も広がって散らばる。〈宵の間の群雲のづたひ影見えて山の端めぐる秋の稲妻/院御製〉「山の端めぐる」という雷光の動き、鮮烈だね。〈海の果て空の限りも秋のよる野月の光のうちにぞ有ける/従二位家隆〉と〈人も見ぬよしなき山の末までに澄むらんつきの影をこそ思へ/西行法師〉は月光の領域化についての歌だ。〈明石潟浦路晴れ行朝凪に霧に漕入る海人の釣り舟/後鳥羽院御製〉技巧はさておき、霧の海と晴れの海がこもごもするなかで霧へ突っ込む釣り舟の悲愴さが際立つ。〈衣打つ賤が伏屋の板間あらみ砧の上に月洩りにけり/醍醐入道前太政大臣〉「月漏りにけり」とは田園的で、写実的である。

玉葉和歌集の春

「春」部分を読む。〈木々の心花近からし昨日今日世はうす曇り春雨の降る/永福門院〉木々の花咲かんとする心を春雨に仮託している。そこに、作者の心もまた入りこむ。〈折りかざす道行き人のけしきにて世はみな花の盛をぞしる/永福門院〉「折りかざす」は貴族趣味のようであり、現代人には人工と自然の錯誤のおもしろさとも読める。花の枝を折る行為については〈枝しあらばまたも咲きなん風よりも折る人つらき花桜哉/前参議教長〉を参考に。〈散り積もる庭に光を映すより月こそ花の鏡なりけれ/源光行〉光の主客転倒がおもしろい。これが心の絶対優位と言葉の自由ということだ。もちろん現代人なら月が鏡に過ぎないことは知っているけれど。〈庭の面は埋み定むる方もなし嵐に軽き花の白雪/津守国助〉「埋み定むる方もなし」で白の躍動が伝わる。〈吹弱る嵐の庭の木の本に一むら白く花ぞ残れる/前参議家親〉「吹弱る嵐」の変化が「一むら」へ収束していく。

二つの読層

セブンイレブン静岡東名インター店だった。浜松へ帰る水分を確保するべく伊藤園の濃い茶を手にとるとこんな句が第三十回伊藤園新俳句大賞都道府県賞として掲載されていた。

化学式雪解けの日はまだ遠い/岡元愛瑠

和歌山県賞だったのだろう。ある読層では、「化学式」から学校の教室を想像させる。「雪解けの日はまだ遠い」は春の季語「雪解」を冬の季感を表すために使っている。厚い冬雲の下、教室の窓から積雪を見下ろす生徒たちの姿が見える。将来への不安、たとえば大試験への不安を想像させる。

別の読層では化学式の点と線のつながりと、雪の結晶を連想させる。科学的な解への道筋の遠さのようなものを思わせる理知的な暗示がある。化学式がそのまま雪の結晶を示しそうにない不安定さも、句のひとつの魅力となっている。

これら二つの読層が重なり合い、調和しあう面白い句だ。


化学式雪解けの日はまだ遠い/岡元愛瑠15歳

玉葉和歌集の夏と旅

叙景に徹すれば詩は永遠になると思い、『玉葉和歌集』の夏歌を読む。〈を山田に見ゆる緑の一村やまだ取り分けぬ早苗なるらん/前右近大将家教〉起伏のある緑の喜び。〈五月雨は晴れんとやする山の端にかゝれる雲の薄くなり行/今上御製〉雲と光が山の端をめまぐるしく動く。〈篝火の影しうつればぬばたまの夜河の底は水も燃えけり/貫之〉「水も燃えけり」という心象写生。〈こゝのみと煙を分けて過ぎゆけばまだ末暗き賤が蚊遣火/入道前太政大臣〉賤の家の奥行きの深さを闇の深さとして描く。〈闇よりもすくなき夜半の蛍哉おのが光を月に消たれて/藤原為守女〉蛍光を消す月光という、闇のなかの光の氾濫。〈行きなやむ牛の歩みに立つ塵の風さへあつき夏のを車/前中納言定家〉牛の怠そうな息も聴こえてきそうな暑さ。〈風早み雲の一むら峰越えて山見えそむる夕立のあと/院御製〉気象変化のダイナミズム。〈とまるべき陰しなければはるばると濡れてを行かん夕立の雨/右兵衛督基氏〉「濡れてを行かん」の威勢の良さ。〈入日さす峰の梢に鳴く蝉の声を残して暮るゝ山もと/民部卿為世〉蝉が消えても「声を残して」とする秀逸。〈暮れかゝる遠ちの空の夕立に山の端見せて照らす稲妻/藤原定成朝臣〉は〈宵の間の群雲づたひ影見えて山の端めぐる秋の稲妻/院御製〉ほど動きはないかわりに濡れた光を強調している。〈この比(ころ)ぞ訪ふべかりける山里の水せきとむる松の下陰/後光明峰寺前摂政左大臣〉「水せきとむる」は光も音もあり、匂いもある。〈岩根つたふ水の響きは底にありて涼しさ高き松風の山/大江宗秀〉水の響く谷底と「涼しさ高き」という空と高低差のある景を描く。

