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以太以外

病名は人間性や夕野分 以太

楠誓英『禽眼圖』書肆侃侃房

太さが一歳児の胴回りくらいあり、大人の背丈ほどの長さのある鰻を三匹、大きな睡蓮鉢に飼う夢を見た日、楠誓英『禽眼圖』書肆侃侃房を読む。〈自転車が倒れ後輪は回るまはるさうして静まるまでを見てゐき/楠誓英〉自転車を起こそうとしない、ただ車輪が止まるのを見ているというのは児戯のようであり、無気力の世界だ。〈轢かれたる獣の皮がこびりつき車道しづかに恩寵を受く/楠誓英〉轢死獣は胙だった。〈伏せられしボートのありてこんなにも傷はあるんだ冬の裏には/楠誓英〉ボートの裏を「冬の裏」とする断定は詩ならでは。〈海に花手向けるときのくらさにて少女は抱いた子猫を放す/楠誓英〉「くらさ」は現実の景色ではなく心象風景だろう。〈夕ぐれの名の無き橋をすぐるとき無名の闇になりてゆくかも/楠誓英〉名の無い橋を過ぎたものは名を喪う。〈大瀧の落つる先にも小さき瀧どこまで一つの時間なのだらう/楠誓英〉時間にいまとルビ、瀧と時間は流れてゆき二度と戻らない。〈電球をかへてうつむく少年は眼窩の深きひとりの男/楠誓英〉電球をさすソケットと眼窩の共通項に触れようとしたのかもしれない。〈薄明をくぐりて眠るわがからだ枕の下を魚が泳ぎぬ/楠誓英〉「魚」は安心感の表れ。

飛び立つた空の深さをおもひけり有刺鉄線にこびりつく羽根 楠誓英

服部真里子『遠くの敵や硝子を』書肆侃侃房

メガドンキの遊び場で一歳半の吾子から玩具をことごとく奪い玩具を専有していた四歳くらいの男の子。数分後に彼が迷子としてアナウンスされていた日、服部真里子『遠くの敵や硝子を』書肆侃侃房を読む。〈梔子をひと夏かけて腐らせる冷えた脂を月光という/服部真里子〉「冷えた脂を月光という」という謎めいた説得力、〈目を閉じたまま顔を上げ月光と呼ばれる冷たい花粉を浴びる/服部真里子〉の「冷たい花粉」も強い。〈風がそうするより少していねいに倒しておいた銀の自転車/服部真里子〉「銀の自転車」ゆえに少し丁寧に倒したのか、神へ近づく命名。銀の特別さは〈人の死を告げる葉書にまぼろしの裏面ありて宛先の銀/服部真里子〉にも。〈神様と契約をするこのようにほのあたたかい鯛焼きを裂き/服部真里子〉種無しパンのように鯛焼きを。〈君を去る船団のようなものを見たある風の日の床のざらざら/服部真里子〉「君を去る船団」という虚のイメージの強烈さ。〈前髪をしんと切りそろえる鋏なつかしいこれは雪の気配だ/服部真里〉感覚の言語化、そして共通項を見つける技量の鮮やかな一面。

夕闇に手をさし出せばこぼれくる桜は乳歯のほの明るさで 服部真里子

第十二回十湖賞俳句大会

建国記念日、流通元町に建つ浜松市総合産業展示館北館四階のホールで開催された十湖賞俳句大会に、東区長賞受賞者として参加した。座席は最前列となった。


十湖賞東区長賞 風音の映りこむまで墓洗う 尾内以太

プロフェッショナルな司会のもと、表彰式は淡々とそして厳かに進んだ。十湖大賞の高校生が「プロ野球選手になりたい」と言っていたのが好印象、夢に向かって全力で挑戦し、もし一敗地に塗れても俳句があるのは幸いだ。表彰式のあとは審査員の評があった。小学生の部の十湖賞受賞句は全句切れだとか、中学生の部の十湖賞受賞句の「書初め」が季語の本意から外れるとか、内野からか外野からかは分からないけれど異論が出たようだ。選句は競走や競泳や競馬ではないのに。審査員の苦労がしのばれる。髙柳克弘氏が一般の部の奨励賞〈大地踏みヒップホップの若葉かな/松井美佳〉の句を例に「多様な俳句に対応できる十湖賞でありたい」と言っていたのが強く心に残った。「書初め」のアクセントがことごとく半袖式の遠州弁であったのと同じくらい心に残った。