旅歌も読む。〈泊まるべき宿をば月にあくがれて明日の道行く夜半の旅人/前大納言為兼〉月狂いと言うべき旅。〈浪の音を心にかけて明かす哉苫洩る月の影を友にて/西行法師〉漁村の月夜、孤独という楽しみ。〈あま乙女棚無し小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞ゆ/笠金村〉「棚無し小舟」は時代を超える。

垂直/浅川芳直

関西現代俳句協会青年部招待作品「垂直」を読む。〈はめごろし窓へかたまる春の蠅/浅川芳直〉はめ殺しという建具の名には猥雑さと残酷さが秘められている。「春の蝿」とは言え蝿の密集はその名が秘めたものを滾らせる。いや、「春の」だからこそはめ殺しという形に囚われた若さという視点が加わる。〈白ばらへ雨の垂直濁りけり/浅川芳直〉垂直という雨の「正しさ」が濁るほどの白薔薇の無垢さ、白さと読める。

「風蝕」『林田紀音夫全句集』富士見書房

句日記を寄稿したZINE「今だからvol.1」(ぽんつく堂)が届いた日、「風蝕」部分を読む。〈月光のふたたびおのが手に復る/林田紀音夫〉この前は月面にいて月光を手にかざしたの。〈松の花水より速きものを見ず/林田紀音夫〉水辺、風のない日に咲いた松の花。〈揚羽出て高さ失ふ水の上/林田紀音夫〉揚力を水のやわらかさに失う、ふいに魔法が切れたかのように。〈釘錆びてゆけり見えざる高さにて/林田紀音夫〉釘が錆びるのは建物の憧憬のような高みである。〈死は易くして水満たす洗面器/林田紀音夫〉洗面器を満たす水とは鬱気のようなもの、波立つことなくトロトロと溜まる静かな爆発物のようなもの。〈麦刈られ頸たるませて牛通る/林田紀音夫〉壮絶な瞬景、牛のたるませた頸とはすぐに刃で切られる頸である。〈顔洗ふときにべとつく雨の音/林田紀音夫〉「べとつく」とは募るどうしようもなさ、うなだれるように顔を洗う。そのとき使うのは水満たす洗面器だろう。〈ドラム罐叩きて悪き音愉しむ/林田紀音夫〉悪きとは雑音であり、道徳的に裏側な音、ジャズかもしれない。〈将棋さすネクタイに首つながれて/林田紀音夫〉と〈銀行がネオンをのこし酔ひきれず/林田紀音夫〉は終業後のサラリーマンたちの終業後でも会社や経済の呪縛から逃れられない悲哀であろう。〈死のごとき夜の颱風を素手で待つ/林田紀音夫〉颱風とはおとなたちの神話である。素手でなんとかできると信じこんでいる。〈仮眠四時間硝子一重に貨車ひびき/林田紀音夫〉せまい駅構内や車両での夜勤の過酷さ、「硝子一重」という騒音の生々しさ。〈銃口の深い暗さが僕らの夜空/林田紀音夫〉闇のなか、光は銃口からしか見えないから。〈食へない都市の空に鉄骨はびこらす/林田紀音夫〉資本主義がいくら蔓延するように発達してもそのおこぼれすらこの手には転がってこない。〈黄の廃水を河へ刺すくたびれた街/林田紀音夫〉「廃水を河へ刺す」という殺伐さはくたびれた街の油断から生じる。

鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫

「紫薇」『澁谷道俳句集成』沖積舎

枇杷の種を埋めた日、「紫薇」部分を読む。〈木の実独楽直立せねばうなされて/澁谷道〉均衡を失いはじめた木の実独楽を「うなされて」という把握の見事さ。〈肩先を秋の岬にして男/澁谷道〉故郷すべてが身体であるかのような男について。〈ほのぐらく茶漬の音す雛疲れ/澁谷道〉女の子の成長を祝う日に仄暗い隅においやられた女たちの疲労、彼女たちの啜る茶漬という現実。〈照る雲と降る雲の間の白木槿/澁谷道〉明暗ともに一瞬の天気のすきまに光る木槿の白。圧倒的な美学、そして景が大きい。〈えんとつに雌雄のありし花野末/澁谷道〉花野のはてに煙突が二本という素景。モノクロームが似合う。〈行きがたし美濃はしぐれて二色刷/澁谷道〉美濃の観光案内、二色刷りのパンフレットだろうか。美濃は斎藤道三明智光秀の粗忽な国である。〈夏の旅傷縫う糸でとじおわる/澁谷道〉手術を終えるかのような夏の旅でおしまい。

雷を負う雲のひとりに道を訊き 澁谷道

「縷紅集」『澁谷道俳句集成』沖積舎

第三十一回伊藤園お~いお茶新俳句大賞の二次審査通過のお知らせが届いた日、「縷紅集」部分を読む。〈鏡拭けば廃村という春景色/澁谷道〉鏡の曇りを拭うと廃村の春の景色が映っていた。人が絶え自然の繁茂する、やわらかい景なのだろう。〈廃屋曾て雛の具をちりばめし闇/澁谷道〉廃村につづき廃屋、その隅の闇はそんじゃそこらの闇はではなく娘らが住み雛祭りをした闇なのだという。賑やかさの名残り。〈白地図の折り目におとなしき蛇/澁谷道〉地図が蛇の頭脳のプログラムであれば、白地図であるがゆえに蛇はまだおとなしいということか。「折り目」という把握のすごさ。〈抱けば硬き小犬のあたま野分くる/澁谷道〉やわらかそうな小犬の頭蓋骨が硬いという驚き、死の骨格に触れたような野分。〈猫を追うわが足あとは桃の花/澁谷道〉浮かれ猫ほどに追う吾も浮かれている。〈ほのぐらき電流曳けり大揚羽/澁谷道〉電流は大揚羽の生命の痕跡である。〈肉野菜はげしく炒め稲曇り/澁谷道〉稲曇りは未詳だが、稲刈のときの曇り空だろう。秋夕の中華料理屋の灯りとかを思う。食の氾濫。〈闇汁の闇のつづきに渡し舟/澁谷道〉「闇汁の闇のつづき」という手放せない機知がある。〈藻の青でベッドを覆い旅にたつ/澁谷道〉そのベッドはしばらくは寝ないベッドだ。

鳥撃つ日レモンの天国的黄色 澁谷道

見ると籠る

 折ゝに伊吹を見てや冬籠 芭蕉

「見る」と「籠る」、つまり自分の視界を確保しながら他者の視線から身を守るような振舞い癖、この二つの相矛盾するしぐさを同時に充たす生活空間を人は好むという理論の基本を、わたしは英国ハル大学の地理学者アプルトン氏に負うのである。この対行動とは、要するに、動物としての人間がその生存を全うせんとする願望に由来するとアプルトン氏はいう。(中村良夫『風景学入門』中公新書

プルトン氏とはジェイ・アップルトンJay Appletonであり、眺望 – 隠れ場理論 prospect-refuge-theoryの提唱者だ。折々の句は大垣の千川亭で作られた。実景はどうであろうと、冬籠という言葉が「見る」側をとりまく籠りの景色を作り出している。「見る」はその行為を他者に見せている。現代ではこんな「見る」もある。

 毛布から白いテレビを見てゐたり 鴇田智哉

白いテレビに何が映っているのか、津波原発事故か。それも気になるけれど景は毛布にくるまり籠る人の映像で占められる。その人はきっと生存を全うせんとする願望を抱いている。