十湖賞俳句大会

 

吉岡太朗『世界樹の素描』書肆侃侃房

西の方言というよりファンタジー世界の長生きする小人の話し方で吉岡太朗『世界樹の素描』書肆侃侃房を読む。〈葉が紅こうなる話などして君は会いたさをまたほのめかしてる/吉岡太朗〉紅葉は恋愛感情の比喩として楽しい。〈カーテンがふくれて夜の王国の国境線が引き直される/吉岡太朗〉風にふくらむカーテンの裏側にある政治的な駆け引き。〈100よりよなぜか大きい数のようきみのテストの98は/吉岡太朗〉0や1よりも8や9の方が大きい数なんだよね。〈自転車が自転車を抜く遠景の橋 そこに感情はあったんやろか/吉岡太朗〉それとも無感動に抜いたのか、あらゆる事象に意味と感情を見出そうとする過敏な時期。〈たいせつなレシートばかりポケットにうしないやすき夕冷えの風/吉岡太朗〉たいせつなものばかり無くしてきた私だった。

洞窟をたまの散歩にだしてやる洞窟用のリードをつけて 吉岡太朗

放送大学「文学批評への招待」第2章詩の分析(1)

学習課題2「詩の批評を通して、それまで見えなかった風景が見えてくることがある。詩のことばを経ることで、世界への新たな眼差しが獲得される可能性について、自身の経験にもとづいて、800字程度で述べなさい。」

金子兜太の俳句に〈暗黒や関東平野に火事一つ〉がある。関東平野には首都圏があり、煌々と明るい夜景があるはずである。しかし俳人関東平野に大きな暗黒のみを見出した。では「火事一つ」とは何だろう。それは崇高な精神を求めてやまない命の燃焼である。

田村隆一の詩「天使」に〈(前略)北斗三等寝台車/せまいベッドで眼をひらいている沈黙は/どんな天使が「時」をさえぎったのか/窓の外 石狩平野から/関東平野につづく闇のなかの/あの孤独な何千万の灯をあつめてみても/おれには/おれの天使の顔を見ることができない〉とある。詩人は鉄道に乗りながら東日本に横たわる巨大な闇を見出し、民家の光を「孤独な何千万の灯」と表現した。そしてそれらの光を集めても「天使の顔を見ることができない」と嘆く。

兜太の句でも「孤独な何千万の灯」が直接書かれていないだけで「関東平野」の言葉にそれらの灯は内包されている。しかしそれらの灯を集めても詩人と同じく兜太の「天使の顔」を見るまでには至らない。だから俳人は他人の灯を借りるばかりでなく、自らを燃やして「火事」を起こした。そしてその明かりで「天使の顔」を拝もうとした。自分は一人しかいないから「火事一つ」なのだ。自棄糞であり焼身自殺的でもあるその詩的態度は滑稽さを求める俳諧の詩ならではの表現であり、同時に童子めく純粋さを秘めた崇高な精神への希求の姿勢だ。

この句に出会って以降、首都圏の夜景を見るたびに、崇高な精神へ到達するため命を燃やす青年の姿を探してしまう。ビルの谷間に、傾斜に犇めく民家のなかに、その凍えるような火事は燃えているのかもしれない。

放送大学「文学批評への招待」第2章詩の分析(1)

学習課題1「一篇の詩を読むことと、一枚の絵画をみることでは、どのような体験の質の違いがあると思うか。800字程度で論じなさい」

一篇の詩を読むのと一枚の絵画をみるとき、詩は徐々に詩であることに気付くのに対し絵画は直感的に絵画であると気付くという点で違いがある。どういうことか。

詩も絵画もまず全体を眺めようとする体験に変わりはない。詩は何ページにも渡って続いていたら全体を把握してからとりあえずその詩がはじまっているだろうと判断できるページを探す。絵画は視界からはみ出すほど巨大ならまず視界に入る部分からみて、徐々に全体を把握しようとする。このように詩も絵画も全体を眺めようとする体験から始める。