山田耕司『不純』左右社

浜松市立図書館臨時休業の最終日、山田耕司『不純』左右社を読む。〈ペンギンは受話器にあらず半夏生/山田耕司〉黒と白の詩なので、受話器は黒電話となる。もちろんペンギンは受話器でもいい。〈いきんでも羽根は出ぬなり潮干狩/山田耕司〉海と空とをつなぐ大きな景だと思う。もちろんいきんで背中から羽根が出てもいい。〈交番に鯛焼の来て帰らざる/山田耕司〉買い物袋の鯛焼に焦点をあてて泳げたい焼きくんの世界を再現した。〈狼のまだおりて来ぬすべりだい/山田耕司〉狼は絶滅しているからおりて来る来ないの前にもういないのかもしれないけれど「まだおりて来ぬ」としたことですべりだいの上には狼が「いる」。〈うぐひすやボタンの数にあなの数/山田耕司〉ボタンを押すと凹むのは同じ数だけのあなにボタンがはめられているから。鳥、多くの鳥には暗い樹のむこうに装置が潜在している、そのような共感として読んだ。〈枝豆や脱ぐにバンザイさせあうて/山田耕司〉つるんとしているという驚きが脱衣にはある。〈このレヂと決め長ネギを立てなほす/山田耕司〉レヂは滑走路だと思う。〈はらわたを暗さと思ふ柚子湯かな/山田耕司〉柚子湯の明るさに裏打ちされた入浴者の内臓の暗さ。山田耕司VS山田耕司は赤二点、白六点。〈焚き火より手が出てをりぬ火に戻す/山田耕司〉戻すのは復活しないように。実景だろう。〈日に脚のありて伸ぶるを金盥/山田耕司〉日脚の脚を強調させる。金盥は日の具体化であり日脚と日を同等表している。〈合掌のひとりは蝶を籠めしこと/山田耕司〉合掌を開くとたちまち蝶は消える。〈ふるさとや玉にラムネの底とほく/山田耕司〉玉は底に届きそうで決して届かない、〈故郷や臍の緒に泣く年の暮/松尾芭蕉〉と同じく製造過程の景を思わせるけれど掲句は景を描くことに専らしており芭蕉から三百年たったのだと思わせる。

初日射すので立ち方は毛沢東 山田耕司

句集 不純

「桜騒」『澁谷道俳句集成』沖積舎

特別定額給付金の申請書を投函した日、「桜騒」部分を読む。〈ぬぎすてて春着へ移す夜の重心/澁谷道〉身体の重みをふと無くしたかのように脱ぐ。これは脱ぎ方についての句であり裸身が青白い。〈鮭とボサノバ喉いっぱいの夕映え/澁谷道〉鮭という魚類のもつ性質の暗さとボサノバの音の冥さとが夕映えに響き合う。もちろん暗愁saudadeがある。〈冷房の紅茶一碗はりつめて/澁谷道〉「はりつめて」は紅茶を飲もうとする人の緊張の投影である。〈のうぜんへ血の繋がらぬ土運び/澁谷道〉「血の繋がらぬ」は土葬を思わせる。そして地の赤と天の赤との対比も思わせる。〈木槿萎え神さまはピンセット状/澁谷道〉新しい神話と言える。萎えとピンの対照性。〈潮風のざくろよ信管抜かれて/澁谷道〉海際の柘榴を爆発物に喩えるけれど信管が抜かれたので爆発はしない。潜在的な爆発だけを秘めて潮風に干からびてゆく。

メロンと毬百個すりかえ夢心地 澁谷道

「藤」『澁谷道俳句集成』沖積舎

第四回円錐新鋭作品賞選考座談会にて拙作「動物園前」の〈鯛焼の影より鯛焼は剥がれ/以太〉〈遅刻してゐる外套を出られない/以太〉〈影淡きアイスクリームつみあがる/以太〉などが言及されたと知った日、「藤」部分を読む。〈グラスみな水の粒著て夏至時刻/澁谷道〉夏至時刻という湯気のために視界の曇る時間にグラスが映える。〈土雛の拭きても拭きても暗き赤/澁谷道〉拭いても拭いても残る「暗き赤」とは血脈というより陋習のようなもの。〈春の蟬父の眼鏡にとどかざる/澁谷道〉春の蟬からは松林、海岸沿いの防砂林などが連想できる。父と訪れた海岸の思い出が蟬の声でふとよみがえる。〈玉霰つねに背をみせピアニスト/澁谷道〉荒天に!ふりかえり顔を見せることはない楽器の一部と化したかのような演奏。〈雪霏霏と版畫のはてしなき餘白/澁谷道〉余白を彫りつづけた人がいるということ。〈あんず噛む鼓膜のそとの靑空よ/澁谷道〉鼓膜のそとの青空とは鼓膜が聴覚するまえの音だろう、咀嚼音して骨を伝わる音との違いを際立たせてもいる。〈手花火を暗い切株へ贈らう/澁谷道〉切株は神の座であるがゆえに。〈西日ごし鈴蟲ほろぶ土の色/澁谷道〉土の色は変わりはないけれどそれを見る視線に変化がある。〈梔子や夜明けの扉輕くあく/澁谷道〉軽くあいた扉とはそこから漂う梔子のにおいのことである。〈鵯のなきがらも冷ゆ花器の水/澁谷道〉「も」ということは花器に差さる花とはなきがらである。

すみれ摘み盡して雲へ移住する 澁谷道