しかし、鑑賞をはじめたときからすでに体験の質の違いが生じている。詩はどこがはじまりであれ、ことばを読み始めない限りそれが詩かどうか、他の文学作品や論文ではないかを判断しえない。なぜなら詩は読み進めていくうちにことばをめぐる不確定な感覚を発見する文学作品だからだ。題名から詩と判断して読み始めたら論理的に構成された学術論文だったという事態もおこりうる。これはことばのつらなりである詩を読むうえで避けられない体験だ。つまり詩は読み終わってはじめて詩と気付くし、もしかしたら詩と気付かずに読み終わるかもしれない作品なのだ。

一方で絵画をみるときは、複製か写真か、素材や目的は何であるかに関わらず、それが絵画であることは直感的に判断できる。最初から絵画として鑑賞することになる。

「バリケード・一九六六年二月」『福島泰樹全歌集』河出書房新社

天竜川河口付近、太平洋を前に、強い北風で子が泣く。そんななか『福島泰樹全歌集』の「バリケード・一九六六年二月」部分を読む。〈一隊をみおろす 夜の構内に三〇〇〇の髪戦ぎてやまぬ/福島泰樹〉戦闘前夜の緊張、〈検挙されなかったことを不覚とし十指もろとも凍る手袋/福島泰樹〉悲愴へ迸る、〈奮迅したる友へ差入れなにもなしポッケの底のライオン歯磨/福島泰樹〉必需品だけを持ち街にある。〈あまつさえ時雨はさびしきものなるをコーヒー店に待機している/福島泰樹〉闘争のさなかコーヒー店に待機する、というリアリズム。〈はいりきてレイン・コートを脱ぎ捨てしわかものの髪もうかわくまい/福島泰樹〉「もうかわくまい」とは永遠のわかものなるがゆえに。〈飛沫するレイン・コートを纏いしは無残なりわが暁の帰路/福島泰樹〉痛いほどの敗北感をレインコートの重みに変えて。

五月あまりに豊饒なるをわがためにひとり少女が切りし黒髪 福島泰樹

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』青磁社

卸本町でアリィの冬と夏「内と外のリフレクション」を観て、俳句と工芸の融合について考えた日、岡田一実『記憶における沼とその他の在処青磁社を読む。〈闇鍋の闇を外せぬぬめりやう/岡田一実〉闇鍋の闇は趣向ではなく必要、だった。〈碁石ごと運ぶ碁盤や梅月夜/岡田一実〉ゴ音の頭韻に梅月夜が丁寧に付くつくり。〈夜を船のよぎる音聞く桜かな/岡田一実〉運河か河口か港か、大きな景から桜という中くらいの景へ、自己から離れたところに意識を飛ばし、それでいて自己の範囲を探るかのような。〈焼鳥の空飛ぶ部位を頂けり/岡田一実〉「空飛ぶ部位」を食するのは類感魔術めいた魅力がある。〈中庭を抜ける明るさ榠樝の実/岡田一実〉中庭は精神病棟によく似合う、さらにその只中にごつごつと榠樝の実。〈立つて食ふサンドヰッチや誘蛾灯/岡田一実〉夜のコンビニエンスストア。〈廃坑や莢蒾の実の雨を帯び/岡田一実〉捨てられる運命にある廃坑と生命力の繁茂とも言える莢蒾の実の奇妙とも言える対比。

室外機月見の酒を置きにけり 岡田一実


アリィの冬と夏、アルラ玄関

「蝶日」『柿本多映俳句集成』深夜叢書社

俳句の解釈は夢日記と似ている。覚えていられる夢は文字情報にして二十文字に満たないだろう。夢景を文字に置き換えてそれに加えて夢日記とする、その工程は俳句の解釈と類似している。「蝶日」部分を読む。〈朽ち舟の繫がれてゐる桃畠/柿本多映〉熟れ桃の崩れやすさと腐れ木の朽ちやすさ、桃太郎の老後をふと思う。〈桜満ち真塩の乾く夜なりけり/柿本多映〉頭上の白と足下の白、鹵花。〈風はらむ花野や指の漂へり/柿本多映〉指とは触覚、花野や秋風へと触覚が魂のように飛ぶ。〈草が生え濡れはじめたる春の寺/柿本多映〉濡れ、湿るのは春の兆し。不浄の寺だから無垢な命の芽生え。〈かたつむり死して肉より離れゆく/柿本多映〉肉から離れるのはかたつむりというイデア≒形相、置いていかれる肉は質料。〈蛇眠る山より蒸気たちのぼる/柿本多映〉生命の煮える蒸気として、いったい一山に何万匹の蛇が眠るのか〈てふてふやほとけが山を降りてくる/柿本多映〉童子めく春の仏の歩みはてくてく、いや、てふてふ。

水飯のびつしり詰まり天の川 柿本多映

眞鍋呉夫『雪女』沖積舎

湯谷温泉、アマゴの塩焼がおいしい梅の宿で板敷川こと宇連川を見下ろしながら眞鍋呉夫『雪女』沖積舎を読む。〈花冷のグラスの脚の細さかな/眞鍋呉夫〉花見で芳醇のカクテル、脚の細さは花冷の心もとなさ。〈抗鬱のカプセル溶けぬ月夜かな/眞鍋呉夫〉夜と消化器とが溶け合う。〈初螢みづかな光るほかはなく/眞鍋呉夫〉月光の手も借りられない、か弱い蛍火。〈腑分圖の靜脈靑き梅雨入かな/眞鍋呉夫〉想像する内臓の湿り気と梅雨の湿度と。〈防毒面かぶりし我とすれちがひ/眞鍋呉竹〉顔を隠してなぜ「我」と気づいたのか。

去年今年雪降りしきる閉伊郡 眞鍋呉夫


湯谷温泉と宇連川

鴇田智哉『こゑふたつ』木の山文庫

東三河で鴇田智哉『こゑふたつ』木の山文庫を読む。〈朽ちてゆく舟あり合歓の花が咲き/鴇田智哉〉眠りと朽ちの淡い共鳴、伊勢の小漁港であり〈いくつもの船がこはれて春をはる/今井杏太郎〉なのだろう。〈たんぽぽを摘んで頭がかるくなり/鴇田智哉〉摘んで立ち上がった、立ちくらみのような脳内血管の血流の変化をよく捉える。〈砂の音してゆふだちのはじまりぬ/鴇田智哉〉雨滴ではなくその行き着く果てに着目する。〈障子から風の離るる音のあり/鴇田智哉〉風の来るのと離れるのはほぼ同時であり、その一方に注意する。〈かぜを引く一人の陸のひろがりに/鴇田智哉〉風邪で身体は敏感に捉える、空間を表すときに「陸のひろがり」と言う。〈歯を磨く音の聞ゆる彼岸かな/鴇田智哉〉窓を開け放つやわらかな街の季節に。〈はづしたるマスクに鳥の匂ひあり/鴇田智哉〉自分では気づかなかった自分のうちなる鳥の部分について。鳥インフルエンザからの連想か。

電球の中とは寒きところかな 鴇田智哉


blue collar cafe

出口善子『娑羅』角川書店

新城市へ出かける日、出口善子『娑羅角川書店を読む。〈皹の手が犯人を追いページ繰る/出口善子〉犯人を知りたくてページを繰る。冬は紙で手を切りやすいし、手仕事の合間に読んでいるのかもしれない。〈純白の四葩に時間重たかり/出口善子〉「時間重たかり」とは時間に対する実感の密度が濃いこと。〈空席をまた振り返り扇風機/出口善子〉かつてその席にいた人を思い返すかのように。〈わが恵方円錐柱の赤に遮られ/出口善子〉円錐柱にはコーンとルビ、あたかも恵方を塞ぐかのように。〈諭しおり四角い柿を丸く剥き/出口善子〉角のとれた諭し方。〈地震の傷癒え小満の土匂う/出口善子〉小満とは湿潤療法の肉芽のように。

第十二回十湖賞俳句大会受賞句を読む

第十二回十湖賞俳句大会の結果が出た。小学生の部の十湖賞受賞句〈恐竜博士対虫博士休暇明/室内和輝〉に注目、夏休の楽しさをそのまま学校に持ちこんだ休暇明、友人と再会した際の会話の高揚が「対」に表れている。十湖大賞は高校生の部の十湖賞から採られ〈ウミガメを見ている僕も海の中/吉本侑平〉、「も」だから海亀も海の中、夏のあいだに海亀は産卵に浜へ来て海亀の子が孵化し沖へ出る。浜の景であることは確かだけれど海亀の子の景としたら不安とともに旅立つ海亀の子と作中主体が抱く将来への不安とが重なる。一般の部の十湖賞〈噴水は丈の限界超えんとす/木幡忠文〉は噴水が今にも「丈の限界」を超えそうな心中の予感をそのまま表出した。自己の投影でもあろう。中学生の部の十湖賞〈書初めを風呂の鏡で書いた朝/澤口志堂〉は書初を新しく捉えた。その他入選句より、〈盤上の駒は動かず虫時雨/成瀬喜義〉静と騒の対比、〈腹見せて神鳴る空に挑む猫/夏目悠希〉「挑む」と描写して雷と猫の関係をおもしろく捉えている。〈夏の風ホースの水を虹に変え/岡安泰河〉「変え」が科学を超えた詩となっている。〈きみはバラそれにくらべてぼくはこけ/永田理紗〉植物に喩えた自己とも担当植物とも捉えられる点でウナギ文とも呼ばれる日本語の曖昧さを巧く利用している。

風音の映りこむまで墓洗ふ 以太

小林貴子『黄金分割』朔出版

第二十回三汀賞で三輪晶子館長の特選に拙句〈薔薇を手に台詞ひとつもなくて幕/以太〉が採られているのを知った日、小林貴子『黄金分割』を読む。〈ダンスシューズくるりと丸め二月尽/小林貴子〉丸めたシューズのコンパクトさが二月。〈大阪の夜のこてこての氷菓かな/小林貴子〉大阪の繁華街の賑わいのような濃厚さ、フルーツとか。〈どこまでも歩ける靴やチューリップ/小林貴子〉素直な元気さ。〈刳りぬいて南瓜スープを盛る南瓜/小林貴子〉同語の繰り返しだけれど同義の繰り返しとはならないおもしろさがあり〈磯巾着磯巾着と闘へり/小林貴子〉とは少し違う味をもつ。〈一夜にて子供生みたり雪だるま/小林貴子〉喜びのあまり雪だるまは築かれた、とか。〈炎日や売られて黒き豚の面/小林貴子〉面はつらとルビ、まじまじともはや食品、いや神に近い豚の面を見る。〈若葉冷ギターの螺鈿光りかな/小林貴子〉若葉冷や「螺鈿光り」に一九七〇年以前を生き抜いた若者の時代を思わせる。〈霜月や花びらの如ハムを削ぎ/小林貴子〉霜月と豚脂の色彩の調和がある。

ぞんざいな折目ひらけば初蝶に 小林貴子

山川藍『いらっしゃい』角川書店

八階にある谷島屋書店のカフェで山川藍『いらっしゃい角川書店を読む。〈ローソンのドアが手動で開けながら佐藤優の猫のことなど/山川藍〉は〈ローソンのドアが手動で/開けながら〜〉か。どうでもいいけれど佐藤優と猫の写真を見たことがあっても佐藤優の眼力しか思い出せない。〈イヤリング母からもらうなんだこれ中華のたれか何かついてる/山川藍〉中華料理が母との大きな思い出なのだろう。〈無職なる兄の自転車もう四半世紀も自転車をやっている/山川藍〉「自転車をやっている」とはたち漕ぎをされてきたのだ。少年の遠くに行きたい願望をいつも半分だけかなえてきたのだ。帰りも自力で漕がねばならんのだ。〈細胞よ全部忘れろ入れ替われ短い爪で頭を洗う/山川藍〉洗髪中って視覚を制限しているから考えなくていいことも考えてしまう。〈大騒ぎしてすみませんと唐突に言い大騒ぎした人になる/山川藍〉嘘でも言って反応されれば本当になる。〈「全女性」からはみ出してユニクロのブラトップなどおっぱいの蓋/山川藍〉全日本みたいな。〈きんとんの明るい黄色ごと箸を吸えば木の味ばかりするなり/山川藍〉あれすぐ融けてなくなるよね。〈愛知県図書館内に春が来て雑誌一冊読み上げる声/山川藍〉そんな狂気の春だ。

去る人がひとりひとりに置いていくアドレスの無いやさしい手紙 山川藍